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首桶の中に入っていた蓮の種 「中尊寺ハス」が誕生す
中尊寺の本堂が再建されたのは、さらに時代を下って明治四十二年(1909年)のことです。
それでも世間の注目を集めるには至らなかったのか。
あるいは戦災のためか。
長い間、詳しい調査はされませんでした。
昭和二十五年(1950年)になると本格的な学術調査が始まり、藤原氏三代のミイラと泰衡の首桶、金色堂の年代測定などが行われています。
ミイラの保存状況については、詳述すると気持ち悪くなる方もいらっしゃいそうなので割愛しますね。
特徴的なものとしては、
ということです。
なぜそんなものを副葬品にしたのかはサッパリわかりませんが、蓮の専門家によって発芽が試みられ、発見から50年経った2000年に開花しました。
これを「中尊寺ハス」と呼び、今も現地で栽培されています。
美しい桃色の花で、一般的にイメージされる蓮そのままの姿です。
首と一緒に入ってた種から咲いたと考えると、なんとも言えない気分にもなりますけどもね……。
中尊寺も一時は歴史に埋もれた存在だった
蓮の花は数日間しか咲きませんし、朝から咲いて午前中に終わってしまうという特性があります。
なのでこれを目当てに観光しに行くのはなかなか難しいところです。
中尊寺のものに限らなければ、古代蓮は全国にあるので、お近くで栽培されているところを探してみてもいいかもしれません。
奥州藤原氏の時代よりさらに古いものもザラにあります。蓮すげえ。
中尊寺も一時は歴史に埋もれた存在でしたが、現在では多くの人に知られるようになりました。
泥の中から芽を出し、やがて美しい花を咲かせる蓮の姿と、何となく似ているような気もしますね。
もしかしたら、泰衡の首桶に蓮の種を入れた人も、「後世の人が泰衡の無念を知ってくれますように」と願いを託したのでしょうか。
泰衡の場合は自業自得すぎて、その生涯が知られるようになっても評価が上がらないままですけどね。
せめて何か一つでも褒めどころがあれば、全力で判官贔屓をさせていただくのですが。
まあ、それも今後の研究次第でしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
中尊寺金色堂/Wikipedia
中尊寺/Wikipedia