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【源為朝】
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肘を外され伊豆へ流罪 傷が癒えるとすぐに復活!
源為朝は逃げに続け、現在の滋賀県坂田郡に潜んだといわれています。
しかし、湯治をしていたところを追手に襲われて捕まってしまいました。
乱の直後ではなく、しばらく経っていたためか「弓を引けなくなるようにする代わりに、命だけは助けてやろう」という比較的寛大な処分になります。
具体的には「肘を外して伊豆大島に流刑」というものです。
この刑を決めた人は「外す程度じゃすぐ治るだろう」とか思わなかったんですかね。
案の定、為朝は傷が癒えると、伊豆大島の代官の娘婿となり、伊豆諸島に一大勢力を築きあげます。
為朝は伝説の多い人なのですけれども、この時期のものには「鬼ヶ島から大男を連れ帰った」という話まであります。まるでゴジラvsメカゴジラみたいな対決やで……。
もちろん、朝廷もいつまでも放ってはおきません。
伊豆から逃れて初代琉球王になった説
保元の乱から14年経った嘉応二年(1170年)、とうとう討伐命令が出されました。
攻め寄せる官軍に対し、源為朝は「抵抗しても無駄」と考え、当時9歳だった息子・為頼を刺し殺します。
捕まれば斬首されると思ってやったのでしょうが、なんとも言えない気持ちになりますね……。
為朝は最期に一矢を報いようと、討伐軍の船に矢を放ちました。
すると300人ほどを乗せた官軍の船がたちまち沈んだといいます。
やぐらか何かに登って、船が上陸する前に沈めまくってたら、それこそ無双状態で勝てたかもしれませんね。って、無理か。
最期の戦果を見て満足した後、為朝は館に帰って柱を背にし、腹を切ったといわれています。
こういう経緯なので、自害の日付や年には諸説あるのですが、今回は国史大辞典にも掲載されているこの日(3月6日)として扱わせていただきました。
乱暴者といわれている割に伝説が多いのは、庶民からの人気があったからなのでしょう。
それを裏付けるかのように、為朝には複数の生存説があります。
中でもダイナミックなのは「伊豆から逃れて琉球に流れ着き、初代琉球王になった」というものです。オイオイ。
また、為朝の子供が落ち延びて存続したという話もいくつかあります。
豪快な生涯を送ったことは間違いないですし、後世から見る限りでは小気味の良い人物ですね。
直接関わるのは怖い限りですが。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
上横手雅敬『源平争乱と平家物語 (角川選書 (322))』(→amazon)
中丸満『源平興亡三百年 (SB新書)』(→amazon)
源為朝/wikipedia