伊勢神宮・宇治橋鳥居

寺社・宗教

日本人が知らない伊勢神宮七つの秘密~初詣でお賽銭投げたらダメ

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 その4 天皇が伊勢神宮を参拝したことはなかった

意外かもしれませんが、実は江戸時代までの歴代の天皇で伊勢神宮を参った天皇はいませんでした。

なんと、初めて参拝したのは明治天皇だったのです!

廃仏毀釈をはじめとする明治時代の「国家神道」というものが、いかに日本本来の歴史と伝統からかけ離れた「作られた伝統っぽい文化」だったことの証拠のひとつです。

伊勢神宮が、アマテラス大神をまつる国家第一の神社として存在したことが、歴史上間違いなく言える、ぶっちゃけて言うと「日本No.1の伊勢神宮を創設した」のは、飛鳥時代末の天武天皇と考えられています。

日本書紀によれば、雄略大王の時代から王女が「伊勢大神」の祠に侍する慣行のあったことが知られるが、しかし、歴代の倭王ないし王族のなかで、「天照大神」を拝したのは大海人皇子=天武天皇が最初であった。

「伊勢大神」は「伊勢の神」であるのに対し、「天照大神」は「高天原の神」であった。

「天照大神」の出現は、「伊勢大神」からの移行ではなく、新しい神の創出である。

「日神」と「天照る大神」との類似性はあるが、しかし「日神」の自然神としての正確は、捨象され、人格神としての装いをもった「天照大神」の出現であった

と、九州大名誉教授の田村圓澄さんは『伊勢神宮の成立』(115頁 吉川弘文館1996年・2009年再刊)の中でずばり指摘しています。

天武の妻の持統天皇は、伊勢へ旅行(行幸)しているのですが、あえて伊勢大神をお参りしなかったと明記されているくらいです。

神様の性格を政権の都合で「変更」してしまったのですから、そんなところにいって、「元の伊勢大神」が怒って、たたられたらたまらんと思った回避行動だったのかもしれません。

 

その5 伊勢神宮の地は「ヤマト」の発展から取り残された地域だった

と、表題のように言い切るのはガクブルなのですが、「釣りタイトル」としてご勘弁を。

なにをもって取り残されていたかというと、考古学的にみると、伊勢神宮のある南伊勢という地域が、ヤマト=古墳文化が広がるのが全国的にみても遅い、ということです。

古墳(前方後円墳など)というのは、3世紀中頃にヤマト(奈良県)で確立して、大仙古墳(仁徳陵)などができた絶頂の5世紀には、ほぼ日本列島中くまなく広がるのですが、伊勢南部については、「南勢地域の古墳文化が目立ち始めるのは更に遅れて六世紀以降のことである」(榎村寛之『伊勢神宮と古代王権』116頁 筑摩書房2012年)となります。

出雲大社のある出雲が、弥生時代からのちのヤマトや北九州に匹敵する高く広大な文化圏を広げていたのとは対照的な「歴史の空白ぶり」なのです。

誰が「文化の後進地区」だった南伊勢を、神道文化の頂点の地にしたのか?

古代史の最大のミステリーといえるかもしれません。

伊勢神宮は大中臣氏がずーっとコントロールしています。

中臣氏というのは、藤原氏の母体ですから、藤原不比等あたりかな~と安易に考えますが、「なんでも藤原謀略論」に与するのもなんなので、想像はここらへんにしておきます。

 

その6 アマテラスに仕える巫女「斎王」は永遠に処女なのか?

斎王というのは「さいおう」と呼びまして、伊勢神宮につかえる皇女のことをいいます。

繁栄した都から、地方の伊勢へ、独身の身で行くのはつらいことだったでしょう。

漫画やドラマの題材にもなっている斎王ですが、その悲劇性が強調されるのは、神につかえる巫女なので、その間は結婚できない、という点です。

飛鳥時代に父の天武天皇から「お前、斎王なってこい」と命じられたのが、大伯皇女(おおくのひめみこ)です。

斎王になったのは14歳。そして12年後に帰京します。

26歳というのは、現在ならピチピチもピチピチなギャルですが、当時は完全に婚期を逃しています。でも、まだセーフな年で帰京できた(した)のは、むしろ背景には悲劇があったのです。

大伯皇女は、天武死後に謀反の疑いで処刑される大津皇子のお姉さんです。

弟がこっそりと伊勢の姉に会いに来たことがありました。シスコンなんですね。たぶん、ヤマトタケルが斎王だった姉のヤマト姫(草薙の剣をもらった)にならって、天武後の後継者争いについて相談しにきたのでしょう。

でも、姉はわたす剣もなく、泣く泣く帰らせるのです。で、その後、弟はアボーン。

この弟の謀反に連座という形で、皇女も斎王を解任され、都へ戻ります。その時に歌ったのが以下のものですね。

ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり超ゆらむ(万葉集の巻2-106)

【超訳】複数でも大変な伊勢―大和間の山道を、たったひとりで越えてきたのか、かわいい弟よ、うわーーーーーん

ともかく、斎王に選ばれると、青春時代の多くを恋愛なくすごすことになります。

任期はだいたい数年から10年くらいというケースが多かったようです。そのため、斎王を務めたあとに結婚した人もたくさんいます。

聖武天皇の娘・井上内親王。

斎王後に、のちの光仁天皇となる皇族と結婚。

玉のこしハッピーエンドとなりそうですが、なぜか天皇となった夫をのろい殺そうとしたとして、「離縁」され、幽閉されて殺されています。のちに怨霊となっています……。

桓武天皇の娘・朝原内親王。

斎王は18歳で終了。平城天皇(桓武の息子つまり兄妹婚)と結婚しています。

でも、平城天皇は藤原薬子とねんごろになって、薬子の乱を引き起こします。

薬子の変
薬子の変って実はインパクトでかっ!藤原北家の大天下が始まる

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斎王の女性は結構、波乱万丈ですねぇ……。まるで波乱万丈の女神アマテラスの生き様を体現しているかのように……。

 

その7 正殿の高床式は弥生文化なのか

瑞穂の国の人だもん。稲作が本格的に普及したのが弥生時代、その米を備蓄するために立てられたのが高床式倉庫。

伊勢神宮の正殿も高床式な「唯一神明造り」なので、たいてい「弥生時代に見られる特徴で、そうした弥生の古式の建築文化が残されている」という説明をされています。

こういうもっともらしい定型文はたいていあやしいところがあるんです。

現代は車社会である。車といえば、もとはアメリカのフォードが作った。つまり、現代の日本は、アメリカ文化である、的な……。

技術というのは継続されるもので、文化とは別もの。

都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』(岩波新書2012年)には、同じ高床式倉庫でも、弥生、古墳、奈良、平安と時代ごとに「大きさ」が異なっているという指摘をしています。

「貯める」という要素は同じでも、誰が貯めるかによって、それを必要とした社会の形=文化も違ってくるもの(都出さんは別に伊勢神宮の正殿とを比較しているわけではありません)だというのですね。

伊勢神宮正殿(3間×2間 内宮)の面積は約61平米。これを都出さんがまとめた時代ごとの高床式倉庫の面積の表にあてはまると、見事に「奈良時代」の範疇にピンポイントでおさまるのです(古い時代はもっと小さい)。

これは、ことさら「弥生時代にさかのぼるふるーい伝統建築様式」と強調するのは、ちと誤解をまねくことになるといえます。

弥生時代には存在できないほどの大きさであり、律令国家の奈良時代と同じ面積ということは、神宮の正殿は、飛鳥時代や奈良時代の朝廷が最先端の建築技術を駆使してつくった「最新インテリジェントビル」だった可能性が高いのです。

伊勢神宮正殿前

以上で本文終了となり、現地へのサクセスや参拝のコツ等は次ページに掲載しています。

これから出向いてみようかなぁ……という方は事前にご確認を。

また、お問い合わせは伊勢神宮の公式サイト(→link)や神宮司庁(0596-24-1111)へお願いします。

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