三国志のハイライトのひとつ【官渡の戦い】。
このとき曹操は、敵のある檄文にガチギレしました。
贅閹の遺醜にして、本より令徳無く、僄狡鋒侠、乱を好み禍を楽しむ。
【意訳】曹操は汚らしい宦官の末裔で、徳なんてあるわけなく、ずる賢くて、争乱を好んで禍をエンジョイしちゃうような、あかん奴やで
曹操の敵である袁紹陣営の文人・陳琳(ちんりん)の檄文でした。
ここからずーっと曹操を馬鹿にする文章が続くのですが、曹操個人のハートに突き刺さったのは最初の部分。
贅閹の遺醜――です。
「なんでや! 祖父は関係ないやろ! 生まれついての出自言うのは卑怯や!」
要するに、曹操の祖父・曹騰は宦官だったわけです。それをあてこすっていると。
宦官=去勢された男性が子孫を作れるはずもありません。
ではなぜ、祖父が宦官なのか?と申しますと、曹操の実父・曹嵩が養子となっているんですね。
にしても、曹操は宦官との関係を指摘されてどうしてそこまで腹が立ったのか?
そして陳琳は、英雄の弱点として、なぜこの点を真っ先についたのか?
それを考えるうえで大事なのは、宦官とは一体当時の人にとってどういう存在であったか、ということでしょう。
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賄賂と贅沢三昧、三国志でおなじみの「十常侍」
三国志で、袁紹らが憎々しげにその悪事を指摘するのが【十常侍】です。
髭のない悪人面のオッサン十人組が何か企んでいて、なんだかとても悪いことはわかりますが、その中身までは特に気にとめなかった、という人もいるかもしれません。
曹操を主人公とした漫画『蒼天航路』では、曹操の恋人である水晶を妾にした挙げ句、曹操の目の前で惨殺に追い込みました。
しかし、あれはあくまでフィクションです。
それでは一体何をしていたのか、ちょっとここであげてみます。
・収賄
・建築による散財
・「清流派」の逮捕、弾圧、処刑
・霊帝の政治判断をあやまらせる
といったところです。
一番評判が悪いのは「清流派」の弾圧である「党錮の禁」でしょう。
「清流派」は「濁流派=宦官」の腐敗した政治を追及しようとして反撃をくらい、大弾圧をされてしまいました。
正義の敗北と同時に悪徳の勝利は、漢王朝は内部から腐っている――と、人々を嘆かせるに十分なものだったのです。
私腹を肥やしまくる
彼らは収賄で私腹を肥やし、豪邸を建てまくりました。
宦官は曹騰のように養子をとる場合もあるとはいえ、子孫が居ないもの。
理想としては、子孫に金を残そうとしないで清廉潔白になればよいのですが、実際はその逆でして。
「一代限りの贅沢をしたい!」
そう思うものが多いのでした。
子孫を残せないことから、生前から墓にこだわる傾向もあり、これまた豪華絢爛な巨大墓を生前から建てまくっていたのです。
ある日、霊帝がこう言い出しました。
「高台に登って景色が見たいのう」
すると宦官たちは何かと理由を付けて止めにかかります。
なぜなら彼らの豪邸を見られたらマズイから。
よほど巨大で瀟洒な建築物だったのでしょう。
天子の心の隙間を埋める
宦官がなぜ権力を握ることができたのか。
それは彼らの立ち位置にあります。
唯一無二の存在として権力を握る皇帝にとって、プライベートを司る宦官は、何でも本音を話せる存在でした。
英雄として名高い、かの漢高祖・劉邦ですら、こっそりと宦官の膝枕でリラックスするほど。それだけ気の置けない存在だったのです。
劉邦ほどの人物ならば、膝枕ですむでしょう。
ところが、英雄としての気概がない彼の子孫となると、べったりと依存してしまう。
官僚たちが書物を読み、よりよい政治を使用として頑張っても、去勢して天子を甘やかすだけの宦官が、その隙間に入って邪魔をしてしまう。
一生懸命働いてもこんな状況では、官僚も腹が立つばかりです。
それゆえ宦官と官僚は、多くの中国王朝で深刻な対立をしています。
構造的にそうなっても仕方ない状況だったおです。
しかも後漢は政治的混乱のせいか、幼帝が続きました。
宦官にとって権勢を握るのは、赤子の手をひねるようなものでした。
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