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真田幸村(真田信繁)45年の生涯をスッキリ解説! 史実の幸村は一体どんな武将だった?

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真っ赤な鎧を身につけて、死地へと疾駆する騎馬武者・真田幸村――。
歴史ファンにあらずとも、誰もが一度はその姿に目を奪われた経験がおありでしょう。

祖父母の代では『真田十勇士』。
子は『真田太平記』。
孫は『戦国無双』……と、アタマに思い浮かべる作品は違えど、幸村という名前はいつも気高い精神の象徴として日本人に愛されてきました。

しかし、です。
こと史実となると、彼の前半生については不明なことだらけです。

意地の悪い見方をすれば「大坂の陣で活躍しただけの一発屋」という評価も否定できず、2016年の大河ドラマ『真田丸』においても、前半は父・昌幸、中盤は石田三成が存在感を放っておりました。

だからこそ今一度、振り返ってみたい。
大坂の陣に彗星のごとく現れた男の真価とは?

史実における真田幸村とは?

 

信濃の国衆・真田家次男として誕生

真田幸村の前半生は不明なことだらけ――。それは生年からしてハッキリしてないことが、よく物語っているでしょう。

伊達政宗と同じ永禄10年(1567年)説もあれば、本能寺の変が起きた天正10年(1582年)説もあり、複数の言い伝えがあるのです。

わかっていることは、亡くなった慶長20年(1615年)が、だいたい45歳前後であったこと。
父は、武田家に仕えていた信濃の国衆・真田昌幸で、母は兄・真田信之と同じ山之手殿(寒松院殿)でした。幼名は弁丸です。

母については出自も曖昧です。
京都出身というのは確かなようで、貴族・菊亭晴季の娘という記録もありますが、真田家とは家格がつりあわず、同説は否定されています。

成年もはっきりしないくらいですので、幼少期どんな生活を送っていたかも不明です。
生誕の地は父が武田家に仕えていたことから、甲府の可能性が高いでしょう。

 

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武田氏滅亡

弁丸の人生に大きな転機が訪れるのは、天正10年(1582年)春のこと。
父・昌幸の主である武田家(武田勝頼)が滅亡したのです。

このとき弁丸ら真田家の面々は、他の家臣の家族と同様、人質として武田氏の本拠地・新府城におりました。

武田勝頼は新府城から落ちる際、まだ建築途中の城に火を放ちます。
炎は三日三晩燃えさかり、多数の人質が焼死したと伝わります。そして新府城を去ると、4月3日に切腹し、その生涯を終えました。

昌幸正室・山之手殿、嫡男・信之、次男・弁丸ら真田家の人々は、飢えや掠奪に悩まされながら、やっとのことで真田の本拠地まで落ち延びます。

同時にそれは真田苦難の時代の始まりでもありました。

父・昌幸は主家の滅亡後、北条氏に接触をはかるも、結局は武田領内に侵攻してきた織田家に臣従。
真田家の本領は安堵され、昌幸は滝川一益の麾下に入りました。

まずは一安心……と言いたいところですが、今度は6月2日、織田信長織田信忠父子が「本能寺の変」で横死を遂げてしまうのです。

イラスト:富永商太

 

真田弁丸の人質時代

主君の横死により、武田領内に取り残された織田方の武将は一気に窮地に立たされました。

滝川一益は、素早く沼田城を昌幸に返還。旧武田領を無事に通過するため、武田旧臣であり徳川家康に臣従した依田信蕃(よだのぶしげ)に助力を求めます。
この一益の依願に対し信蕃は、佐久・小県郡の諸士から人質を取ることを提案したのでした。

人質リストの中には、真田昌幸の老母・河原氏と次男・弁丸がおりました。
実際、一益が木曾義昌の領内を通過しようとした際、人質の引き渡しを求められ、河原氏と弁丸を義昌へと引き渡しております。
ただ、義昌にとって人質は一人で十分だったらしく、弁丸だけは先に解放されたようです。

無事に旧武田領を通過した一益でしたが、織田家の行く末を決める「清須会議」には乗り遅れ、信長の後継者レースから脱落してしまいました。

一方、弁丸の父・昌幸も正念場を迎えていました。

武田勝頼、織田信長と、立て続けに支配者のいなくなった旧武田領。
この広大な領地を奪うため、北条・上杉・徳川の三者が、三つ巴の争いを展開したのです。

俗に「天正壬午の乱」と呼ばれる戦いの始まりでした。

関東甲信越の大大名たちがガチンコでぶつかりあう、戦国期でも規模の大きな戦い。
その中心に位置していた真田昌幸は、権謀術数をめぐらせ戦い抜きます。

昌幸は、上杉→北条→徳川と臣従する相手を巧みに変え、本領確保のために動き回るのですが、この激しい戦いは天正10年(1582年)10月、北条と徳川の和睦という形で終結を迎えます。

この和睦条件の一項目が、真田家の将来に大きな影響を与えました。

「北条氏に上野国の領有を認め、真田領の沼田・吾妻領を引き渡すこと」

必死になって守ってきた土地を明け渡さねばならなくなったのです。

沼田は、関東・信州・越後における交通の要衝であり、そう簡単に譲るわけにはいきません。


※赤い城マーク(左)が上田城で、右側に2つ並んでいるのが沼田城と名胡桃城/水色=上杉家の春日山城/黒=武田勝頼の新府城/緑=北条家の小田原城)

一体何のために戦ってきたのか。
そもそも武田家臣時代からの領土をなぜ引き渡さねばならないのか。

理不尽な要求に対して、もしも真田昌幸が並の国衆ならば、涙を呑んで泣く泣く引き渡していたことでしょう。
徳川家康にしても「まさか逆らわないだろう」という驕りがあったのかもしれません。
このとき家康は、昌幸の要請を受けて尼ヶ淵に城(上田城)を築いておりました。

家康としては「上田に城を作らせたからには沼田をよこせ」という理屈だったのかもしれません。

しかし昌幸はそうは考えません。
それはそれ、これはこれ。
強気でいられたのには、もちろん理由があります。

このとき徳川家では、真田からの人質を確保できておりませんでした。
昌幸の母・河原氏は、体調不良等を理由に木曾から徳川への人質引き渡しが延長されているうちに、秀吉との間で「小牧・長久手の戦い」がスタート。
混乱の最中、河原氏は昌幸の元に戻っていたのです。

もはや徳川に臣従する理由はナシ!
昌幸は徳川から離反して、今度は上杉に従属。更には上杉を経由して、羽柴秀吉との交渉ルートを獲得します。

このとき従属の条件として人質に出されたのが真田弁丸でした。

上杉家に預けられた弁丸は、知行も与えられ、上杉家臣として出仕することになりました。
どういういきさつなのか。
詳細は不明ながら単なる人質ではなくなった弁丸では足りず、新たな人質として昌幸正室・山之手殿も上杉家に送られます。

そして天正13年(1585年)、昌幸は上田城に押し寄せた徳川勢を相手に戦うこととなります。

第一次上田合戦。
多勢に無勢ながら真田が大勝利をおさめた戦いとして名高いこの合戦で、弁丸が果たした役割はあまりよくわかってはいません。
一説には、祢津古城の守りに配置されていたとされています。

 

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大坂での真田信繁

第一次上田合戦にて、真田昌幸は徳川方を撃退。大勝利をおさめます。

そして昌幸は、徳川勢相手に形勢を有利にすべく、羽柴秀吉と手を結ぶことを目指します。
徳川にとって秀吉は「小牧・長久手の戦い」以来の敵。真田にとって羽柴は「敵の敵は味方」というわけです。

しかし、秀吉と徳川の間では和睦が成立しておりました。更に徳川は、真田と激しく対立していた北条とも同盟を結びました。

昌幸、再びの大ピンチ。
いくら上杉が味方についていようとも、北条と徳川から本気で攻められれば、そのダメージは計り知れません。

残された唯一の道は、秀吉への臣従――。

かくして天正14年(1586年)、上洛を果たした昌幸は豊臣政権下で大名として認められ、真田・沼田・吾妻領の安堵を得ました。
引き換えに、弁丸改め真田信繁を大坂へ送ることとなりましたが、秀吉に気に入られた信繁は豊臣へ出仕することになり、人質として肩身の狭い思いはしていないでしょう。
大河ドラマ『真田丸』のように淀君に気に入られたかどうかは不明ですが……。

それから約4年後の天正18年(1590年)。
再び真田を舞台にして、天下が動きます。
従来からモメにモメていた北条との沼田問題をキッカケに「名胡桃城の争い」が起き、これを契機に「小田原征伐」が始まるのです。

難攻不落の小田原城に籠るのは北条氏政と氏直を中心とした北条家。
対する秀吉軍は20万以上とも称される大戦力で海も山も取り囲み、マトモな戦闘は赤鬼・井伊直政が突撃したぐらい(支城では多くの実戦あり)。
軍役奉公をつとめた信繁に活躍の舞台はなく、その後、東北で起きた「九戸政実の乱」討伐には、父と兄と一緒に出陣したようです。

文禄3年(1594年)、真田信幸・信繁兄弟は同時に任官および豊臣姓を下賜されました。

兄・信幸は従五位下伊豆守で、弟・信繁は従五位下左衛門佐に叙任。
信繁の結婚は、この頃と推察されます。
正室となったのは、大谷刑部吉継の娘・竹林院でした。

兄・信幸の正室は徳川家臣・本多忠勝の娘である小松殿です。
兄弟の運命は、この頃から別れ始めていたのかもしれません。
信繁は秀吉の篤い信任を受け、小身ながらも豊臣大名としての道を歩んでいました。

しかしその豊臣家の内部には、亀裂が入り始めていたのです。

文禄・慶長の役。
関白秀次切腹事件。
そして、秀吉の死。

遺児・豊臣秀頼はまだ幼く、混迷する日本の天下を支えることはできるはずもありません。
すべての豊臣大名に選択がつきつけられる中、真田一族にも決断の時が迫っていました。

彼らに残された猶予は長くはありませんでした。

豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかった!? 天下人に降りかかった衝撃スキャンダル!

 

天下分け目と「犬伏」の別れ

秀吉の死から僅か2年を経た、慶長5年(1600年)。徳川家康が動きました。
上杉景勝に謀叛の疑いありとして、征伐を決断したのです。

真田昌幸・信幸・信繁は、家康の元に馳せ参じるべく、宇都宮を出立。途中下野・犬伏に宿泊します。
そこへ石田三成の使者がやってきて、「内府ちがひの条々(家康のルール違反まとめ状)」と、三奉行(長束正家・増田長盛・前田玄以)の連書状を届けたとされます。

いわゆる「犬伏の別れ」ですが、後世の脚色もみられる挿話。
それを踏まえた上で、三人のやりとりパターンをA~Cで想像してみたいと思います。

パターンA:野心に満ちた昌幸
昌幸「わしは石田方に味方しようと思う」
信繁「それはよいお考えです、父上」
信幸「内府の動員令に応じて出陣したのに、逆らうというのは賛同いたしかねます」
昌幸「今まさに天下が再び乱れようとしているのだ。この機に乗じてさらなる家の繁栄を願ってこそ、武士の生き方ではないか!」
信幸「なッ……!」

パターンB:家康が嫌いな昌幸
昌幸「わしは石田方に味方しようと思う」
信繁「それはよいお考えです、父上」
信幸「内府の動員令に応じて出陣したのに、逆らうというのは賛同いたしかねます」
昌幸「ふん、そもそもわしは内府には積年の恨みがある。従うつもりなどないわ」
信幸「ええッ!?」

パターンC:安全策を取りたい真田家
昌幸「わしは石田方に味方しようと思う」
信繁「それはよいお考えです、父上」
信幸「わが妻は徳川家臣の娘。そして弟の妻は大谷刑部殿のご息女。ここは父子で別れて戦いましょう」
昌幸「うむ。それならばいずれかが負けても家は残るな」

どういう話し合いの結果をたどったかは確定できかねますが、結果はわかっています。

石田方:真田昌幸・信繁
徳川方:真田信幸

ただし信幸は「犬伏」以前に「女中改め」と称して、正室・小松姫を大坂から上田へ引き揚げさせておりました。
最初から徳川につく方針だった可能性があり、「犬伏」はいわば最終意思確認の場だったかもしれないわけです。




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昌幸・信繁父子は吾妻街道を進み、上田城に入ります。
一方で信幸は家康に忠誠を近い、わずか4歳の二男を家康の元へ人質として差し出したとされています。

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