吉田兼好(卜部兼好)

吉田兼好(卜部兼好)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

現代なら炎上確実?吉田兼好(卜部兼好)の徒然草は生々しい話だらけ

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
吉田兼好と徒然草
をクリックお願いします。

 

徒然草を積極的に広めようとしていない!?

また、二度も関東に下り、鎌倉や金沢(現・横浜市金沢区)に住んでいた時期があります。

ここでも金沢流北条氏との関連がみられ、さらにその所領の関連文書に名前が出てくる倉栖兼雄という人が、兼好の兄弟ではないかと考えられるため、「兼好は武士出身」という説の説得力が増すわけです。

その後、いつ頃京都に戻ってきたのかは不明。

元徳二年(1330年)から翌年にかけて、『徒然草』第三十三段以降を執筆し、建武三年(1336年)頃に編集・加筆作業を行ったようです。

これだけ時間をかけて、しかも自分の手で編集作業をしていたということは、人に見せるつもりがあったということになる――と思うのですが。

その後の兼好は歌人としての活動が多く、『徒然草』を積極的に世に広めようとはしていませんでした。

そのため『徒然草』は、兼好の時代から百年ほど埋もれたままになっていました。

ただ、文章が上手いこともある程度は知られていたようです。

足利幕府のナンバー2・高師直が、とある他人の妻に横恋慕したとき、兼好の筆力を聞きつけてラブレターの代筆を頼んだことがあるとか……。

高師直
高師直は幕府設立の立役者だが!最期は首を取られ胴体を川に捨てられ

続きを見る

この話は太平記に出てくるもので、江戸時代以降好まれて世に広まりました。

やはり真偽は不明ですが、兼好が文筆家としても世に知られていた証左といえるでしょう。

元は足利尊氏の肖像とされ、近年では「高師直」という説が根強い一枚/Wikipediaより引用

 

ネタは公家・武家・僧侶と幅広く

その後、『徒然草』は室町時代から僧侶たちの間で密かなブームになり、江戸時代に出版されて世に知られるようになったとされています。

庶民にもわかりやすい話が多いので、一気に広まったのでしょう。

また、他の本に見られない人物の逸話が多いことも本書の特徴です。

しかも、公家・武家・僧侶といった幅広い人物が登場するのですから余計に面白い。

現代で言えば、著名人のTwitterやブログ、あるいは少し古くて週刊誌連載みたいな感じでしょうか。

中には兼好の時代からはるか昔のことや、人ヅテに聞いた話、兼好が「誤記or勘違いをしていた」と思われる点も含まれますが……それを差し引いても、当時の人々のリアルな生活がうかがえる文章です。

全てをここに載せるのも長くなりすぎますので、登場人物の一口プロフィールとともに、それぞれの段を簡単にご紹介しましょう。

だいたい時代順です。

 

公家

西園寺実兼

・内大臣、関東申次などの経験者

・徒然草の時系列では出家後のため「北山入道」と描かれている

・後述する西園寺実衡の祖父

・第一一八段 実兼が宮中の人材不足を嘆く話

・第二三一段 イヤミのない気の利かせ方について実兼が語った話を聞き、兼好が同意している

日野資朝

後醍醐天皇の側近

・元弘の乱の責任を問われて処刑される

・第一五二段 腰が曲がった老僧を「尊い方だ」と評した内大臣・西園寺実衡に、資朝がイヤミを言う話

・第一五三段 資朝の後半生と性格を簡略して記している

・第一五四段 資朝が身体障害者と盆栽を重ね合わせ、どちらも取るに足らないと嫌悪する話

久我通基(こが みちもと)

・村上源氏久我家の人

・源氏長者

・第一九五段 歳を取って認知症らしき状態になってしまった通基が、奇妙なことをしている姿が描かれている

・第一九六段 神前での作法について、通基の頭がしっかりしていた頃の見識の深さがうかがえる話

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-源平・鎌倉・室町
-

×