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【赤松満祐】
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抵抗する者も切り捨てられ
大名たちの多くが応戦もできず逃げ回っていたといいます。
なんだか情けない感じもしますが、そもそも大名自身は白兵戦をしないので、仕方ないでしょう。
抵抗したのは山名熙貴、細川持春、京極高数、大内持世、正親町三条実雅などだったといいます。
熙貴はその場で斬り殺され、実雅はその場にあった太刀で応戦したものの、やはり斬りかかられて卒倒したとか。
京極高数と大内持世は抵抗したものの瀕死の重傷を負い、後日、亡くなりました。
細川持春は片腕を斬り落とされる重傷を負いながらも一命をとりとめ、その後25年、寛正七年(1466年)まで長生きしております。
よほど手当をした人の腕が良かったか、生命力が強かったのか……両方ですかね。
庭では、将軍の警護としてやってきていた走衆と、赤松氏の武者たちが斬り合っていました。
その脇を通り、塀をよじ登って逃げようとする大名も。
まぁ、命が惜しいのは誰でも同じですからね。戦のときならある程度覚悟もできているでしょうけれども。
この辺で赤松氏の者が「将軍が狙いなので他の者には危害を加えない」と言ったため、騒ぎが収まったといわれています。
いやいや。この時点ですでに大量の被害者が出てますが……(´・ω・`)
そして放たれた馬はどうしたんでしょう。
踏み潰されてる人もいると思うんですけど、そこが特記されてないあたり大丈夫だったのか、そもそも馬の件自体が狂言だったのか。
何はともあれ、当時その辺にツッコむ人はいなかったらしく(それどころではない)、そのまま負傷者を含め客は退出しました。
義教の首を掲げながら堂々と播磨に帰った
真っ先に逃げた細川持之は批判を浴びながらもすぐ冷静さを取り戻し、直ちに参内して朝廷へ事の次第を報告しています。
この後グダグダになるせいで忘れがちですけど、ここまでの細川氏は皆優秀なんですよね。
そしてしばらくは「こんなことをするからには、赤松に味方する大名が既に兵の準備をしているに違いない」と考え、固く屋敷の門を閉ざして事態を静観していました。
持之だけでなく、生き延びた大名の大多数がそうでした。
そのため、持之は「仕事遅すぎwww」(超訳)と世間の嘲笑を浴びたのですが、全く想定していない事態に遭遇して「そうだ、参内しよう」と思いついて実行したところは評価していいんじゃないでしょうか。
こういうときって、どちらが先に大義名分を得られるか?というのは政治的に重要です。
一方、赤松氏のほうでは「将軍を討ったのだから、すぐ討伐軍がやってくるに違いない。そのときは潔く皆で腹を切ろう」と考え、その準備をしていたようです。
しかし、しばらくしても討手が来ない。
『なんで?』
不思議に思いながらも満祐らは、義教の首を掲げて堂々と播磨に帰ります。
妨害する大名が誰もいなかった、というのが実にマズイですね。
もしもここで、誰かが義教の首を取り返しに走っていたら、その人の権威は将軍家よりも高まったかもしれません。
このことから、義教の人望のなさがわかってしまうのが何とも悲しいものです。
似たような事件としてよく比較される本能寺の変の直後には、嫡子の信忠をはじめ、信長を慕っていた人のそれらしい行動がたくさん伝わっています。
将軍が討たれたのは自業自得といえよう
持之が参内したこともあってか、義教暗殺のことは公家社会にも即座に広まりました。
伏見宮貞成親王(後花園天皇の父)の日記『看聞日記』には、こう記されています。
「本当は将軍が赤松を討つ予定だったのが、察知されて逆に将軍が討たれてしまったそうだ。自業自得といえよう。将軍ともあろう者がこのような犬死をするとは、古来聞いたことがない」
源氏に視点を広げれば、風呂場で殺された人はいるんですけどね。
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入浴中は本人も丸腰ですし、謹慎中だった場合などは警護も少ないでしょうから、討たれて仕方ない面もあります。
しかし嘉吉の乱の場合、その場に多くの大名や警護がいたにもかかわらず、真っ先に将軍が討たれてしまうので、こっちのほうが恥ですかね。
しばらくの混乱の後、幕府はまず管領・細川持之らが義教の子・義勝を新たな将軍に据え、7月に赤松氏追討の軍を起こしました。
既に一週間近く経っていますが、新将軍擁立と軍備を両方やった期間としてはまずまずの早さではないでしょうか。
同時に、赤松氏に向けて義教の首の返還を求める使者が立ちました。
満祐は本願を達成できた満足感からか、あっさり返しています。幕府は首が帰ってきてから、等持院で義教の葬儀を行いました。
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