こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【三浦胤義】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
もうあの卑劣な兄・義村と北条には我慢できない
禅暁誅殺の翌年、三浦胤義は大番役として京都にいました。
任期が切れていたのに鎌倉へは戻らず、何か意図があって滞在し続けているのか?
そう疑われてもおかしくない状況であり、後鳥羽院の命を受けた藤原秀康が胤義を自邸に招きます。
酒を酌み交わしつつ、秀康はこう尋ねました。
「あなたは三浦からも鎌倉からも去り、京にいるのは何故でしょうか?」
胤義は切々と、妻への想いを語ったと言います。
憎き北条により、夫である源頼家を殺され、息子の禅暁まで殺されてしまった。
再婚しても泣き続ける妻を思うと、鎌倉が憎くてたまらぬ!
しかし、これはあくまで感情面での理由です。
当時は鎌倉と京都、どちらで力を持つか、定まらぬ時期でした。
鎌倉にいる兄・義村を上回るため、胤義に京都で地位を得たい野心があったとしても無理はありません。
彼は在京中に検非違使、九郎という名で判官にまで上り詰め、兄・義村の左衛門尉を超えました。京都であれば彼は兄を凌駕していたのです。
そこに目をつけたのが後鳥羽院。
胤義を使い三浦を掌中におさめれば、義時の側近ともいえる義村を操ることができる――鎌倉を内部から崩壊させるため、三浦は重要な駒でした。
兄弟が別れる【承久の乱】
承久3年(1221年)――藤原秀康が京都守護の伊賀光季を呼び出しました。
しかし、この伊賀光季の母は二階堂行政の娘であり、北条義時継室・伊賀の方(のえ)の姉妹にあたります。北条一族と縁が深く、後鳥羽院の召集には応じません。
義時の妻・伊賀の方(のえ)はなぜ伊賀氏の変を起こしたか?
続きを見る
二階堂行政は腹黒の文官に非ず~孫が【伊賀氏の変】を起こすも本人は超マジメ
続きを見る
そこで三浦胤義らは八百騎余を率い、伊賀光季の寝所を襲撃しました。
光季が門を開き、胤義に向かって叫びます。
「後鳥羽院に対して罪なぞないのにも関わらず、勅勘(勅命による勘当)を受けるとは何事か!」
「時勢に従ったまでよ。宣旨により召集され、貴殿を討つべく参じたのだ!」
多勢に無勢、追い詰められた光季は我が子の光綱を刺し殺し、炎の中に投げ込むと自害してしまいます。
後鳥羽院は、味方にしたかった……と光季の死を惜しみつつ、義時追討の院宣を出します。
鎌倉へ宣戦布告すると、胤義はこう語ったとされます。
「院宣があれば、逆賊北条になぞ味方する者はおりますまい」
北条憎しのあまり見通しが楽観的になったのか。
さらにこう続けます。
「兄・義村は“烏滸ノ者(頭がおかしい・愚か者)”なので、日本国総追捕使の地位をちらつかせれば北条を裏切るでしょう」
そして使者を鎌倉に送るのです。
後鳥羽院による義時追討の院宣と官宣旨を持ち、鎌倉へ出立したのは下部(使用人)の押松でした。
しかし、この押松より前に、義村のもとへ三浦胤義の使者が到着。
胤義の書状にはこうありました。
【胤義の書状】
勅命に従い義時を誅殺すべし。そうすれば恩賞は望みのままである――。
義村は返事もせず使者を追い払うと、すぐさま義時と政子にこのことを知らせます。
「俺は胤義の誘いには乗らねえ。関東御家人として、無二の忠節を尽くすぜ」
義村が義時にそう誓うと、ただちに押松の捜索が開始。
程なくして捕縛されると、京都の陰謀が察知されます。
義時が朝敵とされていたことに鎌倉は動揺もしましたが、ここで立ち上がったのが姉の北条政子です。
彼女は御家人たちに向かって名演説を行い、奮い立たせると、逆に藤原秀康と三浦胤義らが、鎌倉から「討ち果たすべき者」として挙げられます。
かくして三浦兄弟は分裂し、後は鎌倉方がどう出るか?
後鳥羽院の企み、その勝敗は義時らの意向にかかっていました。
※続きは【次のページへ】をclick!