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イラスト・富永商太

伊達家 週刊武春

伊達政宗70年の生涯をスッキリ解説!【逸話 正誤表付き】史実ベースの政宗を知ろう

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伊達政宗――。
およそ彼ほど戦国好きの頬を緩ませ、ゲームファンの胸を躍らせる存在はいないでしょう。

知名度的にも「戦国三傑(織田信長豊臣秀吉徳川家康)」に次ぐものがあり、ときに人気では彼らを上回るほど。

では、その支持に釣り合うだけの事績がキッチリ認識されているのか?
と考えますと、必ずしもそうとは言えないコトもまた彼の特徴であり、魅力の一つかもしれません。

筆者は以前、仙台で彼の名前のついたビールを買いました。
ラベルのデザインセンスがよく、味も素晴らしかったですが、缶に書かれている政宗の生涯年表は間違いだらけでした。

このビール缶だけにとどまりません。
仙台は政宗のお膝元であるのに、いや、だからこそ「誇張されて関係ないものにまでこじつけられてしまう」そんな事例をいくつか見て参りました。

しかもこの問題は、仙台だけにとどまりません。
人気が高く、小説、ドラマ、漫画、ゲームの主役として脚光を浴びるからこそ、実際の伊達政宗像は見えにくくなっている部分があるのです。

今回は最新の東北戦国史研究を元に、よく誤認されている話を僭越ながら訂正しつつ、政宗70年の生涯に触れたいと思います。

イラスト・富永商太

 

鎌倉時代から続く奥州探題・伊達家

政宗本人の事績から語る前に、まず基本的なおさらいをしたいと思います。

令制国における東北地方は、太平洋側の
陸奥(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)

出羽(山形県、北東部を除く秋田県)
に別れていて、あわせて「奥羽」と呼びます。

奥羽地図

ナゼこんな基礎的なことを断るかと申しますと、たまに「奥州=奥羽」と誤解している方がおられるからです。
「奥州=陸奥」であり、「羽州=出羽」。こちらを頭の片隅に置いていただければ幸いです。

その上で、まずは政宗誕生以前の伊達家について説明しておきましょう。

フィクションでは政宗が小さな家である伊達家を拡大したかに語られることもありますが、そんなことはありません。
伊達氏は文治5年(1189年)、奥州合戦の戦功として与えられた伊達郡を本貫とし、所領を拡大。政宗の曾祖父にあたる稙宗は、陸奥国守護職に任じられておりました。

稙宗は積極的に外征を繰り返し、さらに多くの周辺大名と子女の縁組を行い、もめ事があれば調停に尽力し、影響力を拡大します。
上方の大名は後に「どうして政宗は親戚と争っているの?」と疑問を感じたそうですが、伊達家が婚姻や養子縁組を通じて勢力拡大したという背景があったのです。

その功労者である稙宗は、紛争解決の指針ともなる分国法『塵芥集』を制定(日本史の試験にも出ますね)。陸奥国守護として、奥羽に秩序をもたらしました。そして稙宗の子・晴宗も左京太夫、奥州探題に補任されています。

伊達稙宗/wikipediaより引用

政宗の父である輝宗は、その目を奥羽の外にも向けました。

彼は関東の北条氏政、そして急速に台頭しつつある織田信長徳川家康とも通交します。信長が武田勝頼を滅ぼした後は、来たるべく信長の関東侵攻を見据え、蘆名・最上等の奥羽の家との連携も進めていました。
輝宗の右腕である遠藤基信は外交のエキスパートであり、伊達家の行く末を見据えた統治の原動力となりました。

政宗の功績をふりかえるとき、父・輝宗はじめ周辺の人物が過小評価されがちですので、注意が必要です。政宗以前の伊達家当主も優秀な人物が揃っており、輝宗もそうした名君の一人です。

先祖の偉業と政策、奥州探題、そして現在の宮城県中部、福島県北部、山形県置賜郡という広大な領土を受け継いだ伊達政宗。
彼は奥羽最大である大名家の嫡男として生を受けたのでした。

 

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「独眼竜」の呼称は中国の英雄・李克用にあやかる!?

伊達政宗は、永禄10年(1567年)8月3日、出羽国米沢にて生まれました。

父は、伊達輝宗。
母は、最上義守の娘にして、最上義光の妹である義姫(お東の方、保春院とも呼ばれ、本稿では義姫で統一)。

フィクションで描かれるように伊達家と最上家は対立していたわけではなく、関係は良好でした。
要は、父が奥州探題家の出で、母が羽州探題家の出ですから、その両親の子として誕生した彼は、まさに奥羽一の貴公子だったワケです。

幼名は梵天丸。
同年代の人物には立花宗茂真田信繁(生年諸説あり)らがおります。

政宗の幼年期というと、母・義姫が彼を醜いから憎んだというエピソードが出てきますが、本稿では取り上げません。
政宗の逸話は「話を盛っている」と思われるフシがありまして。特に「弟や母親との関係性」については、「後世の人間が織田信長の挿話をなぞったのではないだろうか」と考えてしまうわけです。

もうひとつ、傅役の片倉景綱が政宗の隻眼(右眼)を摘出した逸話ですが、これは政宗の頭蓋骨に「眼球摘出のあとがない」ことから、事実ではありません。
いかにも面白いエピソードなので広まっていったのでしょう。これも含めて政宗らしいと言えばそうなのかもしれませんが。

天正3年(1575年)、政宗6歳のとき、父の輝宗は、師として僧・虎哉宗乙(こさい そういつ)を招聘し迎えました。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉でも知られる快川紹喜とも交流があり、若い頃から才知を認められてきた虎哉は、このとき46歳。慶長16年(1611年)に82歳で世を去るまで、政宗にとって師であり続けます。

虎哉は、僧侶といえども豪快な人物でした。
幼い梵天丸はどこかシャイなところがあったと伝わります。虎哉が接したのは、隻眼となった翌年。シャイな少年梵天丸を豪快な青年政宗に成長させたのは、師の教えも大きいことでしょう。
中国の歴史書である『十八史略』を教材にして「隻眼の英雄・李克用(りこくよう・856-908年)を見習いなさい」と、梵天丸に教えたとされています。

一般的にあまり語られるコトのない「李克用」ですが、その名は、政宗を振り返るに当たって避けて通れません。
というのも李克用もまた「独眼竜」と称され、彼が指揮する黒ずくめの軍団は「鴉軍」と呼ばれ恐れられていたのです。

李克用の本拠地は中国中心部の中原からみると北に位置します。
そこで虎哉は、まさに梵天丸こそ日本の「独眼竜」になるはずだと教え諭したのでした。これもまた後世の作家の創作であるという説もありますが、両者の行動をみるに当時から虎哉と政宗が意識していたと見るのは、むしろ自然なことでしょう。

幼少期のシャイな性格を克服した政宗は、黒い甲冑を身につけ、「独眼竜」として陸奥で飛躍することになるのでした。

 

輝宗・政宗二頭体制に訪れた、突然の終焉

天正5年(1577年)、梵天丸は元服し、政宗と名乗りました。

政宗とは、伊達家中興の祖・九代目政宗と同じ名です。伊達家当主はそれまで足利将軍家から一字拝領していましたが、足利将軍家の没落とともにその慣習を終えたのです。
外交に長けた輝宗だからこそ、時代の変化を理解していたのでしょう。

そして天正12年(1584年)10月、伊達家の家督は輝宗から政宗へと渡されました。
このとき輝宗41歳、政宗18歳。
壮年期の当主が20歳にならない子に家督を譲るというのは特異なことであるとされ、フィクションでは「政宗の器量をみこんで早めに譲った」という解釈がされてきました。

しかし最近の研究では、このような年齢での家督交替は特異なことではないという見方がされています。佐竹義重から義宣、北条氏政から氏直も、この年代で家督を交替しています。

ただし、このような場合、前当主である父と現当主である息子による二頭体制による統治となります。輝宗と政宗も二人で外交はじめ政治を行っており、家督相続の翌年に輝宗が不慮の死を遂げなければ、そのまま二頭政治が続いた可能性が高いと思われます。

伊達輝宗/wikipediaより引用

家督相続をした政宗は、外交政策を大きく転換します。
それまで二十年の長きにわたって友好関係にあった蘆名氏との同盟を解消し、天正13年(1585年)2月には会津の桧原(ひのはら)へ侵攻。これ以前から蘆名氏は、伊達氏ではなく佐竹氏に接近していた中での出来事でした。

政宗が蘆名を攻めたのは、大内定綱の行動がキッカケでした。当初、伊達氏に従っていた定綱が、政宗に背く動きを見せたのです。

伊達軍は、定綱と同時に、定綱を支援した畠山義継も攻撃。義継は和睦交渉を申し入れますが、突如、交渉に関与していた輝宗を拉致するという行動に出ます。政宗の手勢は反撃に出て、この報復の過程で輝宗ごと義継を射殺し、政宗はそのまま畑山攻めを続行します。
この過激な行動が、蘆名・佐竹ら反政宗勢力を集結させてしまうのです。

そして11月17日には安達郡で伊達と佐竹が激突。戦国ファンに名高い「人取橋の戦い」です。
政宗は数で劣る戦いで追い詰められるものの戦線を維持し、夜半に敵が理由不明の撤退をしたことで辛勝をおさめます。と、すぐさま二本松攻めを再開し、天正14年(1585年)4月、相馬義胤のとりなしにより和睦が成立。畠山氏は二本松城を出て、二本松領は伊達氏のものとなりました。

なんて、サラリと書いてしまいましたが、政宗はなかなかトンデモナイことをしでかしているんですね。
いくら戦国時代とはいえ、父親ごと敵を射殺というのはかなり異常な行動。恩師の虎哉も「お前が畠山をむやみに追い詰めたからこうなったんだろうが!」と激怒したとか。
さらには「伊達家当主は二人もいらないから、片方始末したの?」と皮肉る落首が書かれる始末です。

輝宗の側近であり外交手腕に長けた遠藤基信は殉死してしまい、周囲の大名も政宗に対して厳しい目線を向けます。父子対立が絶えない戦国の世とはいえ、政宗の行為は度を超したものとして周囲に認識されていたのです。

フィクションでは覚悟を決めた輝宗が「わしを撃て!」と叫んだりしますが、これは流石に美化され過ぎではないでしょうか。前述の通り、輝宗は二頭体制で政治を切り盛りする路線だったと思われるわけでして。そこから発展して、この一件は輝宗と外交政策でそりのあわない政宗による計画的謀殺説すらあるほどです。

今となっては真相は闇の中ながら、いずれにせよ伊達家の二頭体制は、突然終焉を迎えたのでした。

 

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奥州探題VS羽州探題 東北戦国時代を仕切るのは俺だ!

父の死後、しばらくの間、政宗は積極的な行動を起こしませんでした。

そして天正15年(1586年)冬、政宗は大崎家の内紛に武力介入します。内紛への武力介入は伊達家の得意とするところであり、奥州探題としての意識的な行動です。

ところがこの大崎合戦がなかなか厄介な経過をたどります。
伊達家の武力介入は反撃に遭い失敗。さらには政宗にとって母方の伯父にあたり、羽州探題である最上義光が、大崎家の支援に介入してきたのです。大崎家当主の義隆は義光正室の兄であり、彼にとっては義兄でした。

前述の通り、両者は最初から険悪な仲だったわけではなく、輝宗の代では、上方の軍勢が奥羽に侵攻した場合、最上氏と伊達は連携する手はずになっていました。

政宗の軍事行動の際には、最上家から援軍が加わることもあり、後年の長谷堂合戦では伊達家から最上家に援軍が出されています。
伊達政宗と最上義光はライバルとみなされることもありますが、武田信玄と上杉謙信のような、本気で火花を散らした関係とは異なるのです。
かといって常に仲が良かったわけではないという、つかずはなれずの関係と申しましょうか。

マンガやドラマでは、義光と義姫が政宗廃嫡を企み、小次郎擁立による伊達家支配を狙っていたとする設定もたびたび登場しますが、実はこれも創作です。

二人の行動パターンを見ていると、実のところよく似ておりまして。「奥羽の秩序を仕切るのは、探題の役目である」と共に考えていたことが、対立の根本にあるのです。
というのも、例えば書状などにおいては両者とも「国中の儀」や「侍道の筋目」、「骨肉」という言葉を使いました。
さらに探題職として助力を頼まれれば援軍を送り、逃げ込んで来た者がいれば匿い、紛争を仲裁するのも自分たちの責務であると意識していたのです。喧嘩をしている者がいれば割り込んで「まあまあ、このへんでやめておけ」と仲裁するのが役目であって、喧嘩相手を殴り倒すこととは違うわけです。

最上義光の記事でも触れましたが、人口が少なく、寒冷な地域であった東北には「相手を完膚無きまで倒すことはしない」という東北のやり方があり、彼らも土地の特性にあわせて最良の方法を探っていたわけです。
ある意味、伊達と最上のこうしたやり方は「惣無事」の原型とも言えます。

アートとしてもイケてる最上義光像

 

伊達家を支えた片倉喜多と片倉景綱 2人は最上寄りの人間だった

かくして最上も絡んだ「大崎合戦」で足踏みをしている政宗の苦境が伝わると、周辺の勢力が動き出します。

相馬、蘆名、佐竹ら連合軍が軍事行動を起こし、天正16年(1587)6月、郡山城を包囲(郡山合戦)。政宗自ら出陣し粘り強く戦い抜き、翌月にはなんとか和議に持ち込みます。

更に、この同時期、伊達・最上領の国境に最上勢が進軍します。
いよいよ一触即発!となったその瞬間、両軍の間に現れたのが政宗の母であり最上義光の妹であった義姫です。
彼女の登場によって両者は和議を成立させたのでした。

この義姫の行動は「肝っ玉母ちゃんの勝手な行動」とネタにされたり、「平和を愛する女神のような義姫の献身」と美化されたりしがちですが、決して突発的な行動ではありません。

80日間の長期滞在ですから、輿で乗り込んで座りこむだけではなく、大名夫人が寝起きできるようちゃんと即席の小屋が作られています。
周囲には片倉景綱の姉である片倉喜多はじめ侍女がついていて、景綱の許可も得ていました。

ここで片倉喜多&景綱の姉弟について補足説明しておきましょう。

喜多は、政宗の乳母とされていますが、生涯独身で子がなかったので、乳を与える役目は担っていません。
喜多には義姫や政宗正室・愛姫の侍女をしていた時期もあります。

養育係というだけにはとどまらず、秘書的な役目を果たすキャリアウーマンといったところでしょうか。彼女の才知をほめたたえた豊臣秀吉が、彼女を清少納言に由来する少納言との名を与えたという逸話もありますが、彼女は秀吉に出会う前から少納言と呼ばれていますので、創作でしょう。

一方、景綱は、小十郎の名がよく知られています。この名の由来は母方の叔父・飯田小十郎が武勇に優れていたことにあやかっています。
この飯田小十郎は最上家家臣です。つまり彼の母親は最上家臣の娘、ということになります。また、景綱のおばが最上家の氏家氏に嫁いだとする家系図もあります。義光の父・最上義守が重病の際、伊達家から景綱らを枕頭に呼び寄せて「私の死後も伊達と最上は協力していくように」と言付けたという話も残っています。

つまり景綱は、かなり最上家寄りの人物であるわけです。

片倉景綱/wikipediaより引用

景綱は政宗の右腕、軍師としてフィクションで描かれることが多く、傅役とされることもあります。
が、当時の記録には残っていません。
9歳で政宗の御小姓となって以来、そばにいたことは確かです。ただ、天正14年(1585)には大森城主となり、政宗の側にピッタリという状態ではなくなっています。

そもそも景綱の業績を見ていくと、参謀というよりも外交担当的な役目が多いのです。政宗と小十郎のコンビは有名で人気もあり、常にセットであるかのようなイメージがありますが、あくまでフィクションとしての描写と思っていた方がよいかもしれません。

閑話休題。

話を戻しますと、この「義姫和睦作戦」は景綱の影がチラチラと見え隠れするんですね。

外交担当として最上家と関わってきた景綱からすれば、まさに義姫こそ最高のカードだったのでしょう。結果的に伊達と最上は一滴の血も流れずに解決したのですから、これこそ景綱の面目躍如というところではないでしょうか。




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もちろん義姫本人の交渉力もあります。政宗も義光も当時は余裕がなくて、本音を言えば矛を収めたいのにきっかけがなくて困っていた、という事情もありますが。

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