前九年の役

『前九年合戦絵巻』鎮守府将軍の源頼義と、その息子・源義家が共に参戦/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

前九年の役で源氏が台頭! 源頼義と義家の親子が東北で足場を固める

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父・頼信は「道長四天王」と呼ばれたエリート

勝敗は時の運――とはいえ「取り立てに行ってすごすご逃げ帰ってきた」登任は、当然のように陸奥守をクビになります。

そして、その後任となったのが源頼義でした。

名字から見てもわかる通り、源氏の人です。

ここから枝分かれして、有力武家が登場していきますので、本題から少し離れてしまいますが、系図を見ておきましょう。

前述の通り、源頼朝足利尊氏武田信玄といったスーパー武士たちを輩出しておりますね。

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この頼義の父ちゃんも名を馳せた武士で、かつては「道長四天王」と呼ばれたエリートでした。

頼義も幼い頃から御曹司として、また武士として育てられるのです。

つまり「貴族が行っても拉致があかん。武働きはやはり武士にさせよう」という流れですね。

大役を任ぜられた頼義はさっそく東北へ向かおうとしましたが、ここで時の天皇(後冷泉天皇)の祖母である上東門院こと、藤原彰子が病気になってしまいました。

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平安時代のことですから、エラい人が病気になれば平癒のためにお祈りをします。

また、君主の徳を示し、神仏にお願いを聞いていただくため、大罪人を許す「大赦」というものもたびたび行われました。

このときも大赦の一環として、

「上東門院様のご病気を神仏に治していただくために、安倍氏の罪も許してやんよ」(※イメージです)

ということになります。

安倍氏の当主・安倍頼良(よりよし)もこれを喜び、頼義に詫びを入れるついでに酒食でもてなしました。

また、頼義に感じ入るところがあったのか。

「私のような罪人が、あなたと同じ読みの名前でいることは恐れ多いことです。これからは”頼時”と名乗りますので、今後共よろしくお願いします」(※イメージです)

と名を改めます。

頼義はこれを受け入れ、その後四年間、現地で陸奥守の仕事を務めました。

ここで終わっていたら、この戦いは「前九年の役」とは呼ばれなかったでしょう。

 

前九年の役の本番 いよいよ始まる!?

頼義の任期が明ける天喜四年2月に、事件は起こります。

この間、頼義は「国守」(現代でいう都道府県知事みたいなもの)と「鎮守府将軍」という地方の警察のような仕事を兼任していました。

この2つはそれぞれ拠点が違っていて、鎮守府である胆沢城(現・岩手県奥州市)から、国府の多賀城(現・宮城県多賀城市)へ戻る途中で野営をしていると、とんでもない知らせが入ったのです。

「頼義の部下が、夜討ちに遭って怪我人が出ている!」

さらに、その被害者である藤原光貞はこう言いました。

「以前、安倍の息子の貞任が私の妹と結婚したい、と言ってきたのを断ったことがあります。きっとその逆恨みでこんなことをしたに違いありません!」

現代から見れば「それ、どうなのよ?」という気がします。

頼義は即座に「何だとけしからん! すぐに貞任を呼べ!」と安倍氏に使いを送りました。

しかし、安倍氏はこれを拒否。結果、ドンパチが始まってしまうのです。

ここからが前九年の役の本番ともいえる戦いになります。

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