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【栄西】
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建仁寺は天台宗や真言宗も学べる場所だった
しかし、京都では思うように理解が得られず、鎌倉に下って幕府の庇護を受けながら、禅を広めようと考えました。
幸い、北条政子や二代将軍・源頼家に庇護を受け、いくつかの寺を建てることができています。
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このためか、日本での臨済宗は鎌倉幕府・室町幕府との繋がりが強いことが特徴です。
特に頼家のおかげで建てることができた京都の建仁寺は、禅とともに天台宗・真言宗を学べる場所として大きな役割を果たすことになります。
建仁寺はその後の火事で一時衰退したのですが、再建された後は禅宗単独のお寺になっているのです。
おそらくはここで学んだ僧侶たちが、栄西の考えも広め、周辺に受け入れられたからこそ、そうなったのでしょう。
でなければ、「火事になったのは禅などというわけのわからんものを始めたせいで罰が当たったんだ! 廃止!!」ということにもなりかねませんし。
華厳宗である東大寺の勧進職に就任
そうした地道な努力を続けた結果、建永元年(1206年)に東大寺の勧進職に就くことができました。
勧進職とは、お寺を維持するための寄付=勧進を集めるための庶務などを行う仕事です。
東大寺は華厳宗のお寺なので、そこで栄西が役職に就けたということは、この頃までに禅宗や栄西に対する偏見・敵意がだいぶ和らいでいた……ということでしょうか。
後に曹洞宗の開祖となる道元が、栄西を非常に尊敬していた節もあります。
道元のお師匠様が栄西の弟子である明全だったためだと思われるのですが、実際に会ったことはないでしょう。
道元が明全に弟子入りした頃、栄西は既にこの世の人ではありませんし。
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明全が栄西に心酔していたのがうつったか、道元がよほど感銘を受けたのか……両方だったりして。
栄西は「他宗派の僧侶と論争を繰り広げた」とか、「対立した」という話がほとんどありません。
やはり、相当人間性に優れた人だったのでしょう。
そもそも仏教は「人生には苦しいことがたくさんある。ならどうやったら苦しみが減るか考えようぜ!」というのが始まりですので、他者との対立=苦しみに繋がるようなことをするのはおかしいんですよね。
禅の教えを我々のような凡人が理解することは難しいところですが、栄西の努力家で優しい面は目標になるかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
栄西/wikipedia