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【四鏡(大鏡・今鏡・水鏡・増鏡)】
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水鏡
鎌倉時代の初期、1195年頃の成立。
こちらは時代をぐっと遡り、なんと神武天皇(初代)から仁明天皇(第54代)までのことが書かれています。
ただ……そもそも神武天皇から20代前後の天皇は実在が危ぶまれていますから、半分ぐらいは神話というか、伝説の類でしょう。
また、内容のほとんどは『扶桑略記』という別の本から抜粋したものであり、さらに実在しない天皇が登場するため、重要な書物とはみなされていません。
「何で四鏡の中に入れたの?(´・ω・`)」とツッコミたいところですが、言っちゃいけないお約束なんですかね。
ついでに、ネタ元の『扶桑略記』の紹介を少々。
「扶桑」とは、日本の古い呼び名の一つです。
元々は、以下のように中国の伝説から採られた名前でした。
「東の果てには『扶桑』という名のとてつもなくデカイ木が生えている土地がある。太陽は毎日そこから再生して登ってくる。その木が生えている国のことを『扶桑国』と呼ぶ」
他にも、古代における日本の別名は多々あります。
・瑞(水)穂国 稲がみずみずしく実る国
・大和国(元々は奈良盆地の東南地域のこと)
・敷島 崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)から
・秋津島(洲) 神武天皇が空から日本列島を見て「秋津(トンボ)のようだ」と言ったから
いずれも旧日本海軍の軍艦の名前になったことがありますので、その辺に詳しい方はご存じでしょうか。
扶桑略記は、神武天皇から堀河天皇までの歴史を仏教的な観念を交えて書いています。
また、出典が詳細に書かれていることも特徴の一つで、その数なんと104種類!
といっても、引用元の書物がほとんど残っておらず、むしろ扶桑略記が大本になっていることすらあるのですが。
出典がわからないところは、当時の記録や貴族の日記などから引っ張ったと考えられています。
だったら、ナゼその出処を書かなかったのか……とツッコミたいところですけれども、昔の本は写本に写本を重ねていることも多いですし、そもそも京都は応仁の乱やら天文法華の乱やらで焼かれまくっているので、散逸・焼失していてもおかしくはありません。
これまた政治的配慮など「大人の事情」ですかね。
また、筆者の私見については「私云」として、わかりやすく区別して書かれています。
リアルタイムで見れば「それ違うし」と思えることでも、時間が経つとわからなくなってしまいますから、これは地味にGJでした。
水鏡はさすがに「扶桑略記から丸パクリしました!」とはなっておりません。
「73歳の老尼僧がまず竜蓋寺を訪れ、次に長谷寺へ参詣したとき、夢の中で修行者らしき人に会った。その修行者がかつて葛城山の神仙に会ったとき聞かされたという話を、聞き手だった老尼僧が書き留めたものである」
要するに「又聞きの話ではあるが、面白かったので本にしてみた」みたいなノリで書かれた本……という感じなわけです。
上記の通り、史実と異なると思われる点が多いため、四鏡の中で水鏡は最もマイナーというか「水鏡(笑)」みたいな扱いになっています。
一方で、教訓めいたことも書かれており、次のような一文もあります。
「人は『昔は良かった』と思いがちだが、それはその『昔』のことをよく知らないからであって、闇雲に現在を批判するべきではない」(意訳)
今も変わらぬ真理っぽい話ですよね。
時代によって、それぞれの長所や短所などがあるわけですし、歴史が進めば基本的に文明や技術が進歩、生活に困る人が少なくなっていくハズです。
増鏡
成立は南北朝時代。
寿永三年(1183年)後鳥羽天皇の即位から、元弘三年(1333年)に後醍醐天皇が隠岐に流され、京都に戻るまでの15代のことを書いています。
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最後の段は鎌倉幕府滅亡のことにも言及。
二人とも源姓で描かれているので、現代の我々からするとちょっと違和感がありますが、二人とも清和源氏の血を引いているからですね。
「足利」や「新田」は彼らのご先祖が所領の地名から取った名字なので、朝廷側の記録に書くのならばやはり源姓が望ましい。
成立時点と執筆内容が近い時代の割に、建武の新政の前で記述が終わっているところが、何ともいえないかほりを漂わせています。
書く気にならなかったんでしょうか。まぁ、痛い展開だからしょうがないですよね(´・ω・`)
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ここまで読んで、「何かもっと有名なのなかったっけ?」と思った方もおられるでしょうか。
四鏡には含まれませんが、「鏡」がつく名前の、もっと重要な書物があります。
鎌倉幕府……というより、北条氏の公式記録である
『吾妻鏡』
です。
こちらは以下の記事でジックリ取り上げていますので、よろしければ併せてご覧ください。
鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』が 北条に甘~く 源氏に厳しい! のはなぜか?
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」「扶桑略記」