後鳥羽上皇

後鳥羽上皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

なぜ後鳥羽上皇は幕府との対決を選んだ?最期は隠岐に散った生涯60年

延応元年(1239年)2月22日は、後鳥羽上皇が配流先の隠岐国で亡くなられた日です。

承久の乱】という、インパクトのデカいエピソードを持っているため、歴代天皇や皇族の中でも記憶に残っている方が多いのではないでしょうか。

一人の人物としてみていくと、意外と親近感や人間くささを感じさせる方でもあります。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、落ち着いた所作で頭脳キレッキレ……かと思えば、ラストは文覚にからまれ情けなさも見せていた姿を尾上松也さんが演じていますね。

史実ではどんな人物だったのか。振り返ってみましょう。

 


神器なしで即位した3歳の後鳥羽天皇

後鳥羽天皇が生まれたのは、治承四年(1180年)7月14日のこと。

いわゆる”源平の合戦”が本格化しようとしていた頃です。

なにせこの年だけでも、以下の通りの慌ただしさ。

5月 以仁王が挙兵して敗死

6月 平家が福原へ遷都したため、祖父の後白河法皇や父の高倉上皇、そして兄の安徳天皇も同地へ移動

8月 源頼朝が挙兵

皇室の習慣として、お産に際して后妃(こうひ)は宮中を出て、実家もしくは準ずる貴族の屋敷に下がる習わしがあったため、後鳥羽天皇は遷都に巻き込まれなかったようです。

さらに寿永二年(1183年)には平家が異母兄の安徳天皇を伴って都落ちしたため、後白河法皇により後鳥羽天皇の即位が決定されました。

しかし、平家により三種の神器が持ち去られていたため、これを理由に反対する声もあったようです。

後白河法皇としても頭の痛いところで、占いをしてみたり、公家・学者への下問を重ねて検討したり、慎重に動いています。

そして悩み続けた結果、「神器なき即位」が朝廷で承認され、後鳥羽天皇が即位しました。

ただし、”神器なき即位”はその後も後鳥羽天皇自身と公家たちの間で精神的に尾を引くことになります。

また、平家とともに沈んだとされる天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ・草薙剣など異名多々)だけは、何度捜索しても見つからなかったとされています。

 


天叢雲剣は武力の象徴だからこそ

時系列が飛んでしまいますが、後に、後鳥羽天皇の息子である順徳天皇が承元四年(1210年)に践祚したときのこと。

平家が三種の神器を持ち出す前に、後白河法皇が伊勢神宮から献上されていた剣を代わりにしています。

後鳥羽天皇は、その2年後にも天叢雲剣の探索をさせているあたり、諦めきれなかったようです。

三種の神器には複数の形代があるといわれていますが、当時、喪失してしまうのは空前絶後のことで、トラウマやコンプレックスの種になってしまうのも仕方のないでしょう。

なんせ天叢雲剣は「天皇の武力の象徴」とされているものです。

正式な武力の象徴を持たなかった後鳥羽天皇が、後に武家のまとまりである鎌倉幕府に敗れた……というのは、なかなかに皮肉な史実ですね。

時系列を後鳥羽天皇の即位直後に戻しましょう。

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18歳で譲位 三代にわたって院政を行う

前述の通り、後鳥羽天皇は3歳という幼児で即位したため、しばらくの間は後白河法皇が院政を行いました。

そして文治元年(1185年)に平家は壇ノ浦で滅亡、安徳天皇も入水という結果に終わります。

まだ5歳の後鳥羽天皇は、顔も見たことのない異母兄の最期をどう思ったのか……。

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建久元年(1190年)1月になると、後鳥羽天皇は元服し、摂政だった九条兼実の娘・任子を中宮にしました。

これにより兼実は天皇の舅として権力をふるうようになります。

一方、関東で新たな政権を作り始めた源頼朝も接近してきました。

同年秋に頼朝が上洛し、後鳥羽天皇にも拝謁。

頼朝の娘・大姫が後鳥羽天皇と釣り合う年頃であり、後白河法皇の寵姫・丹後局への牽制にもなることが大きかったでしょう。

残念ながら大姫は程なくして亡くなり、代わりに妹の三幡(乙姫)の入内が計画されました。

しかし、頼朝が建久十年(1199年)1月に、三幡本人も同年6月に亡くなったため、この話は流れています。

もしもここで後世にいうところの「公武合体」が起きていれば、その後の朝幕関係、ひいては日本史が大きく変わっていたかもしれませんね。

建久三年(1192年)には後白河法皇が薨去し、後鳥羽天皇にとって摂政である九条兼実の力が強まります。

任子との間に皇女・昇子内親王が誕生しましたが、兼実からすれば外戚としての地位は見込めません。

二人の間に子供ができることが証明されただけでも、まずは御の字といったところだったでしょう。

兼実は親幕派でもありました。

源頼朝の将軍就任に骨を折ったり、頼朝の娘を入内させる算段をつけたり。

ここまで露骨だと、後鳥羽天皇や他の貴族たちからは煙たがられます。

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その筆頭が、土御門通親(つちみかど みちちか)という貴族でした。

土御門通親は公家である村上源氏の出身で、源通親ともいいます。

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通親もまた養女・在子を後鳥羽天皇に入内させており、後鳥羽天皇の血を引く子供の誕生を心待ちにしていました。

そして、在子が後鳥羽天皇の皇子(のちの土御門天皇)を出産したことにより、通親は「将来の天皇の祖父」という揺るぎない地位を手に入れます。

つまりは

通親>>>兼実

という力関係ができたわけです。

兼実とその娘である中宮・任子は朝廷から追われることになります。

後鳥羽天皇は18歳で、わずか3歳の第一皇子・土御門天皇に譲位し、その弟・順徳天皇、順徳天皇の息子・仲恭天皇の三代にわたって院政を行いました。

外戚・通親の権勢を抑えるためでもあったのでしょう。

当時は院政こそ望ましい政治形態だと思われていた時代でした。

「上皇が政治、現職の天皇が儀式を受け持つことでバランスが取れる」という考えですね。

おそらく、次世代が若い(幼い)うちに譲位しておけば、後継ぎとなる皇子が現職の間に産まれる可能性が高まり、皇位継承がスムーズになるという意図もあったのでしょう。

当時の乳幼児の死亡率からすれば、一人どころか二~三人候補者がいても、疫病などで全滅……ということも珍しくありません。

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