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【九条兼実】
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法住寺合戦
寿永2年(1183年)――木曽義仲が兵をあげ、都へ押し寄せました。
そうして都落ちする軍勢が九条兼実の邸宅のそばを通ってゆきました。
代わって京に入った義仲の軍勢は狼藉におよぶ。その義仲を倒すべく、東から源頼朝の弟である範頼と義経が迫ってくる――。
末法としか言いようがない噂が広まる中、兼実の耳に信じがたい報告が入ります。
義仲が、後白河院の御所を襲撃したというのです。
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唖然として祈るしかない兼実。
後白河院の危難を救ったのは神仏ではなく、押し寄せた源範頼と源義経の軍勢でした。
カオスとはこのこと。後白河法皇は義仲や義経に院宣を出しては変更――という一貫性のない行動をとっており、武士たちも翻弄されていました。
このころ、兼実は病気を理由に出仕を拒んでいました。
文治元年(1185年)10月、後白河院は源義経の要請により、源頼朝追討の院宣を下します。
しかし義経が没落するや、今度は義経追討を言い出す。
兼実にとっては、とても見てられない朝三暮四が続きます。
それでも文治2年(1186年)、念願の摂政・氏長者となった兼実は、政務に前向きになってゆきます。
平家が滅んだあと、世を正す使命感があったことでしょう。
氏長者を宣下され、前向きに取り組んでいた兼実――この文治年間が彼にとっては充実していた日々と思われます。
対立していた後白河院ともやや改善した気配が見られます。
そして文治5年(1189年)、娘の任子が後鳥羽帝に入内を果たします。
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このとき任子は18歳、帝は8歳。
女子を后とすることで権力を握る――兼実はそんな前例を踏襲しようとしたのです。
しかし、藤原道長の時代とは違います。この一見、満月のような栄華には、すぐさま亀裂が入ってしまう。
兼実へ反発する公卿の動きが活発化していました。
後白河院崩御からの暗転
文治5年(1189年)は、鎌倉方にとっても重要な年でした。
奥州合戦で源頼朝が奥州藤原氏を討ち果たしたのです。もはや後顧の憂いはなくなり、建久元年(1190年)、頼朝は念願の上洛を果たします。
そして九条兼実と対面します。
武士の頂に立つ頼朝。
公卿の頂に立つ兼実。
二人は手を携え、後白河院と後鳥羽帝を支えると語り合ったとされますが、両者が仲睦まじいわけもありません。
頼朝は娘の大姫入内を狙っていました。
となれば、兼実の娘である任子と寵愛を争うことになる。頼朝はむしろ反兼実派に接近しており、そうしたパワーゲームにより兼実の地位は脅かされてゆきます。
頼朝の腹心には、大江広元もいます。
明経道をおさめた秀才ながら、下級貴族であったがために不遇をかこっていた人物。
兼実のもとで働いていたこともありました。
この、朝廷に通じたブレーンを抱えていた頼朝は、どう振る舞えば政敵を追い落とせるか、ノウハウを学んでいても不思議はありません。
そして建久3年(1192年)――後白河院が崩御しました。
この無茶苦茶な法皇と、その寵姫である丹後局に振り回されてきた兼実。
彼は後白河院の仏教への傾倒を、梁・武帝蕭衍(しょうえん)になぞらえていました。信仰にかまけて政治的混乱を招いた君主であり、要は皮肉ったものでしょう。
しかし、この悩みのタネだった後白河院の崩御が、皮肉にも兼実の失脚を決定づけます。
後白河院からの世代交代をはかる若き後鳥羽帝にとって、前例にこだわる兼実は悪しき権威と保守の象徴とされました。
藤原道長時代を懐かしむ兼実の居場所なぞ、才気煥発な若き帝にとっては必要なかったのです。
一方、頼朝は大姫入内をめぐり、丹後局に接近。
頼朝の妻である北条政子と丹後局が政局を語り合うような局面が実現し、兼実に出番はなくなります。
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兼実は娘・任子が中宮となり、子を産む栄華ばかりを見ていて、頼朝の朝廷接近を見落としていたようです。
まさか東夷(あずまえびす)の武士風情が、こうも朝廷内部に踏み込んでくるとは、予想ができなかったのかもしれません。
しかも、その任子にせよ、待望の男児を産むことはできませんでした。
有職故実は通じない
建久7年(1196年)11月、兼実は足元をすくわれるようにして関白の座を追われると、もはや政治の表舞台に復帰することはありませんでした。
妻に先立たれ、建仁2年(1202年)には出家を果たすのです。
そして5年後の建永2年(1207年)、その人生を終えたのでした。
享年59。
九条兼実は時代の変わり目に翻弄され続けました。
彼が残した膨大な日記はじめ記録は、当時の姿を伝える貴重な文献として、今日も重宝されています。
兼実は幼くして、叔父の藤原頼長が流れ矢に当たり亡くなるという、前代未聞の惨事が摂関家で起きています。
さらには平家の台頭とその横暴。
南都焼討。
自邸のすぐそばを通り都落ちする平家。
木曽義仲が後白河院を襲う未曾有の事態。
頼朝を追討しろと言った舌の根も乾かぬうちに、義経追討を言い出す後白河院。
その寵愛を受け政治にまで口を挟む妖婦・丹後局。
東から上洛し、兼実の足元をすくう源頼朝。
その背後に見え隠れする大江広元。
兼実は有職故実に通じた優秀な人物でした。
しかし、相手があまりに手強かった。
前例を参照し政治を行う摂関家の兼実にとって、何もかもが未曾有のことばかりでした。
信じがたい、ありえないこと尽くし。それが兼実の人生だったのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
加納重文『九条兼実: 社稷の志、天意神慮に答える者か(ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
他