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【鎌倉武士の衣食住・武芸・刀剣甲冑】
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小袖(こそで)
直垂の下に着る服として生まれました。
現代の着物に近いものです。
当初はインナー扱いで、人に見えないように着るものでしたが、次第に「見えてもオシャレ」になるような工夫が施されるようになりました。
そもそも白い小袖は公家社会では下着扱いだったので、色や模様を入れて「下着じゃないですよー」とわかりやすくしたのがはじまりだといわれています。
現代でいえば、キャミソールみたいなものでしょうか。
一昔前までは完全に下着としてしか使われていませんでしたが、近年ではTシャツなどと同じように、一枚で着ている人もいますよね。
人の行動・考え方は1,000年前も大して変わらない……ということでしょうか。
また、武家の女性は公家社会で使われていた袴を「動きにくいから」という実用的な理由で着なくなったといわれています。
小袖が発達したのは、こちらの理由もあるでしょう。
服の色については、紺や紅色、山吹色、濃い蘇芳色、茜色などが好まれていたようです。
紺色はおそらく「勝色(かちいろ)」と呼ばれる少しグレーがかった紺色のことだと思われます。元は「褐色」と書いており、麻の布に藍の染料を叩き込んで染めた色のことです。
この叩き込む作業のことを「搗つ(かつ)」と呼んでおり、これが「勝つ」に通じて縁起が良いということで、武士に長く好まれました。
鎧にも勝色の糸を用いた「勝色威(かついろおどし)」というものがあります。
山吹色が好まれたのは、当時、この色を染めるのに使われていたと思われる、キハダという木が日本全土に広く自生しているからだと思われます。
染料がないと好き嫌い以前の問題ですしね。
他の色も同様に、茜色はアカネ(赤根)、蘇芳色はスオウ、紅色は紅花で染めていましたが、どれも鎌倉時代以前から日本で広く自生、もしくは栽培されていた植物です。
折烏帽子
他に武士特有のものとして、「折烏帽子(おりえぼし)」があります。
武士も最初の頃は貴族のような烏帽子をかぶっていたのですが、これにも強く糊付けをした結果、ずり落ちやすくなってしまいました。
そこで、髷(まげ)の部分だけをやや高く残すような形で烏帽子を折ったのが折烏帽子です。
武家は実用主義とよくいわれます。
服装の変遷については、特に実用性が重視されていたことがわかりますね。
しかし、彼らも慣れないながらにオシャレをして文化人・為政者らしくなろうと務めたようで。
元女官の尼僧が書いた『とはずがたり』という自伝にも「武士たちは色とりどりの直垂で鶴岡八幡宮に参詣している」と書かれています。
もっともこれは、神様の前に行くのに神事に使う「浄服」でないことに驚いた――そんな文脈で書かれていますが。
いずれにせよその個性の一面が出ていますよね。
次は「食や武具」に注目です!
食
【運動量が多い=エネルギーが多く必要&塩分摂取が不可欠】ということで、武士の食事の基本は【大量の米+しょっぱい】ものでした。
このころ羽つきの釜が登場したため、米の炊き方も変わってきています。
平安時代までは炊くという方法がなく、うるち米ももち米のように蒸していました。そのため、現代のおこわのような「強飯(こわいい)」という固いご飯が主流でした。
現代でいう「ごはん」は「姫飯(ひめいい)」といって、特別な日にしか食べられないごちそうだったのです。
年始の「姫始めの由来は、その年で最初に姫飯を食べる日だ」という説もありますね。
鎌倉時代には「湯取り法」といって、お米を釜で煮て、沸騰した後にザルに上げて重湯を切り、蒸すという方法ができました。
ただし、武士社会でどこまで手間を掛けていたかというと、家や個々人の差が大きかったでしょうね。
武士は「戦のときには一日五食」なんてのも珍しくありませんし、この時代は、白米より玄米、そして100%米の飯よりも、雑穀を混ぜて食べるほうが多かったですから。
おかずは味噌や醤(ひしお)などの他、武芸の鍛錬として野生の鳥獣を狩っていたので、それらを食べることも多く、栄養バランスは比較的良かったと思われます。
……まあ、そうでもないと鎌倉幕府の内輪であんなに「ナントカの変」だの「誰それの乱」だのは起きませんよね。みんな健康的すぎ。
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