殺伐とした展開が続いた大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、屈指の癒し系と見なされていた和田義盛。
横田栄司さん演じる熱血漢で、すぐにカーッ!となったかと思えば、武士としての矜持と、女性に対する優しさも持ち合わせていて、どうにもこうにも憎めない。
だからこそ、彼の最期を知ったときには多くのファンが嘆かれたことでしょう。
義盛の最期だけは直視できなかった!
タイトルになった十三人の中でも、とりわけムゴくて見ちゃいられない破滅を迎えてしまう――その戦いとなったのが【和田合戦】です。
義時と対立した義盛が鎌倉を舞台に暴れ回り、そして討死する。
鎌倉幕府創成期ならではの抗争ではあります。
しかし、義盛を追い詰めた北条義時と、裏切った三浦義村のやり方があまりに陰惨。
では一体どんな戦いだったのか?
建暦3年(1213年)5月3日は和田義盛の命日。
和田合戦の背景と経緯を振り返ってみましょう。
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血気盛んで侠気あふれる義盛だが
『鎌倉殿の13人』の和田義盛は、いささか派手にデフォルメされつつも、彼らしさがよく現れた人物像だったでしょう。
単純で豪快。何かあればすっとんでいく血の気の多さ。騙されやすいところもある。しかし、明るい茶目っ気で人々を和ませる。
同時に、以下のように危うい要素も数多く持ち合わせていました。
・畠山重忠への遺恨
劇中の義盛は何かと重忠をライバル視し、彼の意見に反対することがしばしばありました。
なかなか面白いコンビのようで、これには理由があります。
源頼朝が挙兵したときの重忠は、京都にいる父が平家方でもあり、そうした配慮から三浦義明を攻め滅ぼしました。
義明の孫である義盛が、そうした遺恨から反発心があってもおかしくはありません。
重忠の死によって治まるとはいえ、本来こうした家臣の間の揉め事は主君が押さえつけねばならず、それができない幕府初期の統治体制に限界があったことがわかります。
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・三浦一門の家督
和田義盛にとって、三浦義村は従兄弟にあたります。
義明の長男は杉本義宗であり、この義宗が早世したため、その弟である義澄が三浦一門の家督を継ぎました。
こうした関係は対立が生じやすい関係と言えます。
義村からみれば、義盛一門が家督相続において異議を挟んでこられたら面倒。
かつ、三浦一門を相続した義村からすれば、同族でありながら目上のように振る舞う義盛が目障りに思えてもおかしくはありません。
畠山重忠も義明の孫にあたりますが、外孫です。義盛や義村とは従兄弟関係ながら、二人とは異なる立場だったのです。
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・北条と三浦
北条と三浦は、坂東武者としては本来同格でした。
源義朝は三浦一族の娘を妻としています。
一方、北条からは時政の娘である政子が頼朝の妻となりました。
源氏との姻戚関係という意味では三浦の方が北条に先んじていたのです。
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それが頼朝の飛翔によってどんどん差が広がっていった。
三浦はどうすべきか?
義村は娘の矢部禅尼(初)を北条に嫁がせ、協調路線を取りますが、義盛はそうではありません。
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・義盛の野望、国司就任
北条一門は、時政の遠江守任官を皮切りに、息子の義時と時房もそれぞれ相模守と武蔵守となりました。
頼朝と姻戚関係にある北条家を源氏一門に連なるとして、政子が推挙したから実現したものです。
こうした状況を受けて、義盛は上総国国司の就任を政子に訴えました。
ところが政子には断られる。仕方ないから大江広元を経由して源実朝に嘆願すると、いったんは了承を取り付けるも中々話が進まない。義盛としてはイラ立ったことでしょう。
なんで尼御台(政子)は聞いてくれねえんだよ!
鎌倉殿(実朝)もぐずぐずしやがって!
北条ばかりじゃねえか!
そう思ってもおかしくない状況でした。
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ドラマでは明るい笑顔を見せている義盛ですが、史実では不穏な要素も多い人物です。
彼には思慮深さが欠けていた。
『鎌倉殿の13人』の義盛像は、現代人から見れば誇張されているようにも思えますが、史料を見ていても、勝手に持ち場を離れたり、喧嘩に乱入する粗忽さが目立っています。
当時は中世ですからそんなもの、と言えばそうかもしれません。
いずれにせよ脇の甘さは否めない人物でした。
早々に崩壊した【十三人の合議制】
『鎌倉殿の13人』のタイトルが発表されて以来、世間では様々な誤解が生じたように感じます。
表向きは「若い将軍・源頼家を支える13人」ですから、彼らが手を執りあうようなイメージをされてもおかしくない。実際それにちなんだ土産菓子や便乗企画もありました。
しかし、この【十三人の合議制】というのは不明点が多いのです。
実際に集まって話し合ったかどうかもハッキリしない。人選もよくわからないところがある。そして即座に崩壊。むしろ手本にしてはいけない不吉なグループでした。
積極的に合議制を破るような行動に走り、権力を独占しようとしたのが北条時政です。
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時政は、知勇に優れた梶原景時や、武蔵国の比企能員というライバルを蹴落とすと、娘婿である平賀朝雅を鎌倉殿に就任させようとします。
妻である牧の方(りく)と共に企んだとされ、その計画は、政子・義時・時房によって止められました。
いわゆる【牧氏事件】です。
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このとき時政側についた宇都宮頼綱は本人の出家により事態は収拾されました。
ソフトランディングがなされ、後に合議制は空中分解し、時政による独裁も止められました。
新たに北条一族を率いることになった北条義時は、父・時政のような野心家ではなかったのか、その後、慎重に振る舞います。
尼御台・政子と、まだ幼い鎌倉殿である実朝のもと、文官である大江広元らと合議による政治を進めたのです。
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一見、理想的な政治体制でしょう。
義時が先導するようになってから、一族丸ごと滅びるような流血沙汰が減ってたことは確かです。
しかし、いつの世も政治体制はバランスが重要です。
一強でなくなると、それはそれで反抗心を抱く者が出てくる。
なぜ北条ばかりがあんなデカい顔をしてんだ!
元々は俺らと対等だったじゃねえか!
そういった不満が渦巻いて……。
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