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【北条朝時】
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艶書不祥事で罰せられ
北条朝時の両親は、艶書(ラブレター)のやりとりを経て結ばれました。
父の義時が美しい姫の前(比奈)に惚れこみ、何度も艶書を送り続け、一向に進展しない様子を見かねた源頼朝が仲介して結婚に至ったのです。
この艶書作戦に影響を受けたのか。
息子の朝時は大失態をやらかします。
建暦2年(1212年)、満20歳の若い朝時は、御所にいる女官に心を奪われました。
佐渡守親康の娘であり、前年に京都から来ていた御台所(千世)に仕えていました。
父と同じく、しつこく艶書を送り続ける朝時。
しかし相手から色好い返事は貰えません。
こうなったら……朝時は夜になると相手の部屋に忍び込んでゆきます。
義時は我が子を義絶し、駿河国富士郡に蟄居させます。
朝時は、政治の中心地である鎌倉から追い払われてしまいました。
父と兄を支え、承久の乱では北陸から進軍
その後、北条朝時にとっては失意の日々。
鎌倉にとっては、平穏な日々が続いていたのも束の間、朝時追放の翌建暦3年(1213年)、鎌倉に激震が走ります。
有力御家人である和田義盛の一族が北条義時に対して反旗を翻したのです。
いわゆる【和田合戦】であり、鎌倉の市街に戦火が広がる、大規模な反乱でした。
いきおい朝時も呼び戻され、兄の北条泰時と共に出陣。
和田一族で随一の武勇とされた朝比奈義秀と戦い、負傷しつつも奮戦すると、その勇姿が認められ、御家人としての復帰を許されます。
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そもそも北条義時にしても、父の北条時政を追放してすぐに二代目執権として強権を揮ったわけではありません。
侍所別当だった和田義盛――その義盛が討死して、侍所と政所の別当を義時が兼任することにより軍事と政治の両面で頂点に立ったのです。
信頼できる味方は一人でも多い方が良い義時にとって、朝時もまた貴重な存在となり、和田義盛との一戦は北条一族の結束を盤石にする契機となりました。
そんな父の期待に応えたかったのでしょうか。
承久3年(1221年)に【承久の乱】が勃発すると、
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北条朝時は北陸道大将軍として四万騎を率い、佐々木信実・結城朝広とともに越後・越中を転戦、後鳥羽上皇サイドの官軍を撃破します。
上洛後も戦い続け、程なくして勝利を得ました。
※ちなみに義時の盟友である三浦義村は【承久の乱】で弟の三浦胤義が敵に回り、悲劇的な死へ追い込んでいます
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朝時は、この功績を評価され、北陸道にある加賀・能登・越中・越後の守護を担当。
嘉禄元年(1225年)には越後守となりました。
父の義時が死ぬと、今度は兄・泰時を支え、仁治3年(1242年)には兄弟揃って出家し、生西と号しました。
そして寛元3年(1245年)に享年53で世を去るまで幕府を支え続けます。
結果、朝時は名越流の祖となるのですが……いかがでしょう?
ゲスなキャラ全開で出ていたドラマと、いささか印象が変わってきませんか?
これは一体どういうことなのでしょう。
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