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【畠山重忠】
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景時と重忠の取り調べ
藤原泰衡と奥州藤原氏を討つ――文治五年(1189年)夏の奥州合戦で畠山重忠は、先陣を申し付けられました。
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そして迎えた【阿津賀志山の戦い】で、三浦義村や葛西清重らが抜け駆けをしようとします。
当然これは褒められたものではありませんから、重忠の郎党が見咎めて報告したところ、重忠は全く焦った様子なく答えます。
「正式に先陣を仰せつかったのは自分だから、功績は我が隊のものになる」
こうした理想の上司的な振る舞いが、御家人たちの支持を集める要因かもしれませんね。
同じく奥州の戦では、再び景時との逸話があります。
奥州藤原氏の当主だった藤原泰衡の家来・由利維平の取り調べをしたときのことです。
当初、彼の取り調べにあたったのは景時でした。
しかしここでも景時が”お役所仕事”という感じの対応をしたため、維平を怒らせてしまい、ろくな証言が出てきません。
頼朝にその報告が行くと、今度は重忠が取り調べをするよう命じられます。
「勝敗は時の運というもので、貴公が敗軍の将として今ここにいるのは少しも恥ではない」
重忠は、八郎のプライドを重んじた態度で接し、話を進めると、気を許したのか、維平も答えます。
「先程の男とは雲泥の違いだ」
そうして取り調べに応じたのだそうです。
この件では重忠と景時が直接ぶつかったわけではありませんが、互いに嫌な印象は残ったでしょう。
ちょっとした口論が謀反という讒言へ
その後の畠山重忠も、やはり厚い信頼を得ていたことがわかる行動が記録されています。
源頼朝が上洛する際の先陣を務めたり、在京中の護衛を務めたり。
建久10年(1199年)1月13日に頼朝が亡くなり、源頼家の時代になると、重忠は北条氏に若干近づきます。
北条氏と比企氏がぶつかった建仁三年(1203年)【比企能員の変】では、北条氏の命を受けた多くの御家人同様に討手となり、比企氏を滅ぼしました。
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十三人の合議制に、重忠の名がないのは不思議かもしれません。
13人のメンバーは、彼よりも年長、かつ広い土地を持っている御家人が選ばれたためであり、軽んじられたわけではないのでしょう。
同じく三浦義村も13人に入っていません(北条義時は入っていますが頼朝との関係の深さからでしょう)。
北条時政や義時との関係も悪くなかったと思われます。
しかし元久元年(1204年)11月、思わぬところからトラブルが降りかかります。
この頃、三代将軍・源実朝の正室を公家から迎えるため、何人かの御家人が京都で諸々の交渉にあたっていました。
そして坊門家との縁談がまとまり、いよいよ輿入れ準備……というところで、それは起きました。
上洛していた重忠の息子・畠山重保と、北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅との間で、ちょっとした口喧嘩が起きてしまったのです。
周囲の執り成しもあり、その場は口論だけで済んだのですが……朝雅がこれを牧の方へ告げ口し、彼女が憤慨したことから話がこじれてきます。
牧の方は時政に
「重忠が謀反を企んでいるに違いありません。先手を打たなければ!」
と讒言し、兵を動かすよう勧めたのです。
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平賀朝雅は、新羅三郎義光(源義光)に繋がる源氏一門の血筋です。
時政と牧の方の娘を正室としていて、それを言うなら畠山重忠の妻も時政の娘でした。
時政にとっては同じ婿なんですね。それでも牧の方を優先するほど、彼女に入れ込んでいたのでしょう(まさにドラマでもそんな風に描かれていますが)。
愛甲季隆の矢に当たり
元久二年(1205年)6月。
地元に戻っていた畠山重忠に急な報せが届きました。
「大変なことが起きたので、急いで鎌倉まで来てほしい」
事情を知らない重忠は、僅かな兵を率いて地元を出立。
しかし、二俣川で幕府の討手と遭遇し、事の経緯を悟って最期まで抵抗します。
そして愛甲季隆の射た矢にあたって討ちとられ……。
享年42。
なんとも後味悪い最期ですが、朝廷に近い慈円が記した『愚管抄』でも、鎌倉幕府の公的な記録である『吾妻鏡』でも、重忠の評価は非常に高くなっています。
前述したように、伝説や物語での登場も多い人物です。
おそらく「謹厳実直」「質素」といった”鎌倉武士”のイメージは重忠からきているのでしょう。
また北条義時とも仲がよく、義時が父の北条時政から重忠討伐の命令を受けたとき、大いに反対。
結局、義時は、牧の方に押し切られ、不運にも重忠は討たれ、その首を前にして義時が大いに嘆いたと言います。
この牧の方は、北条に何かと災いをもたらすような行動もあり、時政と彼女の最期については、以下の記事で詳細を御覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon)
ほか