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【吉田兼好と徒然草】
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徒然草を積極的に広めようとしていない!?
また、二度も関東に下り、鎌倉や金沢(現・横浜市金沢区)に住んでいた時期があります。
ここでも金沢流北条氏との関連がみられ、さらにその所領の関連文書に名前が出てくる倉栖兼雄という人が、兼好の兄弟ではないかと考えられるため、「兼好は武士出身」という説の説得力が増すわけです。
その後、いつ頃京都に戻ってきたのかは不明。
元徳二年(1330年)から翌年にかけて、『徒然草』第三十三段以降を執筆し、建武三年(1336年)頃に編集・加筆作業を行ったようです。
これだけ時間をかけて、しかも自分の手で編集作業をしていたということは、人に見せるつもりがあったということになる――と思うのですが。
その後の兼好は歌人としての活動が多く、『徒然草』を積極的に世に広めようとはしていませんでした。
そのため『徒然草』は、兼好の時代から百年ほど埋もれたままになっていました。
ただ、文章が上手いこともある程度は知られていたようです。
足利幕府のナンバー2・高師直が、とある他人の妻に横恋慕したとき、兼好の筆力を聞きつけてラブレターの代筆を頼んだことがあるとか……。
高師直は幕府設立の立役者だが!最期は首を取られ胴体を川に捨てられ
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この話は太平記に出てくるもので、江戸時代以降好まれて世に広まりました。
やはり真偽は不明ですが、兼好が文筆家としても世に知られていた証左といえるでしょう。
ネタは公家・武家・僧侶と幅広く
その後、『徒然草』は室町時代から僧侶たちの間で密かなブームになり、江戸時代に出版されて世に知られるようになったとされています。
庶民にもわかりやすい話が多いので、一気に広まったのでしょう。
また、他の本に見られない人物の逸話が多いことも本書の特徴です。
しかも、公家・武家・僧侶といった幅広い人物が登場するのですから余計に面白い。
現代で言えば、著名人のTwitterやブログ、あるいは少し古くて週刊誌連載みたいな感じでしょうか。
中には兼好の時代からはるか昔のことや、人ヅテに聞いた話、兼好が「誤記or勘違いをしていた」と思われる点も含まれますが……それを差し引いても、当時の人々のリアルな生活がうかがえる文章です。
全てをここに載せるのも長くなりすぎますので、登場人物の一口プロフィールとともに、それぞれの段を簡単にご紹介しましょう。
だいたい時代順です。
公家
西園寺実兼
・内大臣、関東申次などの経験者
・徒然草の時系列では出家後のため「北山入道」と描かれている
・後述する西園寺実衡の祖父
・第一一八段 実兼が宮中の人材不足を嘆く話
・第二三一段 イヤミのない気の利かせ方について実兼が語った話を聞き、兼好が同意している
日野資朝
・後醍醐天皇の側近
・元弘の乱の責任を問われて処刑される
・第一五二段 腰が曲がった老僧を「尊い方だ」と評した内大臣・西園寺実衡に、資朝がイヤミを言う話
・第一五三段 資朝の後半生と性格を簡略して記している
・第一五四段 資朝が身体障害者と盆栽を重ね合わせ、どちらも取るに足らないと嫌悪する話
久我通基(こが みちもと)
・村上源氏久我家の人
・源氏長者
・第一九五段 歳を取って認知症らしき状態になってしまった通基が、奇妙なことをしている姿が描かれている
・第一九六段 神前での作法について、通基の頭がしっかりしていた頃の見識の深さがうかがえる話
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