額に矢が刺さって最期を迎える――そんな壮絶な死に方をした大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の木曽義仲。
あれは一体なんなんだ? 史実なのか?
そう思われた方も少なくないでしょう。
答えは後述させていただくとして、本稿で注目したいのは、その隣にいた武士。
今井兼平です。
『鎌倉殿の13人』は北条義時が主人公のドラマゆえ、兼平の注目度はそう高くはありませんでしたが、これがもし義仲が主役であれば、兼平もまた主役級に重要な人物。
幼少の頃から義仲に付き従い、そして最期は同じ日に自害で果てています。
非常に結びつきが強く、理想の主従関係だったことでも語られるこの二人。
何がどうしてそう思われたのか?
今井兼平の生涯を振り返ってみましょう。
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今井兼平は義仲に全てを賭けた一族出身
今井兼平と木曽義仲と結びつけるのは「乳母(めのと)」と「乳母子(めのとご)」の関係です。
兼平の母が、義仲の乳母だったんですね。
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こうした取組は当時の特徴とも言えるのですが、乳母と言うと、どうしても「授乳」をイメージされると思います。
しかし、両者の関係はそれだけではありません。
乳母は生涯にわたって後見役を務める女性でもあり、結果、一族同士の関係は自然と濃くなり、子供たちは兄弟のような絆が生まれる。
その中でも理想的な人物として知られるのが今井兼平。
前述の比企一族が頼朝を全力で支えたように、兼平とその家族もまさにそうでした。
以下のメンツが義仲を支えた兼平の家族です。
こちらをご覧になっていると、こんな疑問も浮かんでくるかもしれません。
なぜ源氏の血を引く義仲が、中原兼遠を頼り、木曽の山奥で育ったのか?
同じ源氏である頼朝の一族とはどんな関係だったのか?
兼平の生涯にも大きく関係しますので、おさらいしておきましょう。
親世代から因縁のある義仲と頼朝
平安時代末期、京都の政治闘争に河内源氏も巻き込まれました。
河内源氏の長である源為義と二男・源義賢は、摂関家を後ろ盾として権力争いに対抗。
一方、長男の源義朝(頼朝んの父)は関東へ向かい、新たな道を目指します。
・源為義(父)
・源義朝(長男)
・源義賢(二男)
この兄弟はやがて争いに発展し、ついに凄惨な結果を迎えます。
久寿2年(1155年)、源義朝は、自身の長男で悪源太の異名を持つ源義平に、叔父である義賢の大蔵館を襲わせたのです。
【大蔵合戦】と呼ばれ、敗れた義賢は遺児・駒王丸をひそかに逃しました。
駒王丸は、まず武蔵国に本拠を構える斎藤実盛、畠山重能(畠山重忠の父)らの元へ逃れ、その後、信濃の中原兼遠に送られます。
武士同士の血縁と恩義のネットワークを経て、駒王丸は木曽の山中で育つことになったのです。
久寿元年(1154年)に駒王丸が木曽に匿われたとき、仁平2年(1152年)生まれの今井兼平はまだ物心つくかつかないかの年頃。
二人は、兄弟のように育ってゆきます。
ドラマ等ではワイルドさが強調される義仲ですが、当時の記録には「美男子である」と記録されています。
義仲の逸話は、あくまで京都目線。
木曽の山中にいる豪族からすれば、美男であり、洗練された貴公子です。
幼い頃は大事に育てられ、成長してからはその背中をずっと守りたいと思える――そんな麗しい主従関係が育まれてゆきます。
なんせ中原兼遠は、彼の全てを木曽義仲に賭けたといっても過言ではありません。
息子たちは義仲の右腕となり、娘たちはその室となりました。
巴御前は室でありながら武勇に長けていたほど。
義仲の武勇も、まさにこの一族あってのものであり、家族も同然。
今井兼平は、木曽義仲には無くてはならない存在でした。
なお、兄弟二人は、樋口兼光が樋口の地を領し、今井兼平が今井の地を治めています。
義仲四天王として
治承4年(1180年)、木曽義仲が立ち上がると、当然のように兼平きょうだいはその挙兵に付き従いました。
義仲に従う中でも際立った働きをするものたちは「四天王」と称され、兼平も名を連ねています。
今井兼平
樋口兼光
根井行親
楯親忠
華々しい兼平の戦歴をざっと見てみましょう。
養和元年(1181年)に信濃国で起きた【横田河原の戦い】では、越後平氏・城助職を撃破。
寿永2年(1183年)の【般若野の戦い】【倶利伽羅峠の戦い】ならびに【篠原の戦い】でも兼平らの活躍により木曽が圧勝しました。
義仲軍の破竹の勢いに耐えきれず、この年の夏、平家は都落ちに追い込まれています。
木曽義仲とその配下は京都へ。
10月【福隆寺縄手の戦い】では、平家方の妹尾兼康を撃破しました。
しかし入京後、粗暴な義仲たちはすぐさま信望を失ってしまいます。
義仲の進軍を喜んでいた後白河法皇ですら、平家に助けを求めるほどで、まもなく義仲軍は後白河法皇を擁した平家軍と11月に【法住寺合戦】で激突。
この戦いでも、兼平と兼光兄弟の活躍が著しかったと記録されています。
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しかし、彼らの荒々しさ、猛々しい戦いぶりは、いいことばかりでもありません。
誰も彼らを諌め止めることができなかったとも言えるし、その結果、朝廷や庶民から反感を買い、破滅へと向かったことも確かでしょう。
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