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マッサン

竹鶴政孝(マッサン)とリタ 史実の生涯を追う!ウィスキー作りに命を賭した夫婦の愛に感涙

更新日:

時は大正時代。
日本で【ウイスキー】といえば、模造品ばかりだったころ。

摂津酒造の社長・阿部喜兵衛は折から募らせていた危機感を払拭すべく、1918年(大正7年)、あるアイデアを自社の若者に向けて打診しました。

「竹鶴君、本場のスコットランドでウイスキー作りを学んでみんか?」

竹鶴君とは、朝ドラで主役となったマッサン。
こと竹鶴政孝です。

この日から、彼の熱意と尋常ならざる努力でもって、ジャパニーズウイスキーの研究が進み、現在では【世界五大ウィスキー】の一つに数えられるまでになっています。

本稿では、竹鶴政孝とその妻・リタの生涯を辿ってみましょう。

 

広島の酒蔵に生まれる

明治27年(1894年)、広島。
「竹鶴酒造」の三男として、政孝は生まれました。

兄弟は全部で四男五女の大所帯です。

そこで竹鶴は、厳格な職人である父・竹鶴敬次郎からものづくりの情熱や真髄を学びました。

竹鶴酒造/photo by K.F. wikipediaより引用

実は、広島の水は軟水であり、酒造りには向いていません。

敬次郎はその欠点を克服し、見事な酒作りを成功させた努力の人。
これが息子の竹鶴になると『学』という強力な味方も身に着けます。

竹鶴は若い頃から学業優秀で、大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学・現在の大阪大学工学部)を卒業。
ウィスキー工場を学び、そして運転させる基礎知識を身に着け、さらには摂津酒造の中でも、腕のいい若手技士として注目を集めておりました。

摂津酒造は、壽屋(現サントリー)の依頼で赤玉ワインを作っていました。

製造工程の中で殺菌が不十分だと、ボトルは発酵して破裂してしまいます。
竹鶴が担当したボトルは決してそうならず、周囲から「腕がいい」と感心されていました。

こうした地道な作業をこなす能力に加えて、好奇心旺盛かつ気の強い性格。

ジャパニーズウィスキーをゼロから作る――そんな新たな挑戦にはうってつけの人物でしょう。

彼には、幸運も味方しました。
一度は徴兵検査を受けたものの、アルコール製造ができる技師であることから徴兵を免れているのです。

そして1918年(大正7年)。
神戸港で大勢の人に見送られながら、竹鶴はスコットランドへ向かうのでした。

 

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スコットランドでの修行

竹鶴はグラスゴー大学に籍を置きました。

しかし、そこでウイスキー作りを学ぶことはできません。
専門講座がなかったのです。

19世紀末のグラスゴー大学/wikipediaより引用

大学で、ウィルソン教授からJ.Aネトルトン著の
”The Manufacture of Whisky and Plain Spirit“(『ウイスキー並びに酒精製造法』)
という本を薦めてもらうことはできました。

が、実地で学べなければ意味がない。
造り酒屋で生まれ育った竹鶴は、実地体験こそが生きた知識になることを誰よりも痛感しておりました。

そこで著者のネトルトンに頼みこんでみたものの、授業料があまりに高額すぎて断念。
次に、片っ端から蒸留所へ手紙を送り続け、各工場を訪ね歩きました。

と、ホワイトホース社のヘーゼルバーン蒸留所で、見習いとして働くことができるようになります。
1920年(大正9年)のことでした。

ホワイトホース社・グレンエルギン蒸留所(竹鶴が働いた場所とは異なります)/photo by Andrew Wood wikipediaより引用

「よく来ましたね。グラスゴー大学から話は聞いています。あなたの鼻は立派だから、ウイスキー作りにゃあ向いてますよ」

工場長は握手のために手を差しだしました。
確かに竹鶴の鼻は大きかったのです。

竹鶴は白衣のポケットにノートとペンを持ち歩き、熱心に働きました。

例えば蒸留器の清掃作業は誰からも嫌われるものでしたが、洗いながら構造を覚えるため、進んで作業に取り組みます。
そんな姿を見て、周囲も段々と彼の情熱を認めるようになります。

あるとき、老職工が竹鶴に語りかけてきました。

「おめえさん、故郷でウイスキー作る気だど聞いたけんども」
「はい、なんとしても日本でウイスキーを作りたいのです」
「たいしたもんだなあ。おれのやり方よく見てろ。蒸留器はこう動かすんだ」

グレンフィディック蒸溜所の単式蒸留器/photo by Colin Smith wikipediaより引用

3ヶ月間の見習い期間、竹鶴は常にノートを取っていました。

上司の岩井喜一郎に報告するためのノートであり、
「竹鶴実習ノート」
あるいは単に
「竹鶴ノート」と呼ばれております。

この一冊が、日本のウイスキー誕生に欠かせないものでした。

 

リタとの出会い

ウイスキー作りを学ぶ一方、竹鶴にはもうひとつの大切な出会いがありました。

1896年、スコットランド南西部の都市・グラスゴーの医師カウン家で、ジェシー・ロベルタ、通称リタは誕生しました。

一家は両親と妹2人、弟1人。
彼女の年齢は、竹鶴の2才年下にあたります。

リタの故郷(グラスゴー郊外のイースト・ダンバートンシャー カーキンティロック)/photo by StaraBlazkova wikipediaより引用

実は、成長したリタは、親の勧めでとある青年と交際し、婚約までしていました。

が、その青年は、第一次世界大戦で戦死。
婚約者を失い失意のリタの家に、妹のエラが大学で知り合ったという珍しい客人を連れて来ました。

「日本から来たミスター・タケツルよ。ラムジーに柔道を教えてもらうの」

竹鶴は中学時代、柔道部に所属しており、なかなかの腕前。
当時のスコットランドでも大人気であったシャーロック・ホームズの特技は、柔術がモデルとなった「バリツ」です。

ヨーロッパ人にとって、東洋の神秘的な格闘技は憧れの目で見られていたのでした。
エラが、弟のラムジーに習わせたいと思ったとしても、何の不思議はありません。

ハイ・ティーを楽しむ間、竹鶴は初めて出会ったリタに心ひかれていました。
一目惚れです。

竹鶴は柔道だけではなく、鼓も出来ました。
ピアノが趣味であるリタと合奏することもありました。

こうして二人は徐々に惹かれていったのでしょうか、次第に親しくなっていきます。

 

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運命のクリスマスプディング

竹鶴は、カウン家の大事な客として交流することになりました。

1919年(大正18年)のクリスマス。
クリスマスプディングを食べることにしました。

いわゆるプリンではなく、イメージとしてはクリスマスケーキに近いものです。

クリスマスプディング/photo by Musical Linguist wikipediaより引用

竹鶴とリタは、途中で堅いものが中に入っていることに気がつきました。

竹鶴は銀貨。
リタは指ぬき。

周囲の人々は驚きました。

「すごい! 独身の男性が銀貨、女性が指ぬきをあてると、二人は結婚するんだよ!」
さぞかし驚いたことでしょう。
このプディングがきっかけかどうかはともかくとして、二人の中は急速に接近してゆきます。

そしてある日、ついに竹鶴はプロポーズします。

「リタ、ぼくと結婚して欲しい。きみと結婚するために、このスコットランドに残ってもいい」
「駄目。あなたには、日本でウイスキーを作る大きな夢がある。それをあきらめたらいけません。二人で日本に行きましょう」
リタはそう答えました。

もちろん当時は国際結婚など超少数派の時代。
周囲の反対を避けるため、二人は1920年(大正9年)1月に登記所で略式結婚をしました。

ちなみにクリスマスプディングは、リタの得意料理でもありまして。
来日後もよく作り、竹鶴家でも人気の味でした。

ただし……。

結婚を知らせる手紙を受け取った竹鶴の実家は、大騒ぎ。
跡取り息子がウイスキーを作ろうとしていることにも反対だったのに、結婚までしたのですから、大変なことです。

両親は、嫁候補なら大勢いる、見合い写真を送る、と伝えたものの、竹鶴は突っぱねます。

やむなく摂津酒造の阿部社長がスコットランドへ向かいます。
阿部の判断に従う――と竹鶴の両親は折れたのです。

阿部はリタのことを気に入り、これならばと安心しました。
カウン家の人々も態度を軟化させており、竹鶴夫妻は簡単な結婚式をあげることもできました。

 

帰国、そしてウイスキー作りへ

かくして、新婚の竹鶴夫妻は日本に帰国しました。
「まさか、スコットランドから嫁さんまで貰ってくるとは……」

周囲の人々は唖然としました。
声高に反対するというよりも、一体どうしたらよいのかわからない、困惑といった反応です。

一方で、
「いや、むしろ竹鶴君は素晴らしい。これからは国際化の時代だ、率先して国際結婚とはえらいことだ」
という反応もありました。

気になるのは竹鶴の母・チョウではないでしょうか?
ドラマ『マッサン』では、泉ピン子さんがとんでもなく嫌味でイジメ連発の母親として描かれております。

が、それはあくまでフィクション。
史実のチョウは、おっとりとした心優しいの女性。はじめこそ反対したものの、やがて息子夫妻の結婚を受け入れています。

愛妻家の竹鶴は、帝塚山に瀟洒な洋館を用意し、そこで新婚生活を始めることにしました。
できるだけ生活様式を西洋風にして、妻の負担が少なくなるよう気を遣っていたのです。

例えば和式便器。
リタにとっては到底なじめないものです。
洋式トイレとイギリス式暖炉と煙突のついた洋館に、夫妻は落ち着きました。

竹鶴夫妻が英国流のアフターヌーンティーを飲んでいると、周囲から「お高くとまっている」等と言われることもありました。
夫として精一杯リタに気を遣っていただけです。
彼女にプレゼントをするときは、一筆添え、料理のことも常日頃から丁寧に褒めました。

互いに尊敬し合い、気遣う。そんな理想の夫婦でした。

リタも、日本という国に溶け込もうと努力を重ねました。
竹鶴は晩酌には日本酒を好んだため、日本料理、漬け物、塩辛の作り方を覚え、酒に合うつまみを何品も作りました。

しかし、竹鶴の夢は思わぬ暗礁にのりあげます。
第一次世界大戦後の不況のため、摂津酒造ではウイスキーどころではなくなったのです。

竹鶴は辞職し、化学教師として教鞭をとりました。
このときはリタも英語教師・英会話・ピアノ教師教師として働いています。

しかしこの生活も、程なくして終わりを迎えます。

洋酒製造販売業者・壽屋(現在サントリー)社長の鳥居信治郎から、三顧の礼をもって迎えられたのです。

いよいよ、ジャパニーズウイスキー誕生へ向けて、物語は大きく動き始めたのでした。

 

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妥協のないウイスキー作りを求めて

竹鶴が壽屋で働き始めた1924年(大正13年)、夫妻には悲しい出来事が起こりました。
リタが妊娠したものの、流産してしまったのです。

妻の傷心を癒すためか、翌年二人はスコットランドに帰郷しています。

夫妻は1930年(昭和5年)には山口広治・シゲ夫妻の子供である房子を養子に迎えています。
このとき、リタと政孝の頭文字をとり「リマ」と改名させました。

ただし残念なことに、夫妻と養女リマの折り合いは悪く、余市に移った後に家出をしてしまいます。

壽屋でのウイスキー事業も、なかなかうまくいきません。

技術の問題もあるのでしょうが、そもそも熟成を待つだけの期間が不足しており、竹鶴が手がけた商品は軒並み失敗してしまうのです。

竹鶴は、ウィスキーからビール製造部門へ異動となりました。
が、同部門を彼の承認なしに売却されたこともあり、徐々に不満を感じるように……。

竹鶴の元では、壽屋の後継者である鳥井吉太郎はじめ、若い技師たちも育っていました。

『そろそろ、妥協のないウイスキー作りに挑むべきかもしれない』
そう確信した竹鶴は、壽屋を円満退社し、北海道への移住を決めました。

北海道は、地形も、風景も、気候も、リタの故郷であるスコットランドに似ています。
ウイスキーにとっても、愛妻リタにとっても、素晴らしい土地だったのです。

余市の眺め/photo by heriheri wikipediaより引用

 

スモーキーフレーバーを求めて

北海道でウイスキーを作ることは、竹鶴の悲願でした。
壽屋時代、蒸留所候補地として北海道をすすめたものの、輸送コストや工場見学が難しいことから、反対されていたのです。

寒冷な気候のみならず、ウイスキー作りにはぴったりの土地。
というのも「ピート」(泥炭)を採取できたのです。

ピートとは、枯死した湿地植物などが炭化した石炭のことです。
水分が多く燃焼効率が悪いため、使いにくく価値が低いものでした。

これがどうしてウイスキー作りに使われるようになったかというと、まったくの偶然です。

古来よりスコットランドは、イングランドの厳しい支配により重税を課され、苦しんできました。
ウイスキー作りは、苦しい家計を救うための産業。
製造業者はコストカットを迫られ、その中で目を付けたのが価値の低いピートでした。

誰も見向きもしないピートで穀物を乾燥させたら、コストカットができるというわけです。

そうして作ったウイスキーからは、独特の香りがしました。

「スモーキーフレーバー」です。

コストカットの副産物であったスモーキーフレーバーは、スコッチウイスキーの大きな特徴となったのでした。

ピートを採取する人々/wikipediaより引用

このスモーキーフレーバーは、しかし、好みが分かれるものでもありました。

英国でも苦手とする人がいるぐらいで、日本人からは「焦げ臭い」と敬遠されがち。
それでも、なるべく本場に近づけたい竹鶴としては、この香りのこだわりを捨てるワケにはいきません。

ただ、現実的な問題もありまして。
いきなりウイスキー作りだけで会社を経営することもできません。

そこで竹鶴が目を付けたのが、余市のリンゴでした。

余市は旧会津藩士が入植してできた町で、日本で初めて西洋リンゴの栽培に成功した土地でした。

ニシン漁も盛んでしたが、これが不漁続き人手が余っている状況。
そんな余市で、まずリンゴ果汁を使った製品を作る。
そこから事業をスタートさせようとしたのです。

 

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「大日本果汁株式会社」設立

1934年(昭和9年)。
竹鶴は「大日本果汁株式会社」を設立しました。

「リンゴの搾り汁を竹鶴さんのとこさ持っていけば、金さなっぺ!」
と、当時余市の人は思っていたそうです。
ニシンの不漁と、大火災からの復興に苦しむ人々にとって、とてもありがたいことでした。

酒造免許を取得する以前に、この会社が作っていたのは、

・リンゴジュース
・リンゴゼリー
・リンゴケチャップ

といったリンゴ加工品です。

しかし、当時はリンゴ果汁に含まれるペクチンによる凝固問題がありました。
凝固が発生すると濁ってしまい、腐っているのではないかとクレームがついてしまうのです。

竹鶴の妥協しない性格はリンゴ製品についても発揮されたのですが、そのこだわりが製品の見た目を悪くしてしまったのです。
なかなか売れず、竹鶴は苦悩します。

リンゴ加工に苦労しながら、竹鶴は並行して技術者育成、ポットスチル導入を進めていました。
アップルワイン、アップルブランデーの製造も始まり、次は念願の妥協しないウイスキーです。

昭和15年(1940年)、念願のウイスキー作りが、余市蒸留所で始まりました。

ただし、このころ日本は、出口の見えない戦争へと突き進んでいたのでした。

余市蒸留所のリタハウス/photo by 663highland wikipediaより引用

 

私の目と髪が黒かったら……

ウイスキーを作り始めたころから程なくして、日果の工場は海軍監督工場となり、配給品を作り始めました。

カウン家の人々は厳しい国際情勢を心配し、リタを呼び寄せようとしました。
しかし、リタは余市に残ることを選びます。

家族の懸念は、不運にも的中してしまいました。

「鬼畜米英」のイギリス出身であった彼女は、日本に帰化していたにもかかわらずスパイ扱いをされ、四六時中特高警察から尾行されたのです。

それだけではありません。
心ない人はリタの陰口をたたき、子供は石を投げました。
愛用のラジオすら、スパイの道具だとみなされ、調べられたほどです。

母国とのやりとりも、当然一切できなくなりました。

「私は日本人なのに、どうしてスパイ扱いをされるの? この目と髪を黒くして、鼻を低くしてしまいたい……」
泣きながらそう訴えるリタ。

「リタ、きみは間違っていないよ」
竹鶴は、そう言って抱きしめるしかできませんでした。

敵国人の娘とみなされたリマも、母親に反発したのでしょうか。
親子の仲も決定的に悪化してしまいます。

そして戦時中の1943年(昭和18年)。
政孝の甥である宮野威(たけし)が新たな養子として迎えられました。

広島高等専門学校発酵工学科出身の威は、後継者候補として迎え入れられたのです。

そうはいっても、威は軍事用アルコール作りや学徒動員に行くこととなり、北海道へ来るのはその2年後、終戦直後まで待たねばなりません。

 

三級酒の意地

余市は、戦時中、空襲を受けませんでした。

「ウイスキー工場があったからじゃないか?」
と、まことしやかに言われていたそうですが、真相は不明です。
ともあれ、戦争の最中にも竹鶴が作った原酒は守られ続けました。

戦後まもなくはまだまだ食料難が続きますが、竹鶴家は例外でした。

進駐軍の兵士たちは、イギリス出身のリタを見舞いにお土産を持ってやってくるのです。
酒も貴重で、ウイスキー1本と米1俵を交換することもできました。

しかし、ウイスキー作りではまたも竹鶴の頑固さが壁となってぶつかります。

余市蒸留所は例外中の例外で、終戦直後の日本では酒はろくなものがありません。
都市部の闇市では「カストリ酒」と呼ばれるあやしげな密造焼酎が飲まれているほど。

闇市でカストリ酒を飲む人々/Wikipediaより引用

そんな最中、じっくりと熟成された余市蒸留所のウイスキーは、むしろオーバースペック。
市場に出回っているのは、原酒がほとんど入っていないイミテーションウイスキーであったのです。

当時の酒税法では、「三級酒」の規定はこうでした。
【原酒混和率5〜0パーセント】
つまり一滴の原酒も入っていない、ただアルコールに色をつけたようなものであってもウイスキー扱いされたのです。

「わしゃ三級なんぞ出さんぞ!」
そう息巻く竹鶴ですが、経営陣は許そうとしません。

竹鶴はそれでもなんとかよい三級酒を造るため、上限の5パーセントまで原酒を使い、合成着色料ではなく専用のカラメルを用いた三級酒を造りました。他社よりもやや割高でした。

それでも香りは薄く、退色しやすい酒です。
悔し涙を流しつつ、竹鶴は三級酒を売るほかありませんでした。

 

ウイスキーブーム到来

戦後の焼け野原からなんとか復興した1950年代。
ついに竹鶴に大いなる追い風が吹くこととなります。

日本にかつてないほどのウイスキーブームが起きたのです。

そこで1952年(昭和27年)。
竹鶴は社名を「大日本果汁」から「ニッカウヰスキー」に変更、その波に全力で乗ります。

・ブラックニッカ
・丸びんニッキー(1962年販売終了)
・ハイニッカ

ブラックニッカのラベル/photo by 663highland Wikipediaより引用

ライバルとなったサントリーと競い合うようにして、ニッカのウヰスキーも軌道に乗り始めました。

ちなみに竹鶴自身が晩酌で好んで飲んでいたのは、庶民的な価格帯のハイニッカだそうです。
晩年まで一日一本は開けていたとか。

ニッカの社長なのだから、さぞや高級なものを飲んでいるのかと思えば、庶民的なウイスキーを愛していたのですね。
なんだかチキンラーメンをずっと食べていた安藤百福さんみたいですが、竹鶴としては
【一番売れるものを飲む】と語っていたそうです。

竹鶴は朝に一度しか歯を磨きませんでしたが、それでも虫歯が無かったのは、本人曰く、
「ウイスキーの水割りで消毒しているからじゃ」
だそうです。

 

最愛の妻・リタとの別れ

しかし、竹鶴とともに歩んだリタには、その成功を喜ぶだけの時間はあまり残されていませんでした。

ウイスキー事業が軌道に乗り始めた頃から、彼女は体調を崩し始めたのです。

1959年(昭和34年)、リタの妹ルーシーが来日した際、竹鶴は里帰りを勧めました。
が、リタは、飛行機が嫌いだからと断ります。
このころから、いよいよ体調悪化はひどくなっておりました。

そしてその2年後の1961年(昭和36年)1月、リタは帰らぬ人ととなってしまいます。
享年64。

愛妻の死から二日間、竹鶴は部屋に籠もりきりでした。

火葬場にも赴かず、遺骨を香炉に入れさせました。
その香炉とともに、墓ができるまで寝食をともにしております。

1年後、リタのプロテスタント式の墓ができあがりました。
そこにはリタだけではなく、竹鶴の名と刻まれていたのです。

そして、この一文。

“IN LOVING MEMORY OF LITA TAKETSURU”

竹鶴は、愛についてこう語っていました。
「愛というのは、相手の幸せを願うもの。お互いの幸せが何であるかを見極めて行動することが愛だと思う」

そうかと思えば、周囲にはこんなコトも言っていたそうです。
「国際結婚だけはするなよ」

むろん、言葉をそのまま受け取るのではなく、先に亡くなってしまったリタへの複雑な思いがあることを知らされます。

体があまり丈夫でないリタ。
日本という異国に来なければ、スコットランドで暮らしていれば、妹たちのように長生きできたかもしれない。

自分と結婚したことで、リタは寿命を縮めてしまったのではないだろうか――彼はそんな自責の念にかられていたのです。
その辛い気持ちがあればこそ、国際結婚を周囲には勧めなかったのでしょう。

最愛の妻の死。
それでも竹鶴は前を向き、歩き始めます。

翌年、竹鶴は一切の妥協のない、特別なウイスキーを作りました。
クリスタルの優美なシルエットの瓶につめられたそのウイスキーは、「スーパーニッカ」と名付けられました。

スーパーニッカ初号復刻版(2009-2015)/photo by Kentin wikipediaより引用

最愛の妻・リタへの思いを込めたものであり、リタの死という衝撃から竹鶴が立ち直るためにブレンドしたもので、大卒初任給が1万5千円程度の時代に、価格は3千円です。

それでも飲みやすく、味わいのある一本として人気を博しました。

 

ウイスキーとともに生きて

竹鶴は、走り続けました。

1963年(昭和38年)。
スコットランド留学時代からの夢であった「カフェ式連続式蒸溜機」を導入。

ニッカカフェグレーン/photo by Kentin wikipediaより引用

続く1969年(昭和44年)には「宮城峡蒸溜所」の竣工にとりかかります。

標高が高い余市が「ハイランド」(高地)に対して、宮城は「ローランド」(低地)と呼ばれまして。
スコットランドに由来する呼び方です。
※宮城は、余市よりも軽快な味わいが特徴とされます。

そして同年には、勲三等瑞宝章を受章。
北海道でも、1970年(昭和45年)に開発功労賞を受章すると、それから9年後の1979年(昭和54年)に死去。
享年85。
リタと同じ墓に埋葬されました。

竹鶴は、思い切り働き、そして遊ぶ人でした。

ウイスキー作りにかけては厳しいものの、社員思いの人物でもあります。
余暇を大切にし、彼自身も魚釣りや熊狩を楽しみました。

勤め人が仕事を終えて、晩酌を楽しんでこそ豊かな人生であると考えていた竹鶴。
晩年までウイスキーを飲み、薄い堅焼きせんべいをつまみにすることも多かったそうです。

ニッカウヰスキーのボトルに描かれた紋章は、一見、西洋由来に見えます。

紋章学に基づいたもので、そのモチーフは狛犬であり、日本由来のものです。

これぞまさしくニッカの真髄ではないでしょうか?
本場スコットランドの流儀で作りながら、日本の魂を吹き込まれたものなのです。

スコットランドと日本の融合――。

そこから連想させるのは、やはり竹鶴夫妻。
互いに愛し合い、尊重し、異なる国に生まれても一つであろうとしたマッサンとリタ。

ニッカのウイスキーには、国境を越えた思いが詰まっているのです。

今夜の皆さん一杯は、二人に捧げてみてはいかがでしょう。

文:小檜山青




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【参考文献】
『父・マッサンの遺言』
『竹鶴とリタの夢』千石涼太郎
『ジャパニーズウイスキー (とんぼの本)』
『ブレンデッドウィスキー大全』土屋守

 




1位 薩長同盟
倒幕のためじゃない!


2位 意外と優しい!? 織田信長さん


3位 甲斐源氏の重責とは?
武田信玄53年の生涯


4位 漫画『アンゴルモア』で
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5位 意外と知らない
源義経の生涯ストーリー


6位 史上最強の出世人だが
最期は切ない豊臣秀吉


7位 ゴツイケメンな幕臣
山岡鉄舟の信念


8位 藤原道長
出世の見込みなかった62年の生涯


9位 大政奉還から戊辰戦争
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10位 軍師の枠を超えていた!?
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