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【うさぎの言い伝え】
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献身
日本では「うさぎ=月」を連想することも多いですよね。
これは仏教の説話集「ジャータカ」の中の話が、日本に伝わって変化したことから来ているとされています。
少々昔話風にいきましょうか。
むかしむかしあるところに、猿と狐とうさぎが暮らしておりました。
三匹はある時、山の中で倒れているおじいさんを見つけました。
「おじいさんを助けてあげよう」と考えた三匹は、食べ物を持ってきてあげることにしました。
猿は木に登って木の実を持ってきました。狐は川で魚を捕りました。
けれどもうさぎは、頑張っても頑張っても、食べ物を持ってくることができません。(草食動物だから当たり前ですね)
悲しんだうさぎは、猿と狐に頼んで、たき火を用意してもらいました。
そして自ら火の中に身を投げ、その肉を食べてもらおうとしたのです。
そうするとおじいさんは起き上がり、何やらエラそうな感じの姿になりました。
なんと、おじいさんは「帝釈天」という仏様だったのです。
うさぎの我が身を省みぬ慈悲に、帝釈天は報いてやろうと考えました。
そこでうさぎの姿を月へ刻み、後世の人々がうさぎのことを忘れないようにしたのです。
月のうさぎの周りに煙がかかっているのは、うさぎが飛び込んだときの煙だとか。
いい人(うさぎ)が死んでるあたり、「めでたしめでたし」と言えないオチではありますが……まあ、物語ですから。
そもそも帝釈天が火に飛び込む前に「お前の気持ちはわかったからやめろ」と言えば良かったんじゃないかと思うのですけれども、言うだけ野暮ですね。
でも……旧約聖書の神様ですら、(神様の命令で)アブラハムが息子のイサクをいけにえにしようとしたとき、「お前の信仰心はわかったから、息子を捧げるのはやめなさい」と言っていることを考えると、比較したくもなります。
「玉虫の厨子」に描かれている釈迦の前世の姿でも、飢えた虎の親子に身投げをしているくらいですから、仏教の隠れた残酷さというかなんというか。
繁殖力の強さも、それだけ母体が酷使されるという意味では献身かもしれませんね。
現代の人間でも出産時の大量出血や、その後の経過で命が危うくなることはままあるのですから、野生動物となれば言わずもがなのことです。
・食材として
上記のように神聖視される生き物でもあったうさぎですが、もちろん信仰心の強い人ばかりではありません。
爪も牙も持たないうさぎは、最も狩猟に向いている動物とも考えられました。イスラム圏では「うさぎは不浄な動物である」としているので食べませんが、その他の地域では広く食べられています。
日本で肉食が禁じられていた時代も、うさぎや鹿、鶴などの「狩猟で得る動物・鳥」については食べていいことになっていたので、同様に広く食されていました。
戦中までは一般人もうさぎを飼い、食肉として利用することは珍しくなかったようです。
唱歌「故郷」にも「うさぎ追いし、かの山」と出てきますよね。別にうさぎとキャッキャウフフを楽しんでいたわけではなく、追い込んで(中略)美味しくいただくという目的があるわけです。
それがなぜか、戦後は愛玩動物としての位置づけでほぼ固定されています。
明治時代辺りから愛玩動物として飼う人もいましたが、同時に「いつか〆て食べるもの」という認識が強かったようですので、戦後にいきなり変化したわけです。
戦後日本に大きく影響を及ぼしたものといえばGHQ。
しかし、GHQの施策の中で、「うさぎを食べるな」というようなものは見あたりません。そもそもヨーロッパや北米でもうさぎを食べますし。
一時期までは、うさぎの肉が市販のソーセージなどに使われていたそうですが、今ではほとんど見なくなりました。
これは、うさぎや家禽を使ったソーセージは、日本農林規格(JAS)でのランクが落ちるからという理由もありそうです。
もしも今「うさぎを食べよう」なんて大々的に言い出したら、そこかしこからクレームが殺到するでしょうね。
よほどの食糧危機に陥ったら、「繁殖が容易な動物」として推奨されるかもしれません。そうならないことを祈るばかりです。
長月 七紀・記
【参考】
国立国会図書館
ウサギ/wikipedia
月の兎/wikipedia