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【九条兼実】
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三重苦の人生
性格は生真面目。
先例にのっとった儀礼を心がけ、神経が細やかな九条兼実。
そんなエリート貴族の彼にとって、憂鬱な時代が目の前にあらわれました。
平家の専横です。
【保元の乱】と【平治の乱】に勝利した平家は、向かうところ敵なしとばかりに自分たちの政治を強行。
平治の乱で勝利を収めた清盛の政治力~源平の合戦というより政争なり
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そんな兼実の思いを知ってかどうか、後白河院は平清盛に接近します。
弾指すべし――恥を知れ!
兼実は、平家に擦り寄る周囲を軽蔑し、記録にも残しましたが、彼だけその風潮に抗うこともできません。
せめてもの反発として記録にとどめ、表面的には平家の要求を呑むしかありませんでした。
さらに、兼実が仕える後白河法皇も、最悪の主君といえました。
なにせ皇子の頃から喉を潰すほど今様に夢中になり、まともな政はやらない。遊んでばかりの不真面目な人物として悪名高いのです。
遊び方もハンパじゃない後白河法皇~血を吐くほど今様を愛し金銀でボケる
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極めて真面目で儀礼にこだわり、ミスは許さない完璧主義者――そんな兼実と相性が良いわけありません。
しかも兼実は持病に悩まされていました。
・平家の台頭
・ちゃらんぽらんな後白河院
・癒えぬ持病
そんな三重苦によるストレスの溜まる日々が続いていたのです。
清盛と聖子の死
時代は末法――気候変動が起き、仏の救いもないとされるほどの動乱へ突き進んでゆきます。
当時を生きていた人々には知る由もありませんが、気候変動が生活を不安定化していました。
平家を驕らせ源平合戦を激化させたのは気候変動か?人は腹が減っても戦をする
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驕る平家も続きません。
安元3年(1177年)に【鹿ケ谷の陰謀】が起こると、怒り心頭の平清盛により、事件に関与したとされる公卿も処断。
この年、安元から治承に改元されます。
そしてこの治承4年(1180年)こそ、運命の始まりでした。
以仁王が挙兵し、それに呼応した源氏と反平家勢力もまた立ち上がったのです。
九条兼実より2歳年上の源頼朝も、北条氏と共に伊豆で兵を起こしました。
以仁王とそれに呼応した源頼政は、あっけなく敗死するも、兼実には何か予感があったようです。
そんな中、平清盛はよりにもよって福原遷都を強行。
公卿が参仕しようにも、泊まるべき場所すらないお粗末な内容で、こんなことが成立するものか?と、冷たい目線を投げかける兼実でした。
清盛側も兼実の体調を慮り、無理することはないという態度を取っています。
兼実は冷静に世を見ていました。
こんなにも乱れている元凶は清盛では?
平家は凋落と共に強引な振る舞いが増えてゆき、兼実にも影響が及びます。
兼実はそんな平家を憐れむどころか、冷たい目線を投げかけていました。
そして清盛はついに【南都焼討】という強引なことまでやらかします。
南都焼討を実行した平重衡~なぜ清盛は東大寺や興福寺を潰した?
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寺社勢力の押さえ込みを狙ったものの、平家の凋落は止まらず、程なくして清盛は熱病に倒れてしまいました。
治承5年閏2月4日(1181年3月20日)、兼実は清盛の死を淡々と短く記していました。
平家を軽蔑していた胸の内が見えるようで、ことさら高熱を強調することも、祟りだと嘲笑うこともなく、冷徹にその死を記しています。
兼実にとって打撃だったのは、同年12月、皇嘉門院聖子が崩御したことでしょう。
異母姉である彼女は猶子とした兼実を何かと気にかけていました。
母であり姉であるような存在、その喪失は痛恨の極みでした。
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