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【一遍上人】
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最初は踊り念仏ではなかった
まず木札に念仏を書いて、それを人々に配りはじめました。
受け取ってくれる人もいましたが、中には「自分は仏様を信じ切れていないから、受け取るのは失礼だ」と言って受け取らない人もいました。
この人の名前は伝わっていませんが、一遍と同じお坊さんだったそうです。
一遍は悩みます。
「既に仏様を信じている人が救われるのは当然だが、いま信じていない人も救えなくては意味がないんじゃないか?どうしたらそういう人にも札を受け取ってもらえるだろう?」
そんな悩める一遍、ある日不思議な夢を見ました。
白髪の山伏が、彼に向かって何かを語りかけてくるのです。
あまりに何度も言うので、一遍は寝ている間に言われたことを覚えてしまいました。
「いったい何だったんだろう?」
そう思いながら、内容を書き出してみると……。
「お前は札を渡して、人々が仏様を信じるきっかけを作ればいい。後は仏様がその人を救うかどうかを決めるから」
というサバサバしたものでした。
言われてみれば確かにその通り。
「何だ、簡単なことだったんじゃないか!」と頭を切り替えた一遍、再び札配りを始めます。
さて、ここまであの単語が出てきませんでしたね。
一遍といえば「踊り念仏」。
実はこれ、一遍が晩年に入りつつある頃に始めたものなのです。
そして、一遍のオリジナルではなく平安時代にいたお坊さん・空也(くうや)の行っていたものを再興させたのでした。
空也上人像の口から出ている「六つの物体」の正体は 呪物ではなく阿弥陀仏
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太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らし、踊りながら念仏や和讃(日本語で仏様や仏教を褒めたたえること)をするというスタイルは、多くの人々の目を引き広まっていきました。
このとき一遍は40歳(この頃は40で晩年ですね……)。
踊りながら念仏を唱えるなんてなかなか体力がいりそうですが、全国を旅していたのでできたのでしょう。
現在のお坊さんも読経などで肺活量や腹筋が鍛えられているそうですので、旅暮らしだった一遍も体力や筋力はあったのかもしれません。
しかし、人間ですから死は免れられません。
50歳を迎えた一遍は「死に場所」へ向かいました。
常々「播磨の印南野(いなみの)教信寺がいい」と考えていたのです。
ここは一遍の尊敬するもう一人の僧・教信(きょうしん)が開いたお寺。
こういうとちょっと語弊があるかもしれませんが、尊敬する人のゆかり地で生涯を終えたいなんて、ちょっとロマンチックですね。
偉人の死に奇跡は起きない
その途中、別のお寺に招かれます。
どのお寺だったのか?という点については諸説あり、ハッキリしていません。
一遍は少し迷いますが「これも何かの縁」と思い、そのお寺に向かいました。少し立ち寄ってから教信寺へ向かうつもりだったのかもしれません。
しかし、彼は結局、教信寺へ向かわず、8月10日に自分の持ち物を焼却処分してしまいます。
いよいよ死期を悟ったのでしょう。
この頃には一遍に賛同してくれる人も多くなり、弟子もたくさんいました。
周りの人たちは驚くと同時に悲しみ「上人は立派な方だから、何か吉兆が現れるのではないか?」と期待もしたそうです。
ですが一遍は静かに笑って「私はそこまでの者ではないから、何も起きないよ」と諭したとか。
そして約2週間後の8月23日、息を引き取ります。
彼の言ったとおり吉兆も凶兆も何も起きず、静かな最期だったそうです。
小さいときからお母さんを亡くし、親族ともうまく行かず苦労続き――。
それでも人々のためを思って仏教を広めることに邁進した一遍にとっては、やっと安らげた瞬間だったかもしれません。
ちなみにこの一遍上人、近年、映画化もされています。
キャイ~ンのウド鈴木さんが映画初主演を務め、なかなかの好演だったようです。
興味のある方は一度ご覧になってみてはいかがでしょうか?
※現在Amazonプライムビデオでは対応しておりません(リストにはあるのですが)
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長月 七紀・記
【TOP画像】
一遍上人絵伝/国立国会図書館蔵
【参考】
国史大辞典
一遍/wikipedia