なぜ、外に座っているのか?
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送で俄然注目された鎌倉で、ひときわ存在感を放っているのが鎌倉大仏でしょう。
見た目のインパクトもさることながら、開眼から約800年もの悠久を刻み続けてきた、その歴史はいかにも重く。
いったい誰が何の目的で作ったのか?
気になる方は少なくないはず。
北条義時が亡くなったのが元仁元年(1224年)で、鎌倉大仏が開眼供養されたのが寛元元年(1243年)のことですから、始まりは北条泰時以降の時代。
『その後の鎌倉殿の13人』とも言える、鎌倉大仏について考察してみましょう。
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鎌倉大仏の何がスゴいのか?
それは暦仁2年(1238年)3月23日のこと。
昼過ぎから風が吹き、人家までもが薙ぎ倒される暴風の最中に大仏堂事始は実施され、大仏は造られ始めました。
それから約5年の歳月を経て、寛元元年(1243年)に鎌倉大仏の開眼供養が行われます。
北条泰時が亡くなったのが前年、仁治3年(1242年)6月15日ですから、完成した姿を拝んではいないんですね。
当時は今と異なり木製の大仏で、金銅八丈の釈迦如来像が作られ始めたのは建長4年(1252年)8月17日からでした。
メートルに正すと以下の大きさとなります。
像高:約11.39メートル(台座を含めた高さ13.35メートル)
顔の長さ:2.35メートル
重量:約121トン
東大寺大仏は高さ約15メートルで、桁外れの牛久大仏に至っては120メートルもあります。
両大仏と比してこじんまりとはしていますが、何も大きければよいわけでもなく、その材質を考えてみれば驚異的でした。
銅:67%
鉛:24%
錫:8%
鉄:微量
東大寺の大仏は銅が91%ですので、それと比べたら大したことないんでは?と思われるかもしれませんが、実はこの鎌倉大仏、
「宋銭を溶かして作られたのではないか?」
という研究成果があります。
金属比率が酷似しているのです。
はるばる海を越えてやってきた貴重な宋銭を溶かし、大仏にしたのだとすれば、とてつもないこと。
本郷和人教授が監修の『お金で読む日本史』(→link)によれば、現在の価値で約60億円にもなり、それだけの金属を「100円玉を溶かして作った」とイメージするのが近いようです。
つまりは6,000万枚……実取引では使えない悪銭が混ざっていたとしても、凄まじい分量ですよね。
かの平清盛でも成し遂げなかったことを、鎌倉幕府が実現したのです。
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宋の文化が香る鎌倉の象徴
当時最先端の技術を駆使して建造された鎌倉大仏。
その大仏が焼け落ちることもなく、幾たびの天災を乗り越えて修復され、今でも拝める幸せ……というと、ならばなぜ外に座らされているのか?不思議に思うかもしれません。
実は、かつては大仏殿がありました。
それが大地震や津波、その他なんらかの災害によって幾度か倒壊したと考えられ、応安2年(1369年)の倒壊以降は再建されていません。今は基礎となった石のみが残っています。
確かに大仏殿が剥き出しの姿は本来意図したものではないでしょう。
しかし、あの顔がじっと鎌倉を見下ろす景色は味わい深いものであり、中世の人々もそう考えたのでは?と思うと、歴史の流れを感じられて趣き深いものもあります。
鎌倉の文化は、宋の影響が色濃く残されました。
猫背の姿勢で、切長の目という鎌倉大仏の造形も、宋代の仏像らしい特徴。
大陸から伝えられた技術を日本の職人が創意工夫をこらして昇華させたのです。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも造船技師として陳和卿が登場していましたが、それと似たような状況があったのでしょう。
鎌倉の博物館や寺社には、宋代の磁器が残されているだけではなく、由比ヶ浜では磁器の破片が見つかることもあり、鎌倉を代表する「鎌倉彫」も、宋の技術由来とされています。
そんな鎌倉のシンボルに、あの大仏はふさわしいと言えるでしょう。
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では鎌倉大仏は、いったい誰が何のために作ったのか?
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