順徳天皇

順徳天皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

順徳天皇は佐渡へ流されて~承久の乱で父と共に敗れたその生涯とは

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その時、権力が朝廷から武士へ完全に移った

あっという間に膨れ上がった幕府軍は、北陸道・東仙道・東海道の三方から進軍。

乱の勃発からわずか2ヶ月程度で、皇室側は事実上降伏せざるを得なくなりました。

当然そのままでは済まず、後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳天皇は佐渡へ流されることになります。

武士の権力が皇室を完全に上回った瞬間……まさに「歴史が動いた」時ですね。

間に挟まれる形になった土御門天皇は当初お咎めなしだったものの「父も弟も処罰されているのに、自分だけ京にいるなんてできない」と言って自ら流刑を申し出ています。

幕府側も「そこまで言うなら」ということで土御門天皇を流しましたが、京から割と近い土佐(現・高知県)や阿波(現・徳島県)に留めました。

実際は悪いことしてないんだからまるっきり不便なとこには行かせづらいですよね。

土御門天皇への対応にはある程度、皇室へのはばかりが見える気がしますが、当然のことながら首謀者のお二人は帰郷の許しが出るはずもなく、そのまま21年後、配流先で生涯を終えられました。

最後は食を断ち、自害に近いようなカタチだったようです。

加えて、乱の直前に順徳天皇から位を譲られていた仲恭天皇もわずか3ヶ月で廃位されています。

そのせいで明治時代まで「九条廃帝」などの不名誉な名で呼ばれていました。

ジーチャントーチャンのせいで600年も”名無しの権兵衛”扱いとか、ひどすぎるでしょうに……(´・ω・`)

 

佐渡島と隠岐の島とで風流な文通

ちなみに父帝とは配流後も時折手紙のやり取りをしていたらしく、後鳥羽上皇が亡くなった後にこんな歌を詠んでいます。

「同じ世の 別れはなほぞ しのばるる 空行く月の よそのかたみに」

【意訳】同じ世界でも全く遠い場所に流されたというのに、亡くなられた今は一層懐かしく思えてなりません。今宵の月を父上の形見と思って眺めております

元々しょっちゅう顔を合わせるような身分の方々ではありませんが、やはり親子の情は格別だったのでしょう。

室町時代から明治時代まで。

歴代天皇が教科書に出てこないほど影が薄いのは、このときの罰し方があんまりだったので、「もう武士に手出すのやめとこ」と思ったからなのかもしれません。

鎌倉末期(南北朝時代)には後醍醐天皇が頑張ってますが、それも最終的には失敗しておりますし。

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江戸幕府を倒すときにも”御旗”にはなりましたけども、実質的に兵を率いていたのは武士でした。

そういう意味では、後鳥羽上皇と順徳天皇は「天皇家の方針を大きく変えた方である」ともいえそうです。

なお、承久の乱や後鳥羽上皇について、もう少し詳しくお知りになりたい方は以下の記事を併せてご覧ください。

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【参考】
国史大辞典
本郷和人『承久の乱』(→amazon
順徳天皇/wikipedia
やまとうた(→link

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