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ルイ16世/wikipediaより引用

フランス 週刊武春

ルイ16世って素敵な人じゃん! 無実の罪で処刑されてなお、平和を願った優しき王に涙

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1789年7月14日、怒りに燃えたパリ市民がバスティーユ監獄を襲撃。
フランス革命が勃発しました。

ところが、です。この日、国王ルイ16世が書き残した日記にはこうあるのです。

「何もなし」

革命が起こったにも関わらず、何と愚かな!
と、ルイ16世は、とかく愚鈍な暗君としてとらえられがちです。

しかし、彼をただの暗君と片付けて良いものでしょうか。

バスティーユ襲撃/wikipediaより引用

 

『ベルサイユのばら』にも強い影響

ルイ16世は、フランス革命の犠牲となった王ということもあり、様々なフィクションに登場します。

太めの冴えない男性として描かれることもあれば、細身の美男として描かれることもあり。
現在でも最も多いイメージが『ベルサイユのばら』に描かれたような、ぽっちゃりしていてどこか鈍く、悪い人ではないけれども魅力的に欠けて頼りないという人物像ではないでしょうか。

こうした彼のイメージは、オーストリアの伝記作家シュテファン・ツヴァイクが定着されたと言われています。

彼の伝記は優れていて、とりわけルイ16世の妻であるマリー・アントワネットは傑作とされています。

『ベルサイユのばら』にも強い影響を与えておりますが、同伝記ではマリー・アントワネットの行動を弁護するあまり、ルイ16世を必要以上に無能で愚鈍に描いているという欠点があるのです。マリー・アントワネットの人気が高まるにつれ、比例してルイ16世の愚鈍なイメージが定着するという、困ったことになっていたのです。

王妃となったマリー・アントワネット/Wikipediaより引用

しかし、こうしたルイ16世は近年修正されつつあります。

現在のフランスでは、革命を押しとどめるだけの力はなかったものの、実力があった慈悲深い王とされているのです。
というのも彼の在位前、フランス王政は腐敗の極みにあり、立て直すことはどんな名君でも難しい状況にありました。そんな中でも、ルイ16世はアメリカ独立戦争で宿敵イギリスを破るといった成果もあげています。

そこで本稿では、彼のよくある誤解を解きたいと思います。

 

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そもそも肥満体型だったのか?

ルイ16世といえば、『ベルサイユのばら』でもおなじみのぽっちゃり体型というイメージが強くあります。

しかし、実際の彼はぽっちゃり体型というよりも巨体でした。
全身にたくましく筋肉がつき、ヘラクレス並と呼ばれるほど力が強い、まさしく巨大なスポーツマン体型。
王太子時代のルイ16世は、祖父・ルイ15世が心配するほど痩せていたのです。

これは豪華な食事をたっぷりと摂取していた当時の王族としては、かなり珍しいことです。
即位前、少年期のルイ16世は小食で、質素な料理を好みました。ずらりと並んだ食事のうち数皿に口をつけるのみ。若い頃に描かれた肖像画は、痩せぎみで繊細そうな表情をしています。

即位してからのルイ16世は、肉がついて来ました。
とはいえ、190センチを越える長身であるため、肥満体というより大柄なマッチョという感じですね。

処刑前は不健康な太り方をした絵が残されていますが、収監されていて運動できなかったこともあるでしょう。ガツガツと大食らいで肥満した王というイメージは、「民衆の血と汗の成果で肥え太る王」という当時の民衆が嫉妬と憎しみをこめて強調した面もあるはずです。

また、マリー・アントワネットは極端な小食で、鶏の脚一本とグラスの水さえあれば満足すると言われたほどでした。
そういった小食の人からすれば、ルイ16世が大食漢に思えたかもしれません。

ルイ16世/wikipediaより引用

 

貴婦人に気の利いた言葉も言えないほど、冴えない男だったのか?

ルイ16世はマリー・アントワネットを満足させることができないほど、鈍感で鈍く、魅力に乏しかった、という評価があります。

しかし、この評価も現代人目線で見ると「むしろ人間として美徳を持っているのではないか?」と感じさせます。

ルイ16世は大勢の愛人に囲まれていたルイ14世やルイ15世のような、華やかで軽やかなプレイボーイタイプではなく、思慮深く思いやりのある性格でした。
確かにダンスや気の利いた言い回し、優雅な振る舞いは苦手だったかもしれません。それでも気が優しく聡明なルイ16世は、家庭教師から名君の器と絶賛されていました。

しかし妻のマリー・アントワネットは、夫とは正反対のタイプでした。
彼女は読書嫌い、勉強嫌いで軽薄な性格です。

「小難しいことばっかり言っていて、いやになっちゃう」
夫が哲学や思想について語っても、通じなければこうなってしまうんですね。

現代においても、例えば合コンで映画の話を振られて「あの監督が描きたいテーマはあれで、あの場面にはこういう意味があって……」と深い考察を披露してしまい、相手に退かれるタイプっておりますよね。その手のすれちがいがこの夫婦では起こっていたわけです。

また、ルイ16世のイケてない趣味とされる「錠前作りや家具作り」ですが、これは要するに彼に理工系の素養があったということです。
ルイ16世は処刑人アンリ・サンソンがギロチンの刃についてアドバイスを求めた時「斜めにすればよいだろう」と即答しました。
彼はこういった知識が豊富であったのです。

文系の教養が重視される当時では変人の趣味かもしれませんが、現代人からすれば「別にそれくらいよいのではないか」と思えません?

派手に遊んで財政を破綻させる王よりも、むしろまっとうではないでしょうか。

人類史で2番目に多くの首を斬り落としたアンリ・サンソン 心優しき処刑人の苦悩

 

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ある意味ナポレオンよりも軍事的センスがある?

ご存じ希有な軍事的天才ナポレオンと、ルイ16世を比較した時点で「オイオイそりゃちょっとないんじゃないの?」と思うかもしれませんが、これには理由があります。

ルイ16世の時代、古くからの宿敵であるイギリスとの戦争は、ヨーロッパ大陸ではなく新世界に移っていました。そんな中、以前にも増して重要になったのが、海軍力です。

伝統的に強いイギリス海軍に対抗するためには、フランスも海軍改革をせねばならない!
ルイ16世はそう考え、刷新に着手しました。
歴代のフランス君主が海軍力増強に関心を持ちませんでしたが、ルイ16世は違います。

「これからは強大な艦隊を持たねばならない」
と、海図をじっと睨み、細かい指示を与え、将校だけではなく乗組員の境遇にも関心を寄せていたのです。さしずめ「動かざる航海王」といったところでしょうか。
彼の正しさは、フランスの支援を受けたアメリカが、独立戦争に勝利するという形で実りますが、そのあとにも皮肉な形で証明されることになります。

フランス革命の後、ルイ16世の海軍改革は水泡に帰しました。
革命の影響を受け、貴族階級が多かった海軍士官は亡命するか、処刑されるかして、ごっそりと抜け、弱体化したのです。
革命後にのし上がったナポレオンは宿敵イギリスを倒すべく動くものの、そのたびに「木でできた壁」(木造戦艦=海軍が行く手を阻む)ことイギリス海軍が行く手を阻みました。

ナポレオンは陸軍の指揮においては無敵の強さを誇りましたが、海軍についてはまったくの素人でした。
それにも関わらず、自分の思った通りにしろと海軍士官に命令したため、かえって現場は混乱。海軍力を欠いたため、ナポレオン率いるフランスはイギリスに打撃を与えることができません。

ナポレオンwith愛馬マレンゴ/wikipediaより引用

この点、宿敵イギリスに対抗するためには海軍力こそ必要であると見抜き、改革を行ったルイ16世の方が優れていたと言えるのではないでしょうか。

また、ルイ16世はアメリカにとっては独立に尽くした恩人とも言えます。独立記念日には、アメリカ大使が独立戦争の英雄・ラファイエットの墓地に花束を捧げるのも、こうした背景があるからです。

とはいえ、そのラファイエットをアメリカに派遣したルイ16世に対しては、アメリカでもあまりよいイメージがないようです。
ハリウッド映画でも伝統的な愚鈍な暗君で描かれることがあります。これはちょっと酷いんではないの、と個人的には思ってしまうんですよね。

 

無能で民衆の苦しみを知らなかったのか?

ルイ16世は、庶民の家を散歩がてらに見て回る趣味がありました。
この王の習慣はアンリ4世以来途絶えていたもので、庶民の生活を知るためには欠かせないものでした。

しかも、ただのポーズではありません。彼は民の苦しみに理解を寄せる心優しい人物だったのです。

即位後には、拷問や農奴制度を廃止。人道的な政治を目指しました。
様々な障害に阻まれ政治改革は頓挫してしまったものの、責任感を持ち世界をよりよくしたいという善意を常に持ち合わせていました。

前述の通り、革命勃発の夜、日記に「何もなし」と記載したことが彼の愚鈍さ、民衆への無関心さとして取り上げられることがあります。

これには注意しなくてはいけません。
ルイ16世は就寝前に日記を書きました。革命が起こったのは、王の就寝後でした。
つまり、その日に何かあっても書きようがなかっただけに過ぎません。

前述の通りルイ16世は、アメリカ独立戦争に協力を惜しみませんでした。
これにはもちろん、宿敵イギリスから植民地アメリカを独立させ、打撃を与えるという外交的な意味もありました。それだけではなく、ルイ16世は民主政治を求めるジョージ・ワシントンらの理想に共感し、憧れる気持ちもあったのでしょう。

崇高な精神とはいえ、これは危険なことでした。
フランス革命後、周辺諸国の君主は革命が伝播することを恐れ、民主主義に嫌悪感を示しました。ルイ16世も彼らのように、民主主義がいつか自らの玉座をもおびやかしかねないと、毛嫌いしてもおかしくはなかったはずです。

彼は国王でありながら、理想の政治、民のための政治に憧れていたのです。
このことこそが彼の究極の優しさであり、命取りにもなる部分でした。

 

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フランス国民は王を憎んでいたのか?

ルイ16世を語る上で解かねばならない最大の誤解は、民から嫌われていた暗君であった、ということです。

庶民の家を散歩するのが日課で、民主主義にあこがれを抱き、政策においても民のために譲歩した国王を、民衆も慕いました。

贅沢三昧にふけったルイ14世、政治にも民の生活にもまったく関心を抱かなかったルイ15世とは違ったのです。浪費癖で嫌われたマリー・アントワネットとは異なり、ルイ16自身はヴァレンヌ事件(1791年)で逃亡未遂が発覚するまで、民衆に嫌われていたわけではありませんでした。

しかし、ルイ16世の民衆への寛大さが、皮肉にもそれが革命の勃発や進行の一因ともなりました。

彼は民衆の要望に応じて高等法院を復活させ、三部会を開き、その声を聞こうとしました。そんなことをせず、権力で民の声を握りつぶしていたならば、革命の芽を詰むことに成功したかもしれません。
フランス国旗のトリコロールは、「自由・平等・博愛」という革命の精神をあらわしているとも言われていますが、正しくはありません。
パリ市民軍の色青と赤で、王家の白を挟んでいるのです。パリ市民と国王の協調が本来の意味でした。

 

罪を犯したから処刑されたのか?

1792年、王権が停止され、ルイ16世は王ではなく「市民ルイ・カペー」となりました。

革命家たちは国王をどうするかで激論を戦わせました。
もしもルイ16世が暴君であれば、結論はもっと簡単に出たことでしょう。

しかし、彼自身に罪がない。

そこで処刑の理由は、王制そのものに向けられました。
「ルイ・カペー本人に罪はないが、国王という存在は民主主義の敵である」

それでもなお、穏健なジロンド派はじめ、多くの革命家たちは国王の処刑に反対しました。
国王を処刑するかどうかの決戦投票でも、結果は賛成361票に対して反対は360票。処刑が決まったのはごくごく僅差だったのです。

1793年1月21日。処刑人サンソンは前夜一睡もできませんでした。
が、処刑される国王自身はたっぷりと眠った、と周囲に言いました。

そして処刑台にあげられる前、彼はこう言いました。

「私は無実の罪で死にます」
続けまして……。
「私は、私の命を奪う者たちを許します。あなた方が今こうして流そうとしている血が、フランスに注がれぬよう、私は祈りを捧げます」

処刑を見るために押し寄せた群衆の騒ぎにかき消され、その声を聞いた者は少なかったことでしょう。

しかしこの短い最期の演説は歴史に残ります。

ギロチンで処刑されるルイ16世/wikipediaより引用

 

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革命後もフランスで流れ続けた血

ルイ16世の処刑のあと、その敵意は彼の妻、子、妹らにも向けられました。
流血がなければ革命は成し遂げられないとでも言うように、容赦なく血は流れ続けました。

民衆に追い詰められながらも、最期までルイ16世は彼らを気遣いました。
しかし彼の祈りは届かず、恐怖政治、ヴァンデの反乱、フランス革命戦争、ナポレオン戦争と、フランスはこのあとおよそ30年血を流し続けることになります。

民衆にさらされるルイ16世の首/wikipediaより引用

君主としては民衆を愛し、夫としては妻を愛し、慈悲深く聡明でもあったルイ16世。
その国王と王妃を処刑し、王子を無残な幽閉死に追いやったことは、フランスの歴史上の汚点かもしれません。

国王としてイメージされる偉大さに欠けたためか、現在においても彼の評価は「イマイチ冴えない気の毒な王」として記憶されています。
あまりに雄々しく描いてもそれはそれで彼の実像とはかけ離れてしまいますが、愚鈍なぽっちゃり王というイメージからの脱却をそろそろはかるべきではないでしょうか。

文:小檜山青

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【参考文献】

 

-フランス, 週刊武春

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