歴史というと、クーデターや戦争など、政治外交のド派手な事件に目が行きがち。
しかしその一方で「大事件が起こる寸前だった……」というものも当然存在します。
文永二年(1265年)4月23日は、伏見天皇が誕生した日。
日本史の授業では武家政権ができてから幕末まで、天皇に関することをほとんど習いませんが、実はこの方の時代にかなりヤバイ出来事がありました。
まずはその背景から見ていきましょう。
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後深草天皇と亀山天皇から確執が
この頃の皇室は、ちょっとしたお家騒動になりかけていました。
【次の天皇を誰にするか?】
この点について伏見天皇の父・後深草天皇と、その弟・亀山天皇の間で確執が生まれたのです。
なかなか決着がつかず、間に入った鎌倉幕府は次のように提案します。
「お互いのお血筋の方で、交互に皇位についてはいかがでしょう?」(意訳)
要は【順番】で天皇を出していこう、ということですね。
その結果、後深草天皇の子孫たちが「持明院統」と呼ばれ、亀山天皇の子孫たちが「大覚寺統」と呼ばれることになりました。
それぞれ縁のある「お寺の名前」から「持明院統」「大覚寺統」と呼ばれました。
後の南北朝時代の争乱まで繋がる「両統迭立(りょうとうてつりつ)」の始まりです。
伏見天皇が取り決めを無視
後世の人間にとっても覚えにくくて大変困りますが、もちろん当時もこの状態は好ましいものではありませんでした。
前述のヤバイ事件というのも、その関連で起きたものです。
伏見天皇は持明院統ですから、取り決め通りに行くのなら、次は大覚寺統の人を皇太子に指名しなくてはなりません。
が、伏見天皇はそうせず、自分の息子を皇太子にしてしまいます。
大覚寺統から見れば「約束が違うじゃないか!」と思うのも無理のない話です。
しかし、伏見天皇からすれば「元々皇位は原則直系で続いていくものなのだから、自分の息子がいるのに両統迭立なんて状態のほうがおかしい」わけです。
両統迭立状態になったのも、元はといえば後深草天皇・亀山天皇両方の父である後嵯峨天皇が亀山天皇を偏愛したからで、いつの時代もこうしたトラブルは絶えませんね……。
伏見天皇も当然、その理由を知っていたでしょう。
となれば「お祖父様が変なことしたせいで今めちゃくちゃになってるんだから、私の代から元に戻さなければ!」という考えになったとしても、おかしなことではありません。
こうして静かな火花が散る中で、前代未聞の事件が起きます。
伏見天皇が「暗殺され……かけた」のです。
「伏見天皇はドコにいる!?」
武装した男たちが御所に押し入り、天皇の寝室がどこか女官に尋ねました。
普通、暗殺って、そういうことを下調べしてからやるものだと思うんですが(´・ω・`)
この通り実行犯がマヌケだったおかげで、伏見天皇は助かりました。
寝室の場所を聞かれた女官が機転を利かせ、全く違う場所を教えて撹乱している間に急いで伏見天皇へ言上し、事なきを得たのです。
この事件を「浅原事件」と呼びます。
もし一歩間違っていたら、伏見天皇は「暗殺された天皇」として有名になっていたかもしれません。
また、対外関係においても重大な悪影響を及ぼすところでした。
浅原事件が起きたのは、正応三年(1290年)です。
モンゴルに攻めこまれた「文永および弘安の役=元寇」が終わってから、そんなに年数が経っていないということになります。
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そんな時期に天皇が暗殺され、皇室が二つに割れ、幕府や武士がそれぞれに味方して内乱状態にでもなっていたら、「内乱やってるなら今度こそ勝てるだろ」とばかりに、三たび元が攻めてくるかもしれません。
怖い話ですね。
だいぶ話がそれてしまいました。伏見天皇に戻りましょう。
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