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【源為朝】
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あの清盛も「どんなバケモノだ!」と震え上がる
源為朝の夜襲が却下されると、崇徳上皇と頼長がこもる白河北殿に義朝が夜襲を仕掛けてきました。
公家たちは慌てて為朝の機嫌を取り、対処してもらうために官位を与えようとしますが、為朝は跳ねつけます。
それでいて実は武働きをちゃんとしていて、ぶっとい矢で敵を射抜いてビビらせています。
天皇方がその矢を持ち帰ると、平清盛は「こんな矢を放てる為朝とはどんなバケモノなのだ」と震え上がったとか。

平清盛/wikipediaより引用
後に怖いもの知らずな言動をする清盛も、この頃はそんな可愛げがあったんですね。
その嫡子・平重盛は奮起して戦いを望んだのですが、清盛が必死に止めたのだとか。
他の武士が為朝に挑んで見事返り討ちに遭っているので、清盛の判断は正しかったといえます。
為朝は、自分の元部下で義朝についた鎌田政清も、容赦なく斬り込みをかけて追い返しました。
兄・義朝の兜を狙って矢を放つ
政清は逃げ帰って義朝に救援を頼みます。
戦況を聞いた義朝は「馬上なら関東の武士が上手のはず」と意気込んで、騎兵200を率いて弟と戦いました。

源義朝/国立国会図書館蔵
このときの源義朝&源為朝兄弟の言い合いがいろんな意味で面白いです。
義朝「陛下の勅命があるから退散しろ」
為朝「こちらは院宣を受けているのだ」
義朝「兄に弓を引くか」
為朝「父(為義)に弓を引いているのは兄上だ」
まさに「ああ言えばこう言う」状態。だから源氏って……。
二回も言い返されて義朝も辟易したらしく、そこでいったん口喧嘩は終わりましたが、数で劣る為朝軍は次第に押され始めます。
そこで頭である義朝を威嚇しようと考え、為朝は義朝の兜を狙って弓を放ちました。
矢は見事兜に刺さりますが、義朝はひるみません。
ここでも義朝は「噂通り乱暴なやつだ」と罵り、為朝は「お望みとあらば、もう一度どこにでも当ててみせましょう」と挑発し返したそうで……子供かっ!
口では為朝が勝ちました。
しかし、後白河天皇に火攻めの許可を得た義朝は火をかけ、白河北殿は大炎上。
上皇方は大混乱に陥り、武士たちも散り散りになります。
上皇と頼長が脱出できたのは不幸中の幸い……と言っていいんですかね。

藤原頼長/Wikipediaより引用
為義は息子たちとともに東国で再挙しようとも考えたそうですが、諦めて頭を丸め、降伏を選びます。長男の情けに賭けたようなのですが、その期待はあえなく裏切られました。
一方、為朝は「いや、兄上が、自分たちを助けようなんて思わないだろ!」と主張していたんですけどね。
肘を外され伊豆へ流罪 傷が癒えるとすぐに復活!
源為朝は逃げに続け、現在の滋賀県坂田郡に潜んだといわれています。
しかし、湯治をしていたところを追手に襲われて捕まってしまいました。
乱の直後ではなく、しばらく経っていたためか「弓を引けなくなるようにする代わりに、命だけは助けてやろう」という比較的寛大な処分になります。
具体的には「肘を外して伊豆大島に流刑」というものです。
この刑を決めた人は「外す程度じゃすぐ治るだろう」とか思わなかったんですかね。
案の定、為朝は傷が癒えると、伊豆大島の代官の娘婿となり、伊豆諸島に一大勢力を築きあげます。

源為朝/wikipediaより引用
為朝は伝説の多い人なのですけれども、この時期のものには「鬼ヶ島から大男を連れ帰った」という話まであります。まるでゴジラvsメカゴジラみたいな対決やで……。
もちろん、朝廷もいつまでも放ってはおきません。
伊豆から逃れて初代琉球王になった説
保元の乱から14年経った嘉応二年(1170年)、とうとう討伐命令が出されました。
攻め寄せる官軍に対し、源為朝は「抵抗しても無駄」と考え、当時9歳だった息子・為頼を刺し殺します。
捕まれば斬首されると思ってやったのでしょうが、なんとも言えない気持ちになりますね……。
為朝は最期に一矢を報いようと、討伐軍の船に矢を放ちました。
すると300人ほどを乗せた官軍の船がたちまち沈んだといいます。
やぐらか何かに登って、船が上陸する前に沈めまくってたら、それこそ無双状態で勝てたかもしれませんね。って、無理か。
最期の戦果を見て満足した後、為朝は館に帰って柱を背にし、腹を切ったといわれています。
こういう経緯なので、自害の日付や年には諸説あるのですが、今回は国史大辞典にも掲載されているこの日(3月6日)として扱わせていただきました。
乱暴者といわれている割に伝説が多いのは、庶民からの人気があったからなのでしょう。
それを裏付けるかのように、為朝には複数の生存説があります。
中でもダイナミックなのは「伊豆から逃れて琉球に流れ着き、初代琉球王になった」というものです。オイオイ。
また、為朝の子供が落ち延びて存続したという話もいくつかあります。
豪快な生涯を送ったことは間違いないですし、後世から見る限りでは小気味の良い人物ですね。
直接関わるのは怖い限りですが。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
上横手雅敬『源平争乱と平家物語 (角川選書 (322))』(→amazon)
中丸満『源平興亡三百年 (SB新書)』(→amazon)
源為朝/wikipedia