源行家

源行家/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

戦は下手でもメンタルだけは強い!源行家は墨俣川の戦い惨敗後も粘り続けた

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源行家と墨俣川の戦い
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ならば義仲に乗り換えだ!

その後、源氏軍は熱田(現・名古屋市)まで退いて立て篭もったところも突破され、さらに東の矢作川(現・静岡県)まで撤退します。

現在の道路にして熱田から約40km。

墨俣からは約83kmほど逃げたことになります。

戦国時代に【戸次川の戦い】で完敗した仙石秀久が、豊後(大分県)から讃岐(香川県)まで逃げた――という話には敵いませんが、83kmといえばフルマラソン二回分ですから天晴れな逃げっぷり。

ここまで来るなら平家方はもっと追いこんでも良さそうなものですが、「源氏に援軍が来るってよ」というウワサを聞いた平重衡は軍を撤退させました。冷静ですね。

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この後、源行家は京都奪還に目を向け、平家追討のため伊勢神宮や延暦寺との連携を画策します。

しかし、それに失敗すると鎌倉へ出向いて頼朝に「所領をちょうだい」と言い出すのですから図々しいというかなんというか。

頼朝にはアッサリ断られ、ならば次は「源義仲(木曽義仲)だ!」とばかりに方向転換をはかります。

妙な行動力と、一定の交渉力だけはあるんですよね。

義仲だって、行家なんかと手を組みたくないだろ……?と思いきや、寿永2年(1183年)7月、共に京都入りして後白河法皇に拝謁しました。

 


今度は後白河法皇だ!

源行家は、そこで従五位下備前守に任じられ、院の昇殿まで許されるようになります。

しかし、義仲とは不仲になります。

『平家物語』では、後白河法皇に近づいた行家が、義仲のことを悪く吹聴したとかで、事実だったら心の底からしょーもない!

源頼朝も、そんな人格を見抜いていたから、身内でも遠ざけたんですかね。

末弟(源義経)はルール違反でも自覚なしだし、叔父(源行家)は不誠実だし、なかなか近親者には恵まれません。

唯一の例外だった地味な弟・源範頼も、曽我兄弟の仇討ち曽我事件)で運の尽きになってしまいましたし……。

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これじゃ嫁の実家をアテにしたくなる気持ちもわかろうというものです。

まさか北条家が息子を殺すとも思ってなかったでしょうしね。

閑話休題。

行家も武士である以上、京都での政治だけでなく、本業もこなさなければなりません。

もちろん合戦(平家追討)のことですが、これがどうにも戦下手で……。

同年11月に播磨で対峙した平家に負けて和泉へ敗走すると、今度は今井兼平率いる義仲軍にも敗退。

もうワシでは勝てん!と悟ったのか、義仲と戦うためにやってきた義経・範頼らの軍を援助するというポジションを取ります。

頼朝に媚を売っているような姿が想像できて悲しくなりますが、その後、義仲が滅亡しても、行家は河内和泉に居座って一定の勢力は維持し続けました。

メンタルがタフすぎますって。

 


こうなったら義経だ!

「あのクソ叔父を討て!」

文治元年(1185年)8月、ついに源頼朝から源行家討伐の命がくだされました。

この決定に先立ち、同年2月【屋島の戦い】、その翌月【壇ノ浦の戦い】を経て、平家との戦いに終止符を打っていた頼朝。

いい加減、あの叔父を放置しておくわけにもいかんでしょ……とばかりに、近江源氏の佐々木定綱に行家討伐を命じたのです。

名目的には「謀反を企んでいるから討て」というものだったようで、戦下手の行家としてはどうするのか? まさか戦うのか? と、そんなわけはありませんでした。

頼朝と不仲になっていた義経と手を組み、さらには後白河法皇の協力も得るのです。

さすがにしぶといというか、少しだけ知恵が回るというか。良く言えば最後まで諦めないということかもしれません。

結果、後白河法皇は行家を四国の地頭に任命し、さらには頼朝追悼の院宣も出されました。

法皇としては、義経と行家を使い、鎌倉で強大化する頼朝に対抗するのが狙いでしたが、肝心要の兵(武士)が集まりません。

まぁ、頼朝に歯向かってまで、“戦が鬼強い”義経と“戦が下手すぎる”行家の凸凹コンビに従いたいとは思いませんよね。

しかもそんな正念場で、行家と義経が乗った船が難破してしまうというズッコケを演じてしまい、今度はこの二人に対する追悼の院宣が出される始末。

ギャグ漫画みたいにドタバタした展開で、一体、彼らは何をやっているのか……。

行家はその後、河内和泉へ潜伏。

頼朝の追手をかわしていましたが、もはや時間の問題でした。

程なくして北条時定・常陸坊昌明らによって捕縛され、文治2年(1186年)5月12、梟首(さらし首)となりました。

その後、頼朝の元へ首は送られたとのことです。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名辞典』(→amazon
墨俣川の戦い/Wikipedia

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