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週刊武春 真田家

真田幸村(真田信繁)45年の生涯をスッキリ解説! 史実の幸村は一体どんな武将だった?

更新日:

真っ赤な鎧を身につけて、死地へと疾駆する騎馬武者・真田幸村――。
歴史ファンにあらずとも、誰もが一度はその姿に目を奪われた経験がおありでしょう。

祖父母の代では『真田十勇士』。
子は『真田太平記』。
孫は『戦国無双』……と、アタマに思い浮かべる作品は違えど、幸村という名前はいつも気高い精神の象徴として日本人に愛されてきました。

しかし、です。
こと史実となると、彼の前半生については不明なことだらけです。

意地の悪い見方をすれば「大坂の陣で活躍しただけの一発屋」という評価も否定できず、2016年の大河ドラマ『真田丸』においても、前半は父・昌幸、中盤は石田三成が存在感を放っておりました。

だからこそ今一度、振り返ってみたい。
大坂の陣に彗星のごとく現れた男の真価とは?

史実における真田幸村とは?

 

信濃の国衆・真田家次男として誕生

真田幸村の前半生は不明なことだらけ――。それは生年からしてハッキリしてないことが、よく物語っているでしょう。

伊達政宗と同じ永禄10年(1567年)説もあれば、本能寺の変が起きた天正10年(1582年)説もあり、複数の言い伝えがあるのです。

わかっていることは、亡くなった慶長20年(1615年)が、だいたい45歳前後であったこと。
父は、武田家に仕えていた信濃の国衆・真田昌幸で、母は兄・真田信之と同じ山之手殿(寒松院殿)でした。幼名は弁丸です。

母については出自も曖昧です。
京都出身というのは確かなようで、貴族・菊亭晴季の娘という記録もありますが、真田家とは家格がつりあわず、同説は否定されています。

成年もはっきりしないくらいですので、幼少期どんな生活を送っていたかも不明です。
生誕の地は父が武田家に仕えていたことから、甲府の可能性が高いでしょう。

 

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武田氏滅亡

弁丸の人生に大きな転機が訪れるのは、天正10年(1582年)春のこと。
父・昌幸の主である武田家(武田勝頼)が滅亡したのです。

このとき弁丸ら真田家の面々は、他の家臣の家族と同様、人質として武田氏の本拠地・新府城におりました。

武田勝頼は新府城から落ちる際、まだ建築途中の城に火を放ちます。
炎は三日三晩燃えさかり、多数の人質が焼死したと伝わります。そして新府城を去ると、4月3日に切腹し、その生涯を終えました。

昌幸正室・山之手殿、嫡男・信之、次男・弁丸ら真田家の人々は、飢えや掠奪に悩まされながら、やっとのことで真田の本拠地まで落ち延びます。

同時にそれは真田苦難の時代の始まりでもありました。

父・昌幸は主家の滅亡後、北条氏に接触をはかるも、結局は武田領内に侵攻してきた織田家に臣従。
真田家の本領は安堵され、昌幸は滝川一益の麾下に入りました。

まずは一安心……と言いたいところですが、今度は6月2日、織田信長織田信忠父子が「本能寺の変」で横死を遂げてしまうのです。

イラスト:富永商太

 

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真田弁丸の人質時代

主君の横死により、武田領内に取り残された織田方の武将は一気に窮地に立たされました。

滝川一益は、素早く沼田城を昌幸に返還。旧武田領を無事に通過するため、武田旧臣であり徳川家康に臣従した依田信蕃(よだのぶしげ)に助力を求めます。
この一益の依願に対し信蕃は、佐久・小県郡の諸士から人質を取ることを提案したのでした。

人質リストの中には、真田昌幸の老母・河原氏と次男・弁丸がおりました。
実際、一益が木曾義昌の領内を通過しようとした際、人質の引き渡しを求められ、河原氏と弁丸を義昌へと引き渡しております。
ただ、義昌にとって人質は一人で十分だったらしく、弁丸だけは先に解放されたようです。

無事に旧武田領を通過した一益でしたが、織田家の行く末を決める「清須会議」には乗り遅れ、信長の後継者レースから脱落してしまいました。

一方、弁丸の父・昌幸も正念場を迎えていました。

武田勝頼、織田信長と、立て続けに支配者のいなくなった旧武田領。
この広大な領地を奪うため、北条・上杉・徳川の三者が、三つ巴の争いを展開したのです。

俗に「天正壬午の乱」と呼ばれる戦いの始まりでした。

関東甲信越の大大名たちがガチンコでぶつかりあう、戦国期でも規模の大きな戦い。
その中心に位置していた真田昌幸は、権謀術数をめぐらせ戦い抜きます。

昌幸は、上杉→北条→徳川と臣従する相手を巧みに変え、本領確保のために動き回るのですが、この激しい戦いは天正10年(1582年)10月、北条と徳川の和睦という形で終結を迎えます。

この和睦条件の一項目が、真田家の将来に大きな影響を与えました。

「北条氏に上野国の領有を認め、真田領の沼田・吾妻領を引き渡すこと」

必死になって守ってきた土地を明け渡さねばならなくなったのです。

沼田は、関東・信州・越後における交通の要衝であり、そう簡単に譲るわけにはいきません。


※赤い城マーク(左)が上田城で、右側に2つ並んでいるのが沼田城と名胡桃城/水色=上杉家の春日山城/黒=武田勝頼の新府城/緑=北条家の小田原城)

一体何のために戦ってきたのか。
そもそも武田家臣時代からの領土をなぜ引き渡さねばならないのか。

理不尽な要求に対して、もしも真田昌幸が並の国衆ならば、涙を呑んで泣く泣く引き渡していたことでしょう。
徳川家康にしても「まさか逆らわないだろう」という驕りがあったのかもしれません。
このとき家康は、昌幸の要請を受けて尼ヶ淵に城(上田城)を築いておりました。

家康としては「上田に城を作らせたからには沼田をよこせ」という理屈だったのかもしれません。

しかし昌幸はそうは考えません。
それはそれ、これはこれ。
強気でいられたのには、もちろん理由があります。

このとき徳川家では、真田からの人質を確保できておりませんでした。
昌幸の母・河原氏は、体調不良等を理由に木曾から徳川への人質引き渡しが延長されているうちに、秀吉との間で「小牧・長久手の戦い」がスタート。
混乱の最中、河原氏は昌幸の元に戻っていたのです。

もはや徳川に臣従する理由はナシ!
昌幸は徳川から離反して、今度は上杉に従属。更には上杉を経由して、羽柴秀吉との交渉ルートを獲得します。

このとき従属の条件として人質に出されたのが真田弁丸でした。

上杉家に預けられた弁丸は、知行も与えられ、上杉家臣として出仕することになりました。
どういういきさつなのか。
詳細は不明ながら単なる人質ではなくなった弁丸では足りず、新たな人質として昌幸正室・山之手殿も上杉家に送られます。

そして天正13年(1585年)、昌幸は上田城に押し寄せた徳川勢を相手に戦うこととなります。

第一次上田合戦。
多勢に無勢ながら真田が大勝利をおさめた戦いとして名高いこの合戦で、弁丸が果たした役割はあまりよくわかってはいません。
一説には、祢津古城の守りに配置されていたとされています。

 

大坂での真田信繁

第一次上田合戦にて、真田昌幸は徳川方を撃退。大勝利をおさめます。

そして昌幸は、徳川勢相手に形勢を有利にすべく、羽柴秀吉と手を結ぶことを目指します。
徳川にとって秀吉は「小牧・長久手の戦い」以来の敵。真田にとって羽柴は「敵の敵は味方」というわけです。

しかし、秀吉と徳川の間では和睦が成立しておりました。更に徳川は、真田と激しく対立していた北条とも同盟を結びました。

昌幸、再びの大ピンチ。
いくら上杉が味方についていようとも、北条と徳川から本気で攻められれば、そのダメージは計り知れません。

残された唯一の道は、秀吉への臣従――。

かくして天正14年(1586年)、上洛を果たした昌幸は豊臣政権下で大名として認められ、真田・沼田・吾妻領の安堵を得ました。
引き換えに、弁丸改め真田信繁を大坂へ送ることとなりましたが、秀吉に気に入られた信繁は豊臣へ出仕することになり、人質として肩身の狭い思いはしていないでしょう。
大河ドラマ『真田丸』のように淀君に気に入られたかどうかは不明ですが……。

それから約4年後の天正18年(1590年)。
再び真田を舞台にして、天下が動きます。
従来からモメにモメていた北条との沼田問題をキッカケに「名胡桃城の争い」が起き、これを契機に「小田原征伐」が始まるのです。

難攻不落の小田原城に籠るのは北条氏政と氏直を中心とした北条家。
対する秀吉軍は20万以上とも称される大戦力で海も山も取り囲み、マトモな戦闘は赤鬼・井伊直政が突撃したぐらい(支城では多くの実戦あり)。
軍役奉公をつとめた信繁に活躍の舞台はなく、その後、東北で起きた「九戸政実の乱」討伐には、父と兄と一緒に出陣したようです。

文禄3年(1594年)、真田信幸・信繁兄弟は同時に任官および豊臣姓を下賜されました。

兄・信幸は従五位下伊豆守で、弟・信繁は従五位下左衛門佐に叙任。
信繁の結婚は、この頃と推察されます。
正室となったのは、大谷刑部吉継の娘・竹林院でした。

兄・信幸の正室は徳川家臣・本多忠勝の娘である小松殿です。
兄弟の運命は、この頃から別れ始めていたのかもしれません。
信繁は秀吉の篤い信任を受け、小身ながらも豊臣大名としての道を歩んでいました。

しかしその豊臣家の内部には、亀裂が入り始めていたのです。

文禄・慶長の役。
関白秀次切腹事件。
そして、秀吉の死。

遺児・豊臣秀頼はまだ幼く、混迷する日本の天下を支えることはできるはずもありません。
すべての豊臣大名に選択がつきつけられる中、真田一族にも決断の時が迫っていました。

彼らに残された猶予は長くはありませんでした。

豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかった!? 天下人に降りかかった衝撃スキャンダル!

 

天下分け目と「犬伏」の別れ

秀吉の死から僅か2年を経た、慶長5年(1600年)。徳川家康が動きました。
上杉景勝に謀叛の疑いありとして、征伐を決断したのです。

真田昌幸・信幸・信繁は、家康の元に馳せ参じるべく、宇都宮を出立。途中下野・犬伏に宿泊します。
そこへ石田三成の使者がやってきて、「内府ちがひの条々(家康のルール違反まとめ状)」と、三奉行(長束正家・増田長盛・前田玄以)の連書状を届けたとされます。

いわゆる「犬伏の別れ」ですが、後世の脚色もみられる挿話。
それを踏まえた上で、三人のやりとりパターンをA~Cで想像してみたいと思います。

パターンA:野心に満ちた昌幸
昌幸「わしは石田方に味方しようと思う」
信繁「それはよいお考えです、父上」
信幸「内府の動員令に応じて出陣したのに、逆らうというのは賛同いたしかねます」
昌幸「今まさに天下が再び乱れようとしているのだ。この機に乗じてさらなる家の繁栄を願ってこそ、武士の生き方ではないか!」
信幸「なッ……!」

パターンB:家康が嫌いな昌幸
昌幸「わしは石田方に味方しようと思う」
信繁「それはよいお考えです、父上」
信幸「内府の動員令に応じて出陣したのに、逆らうというのは賛同いたしかねます」
昌幸「ふん、そもそもわしは内府には積年の恨みがある。従うつもりなどないわ」
信幸「ええッ!?」

パターンC:安全策を取りたい真田家
昌幸「わしは石田方に味方しようと思う」
信繁「それはよいお考えです、父上」
信幸「わが妻は徳川家臣の娘。そして弟の妻は大谷刑部殿のご息女。ここは父子で別れて戦いましょう」
昌幸「うむ。それならばいずれかが負けても家は残るな」

どういう話し合いの結果をたどったかは確定できかねますが、結果はわかっています。

石田方:真田昌幸・信繁
徳川方:真田信幸

ただし信幸は「犬伏」以前に「女中改め」と称して、正室・小松姫を大坂から上田へ引き揚げさせておりました。
最初から徳川につく方針だった可能性があり、「犬伏」はいわば最終意思確認の場だったかもしれないわけです。

昌幸・信繁父子は吾妻街道を進み、上田城に入ります。
一方で信幸は家康に忠誠を近い、わずか4歳の二男を家康の元へ人質として差し出したとされています。

 

昌幸の野望、そして第二次上田合戦

真田昌幸は、石田三成とこまめに書状のやりとりをしました。
そこで手にした情報では、圧倒的な石田方=西軍有利であったはずです。味方にしておきたい者には、自軍有利という情報を三成が送るのは当たり前でしょう。

そうしたバイアスを差し引いても、どの勢力もこの動乱が長引くと信じて疑わなかったのがこの時の状況です。結果を知っていると、昌幸と信繁が極めて楽観的であったと思いたくなりますが、そうではありません。

上田に向かう徳川勢を率いていたのは、家康の嫡子・徳川秀忠でした。

この秀忠が、
「上田城で思わぬ足止めをくらってしまい、そのために関ヶ原本戦に間に合わなかった」
というのがよく知られた説です。

しかし近年では、
「上田攻めはむしろ予定通りの行動であり、秀忠が関ヶ原本戦に遅参したのは家康が計画を変更し早めたため」
と、されています。

さてこの秀忠率いる軍勢ですが、質量とともに徳川方の主力ともいえる戦力でした。
家康としてはこの戦いで秀忠の武勇を印象付けたいという思いもあったのでしょう。
熟練の参謀的存在・本多正信を付け、万事取り仕切るようにさせたのはその証拠かと思われます。

イラスト・霜月けい

そしてこの軍勢の中には、信幸もいました。
彼は父と弟と対決することとなったのです。

以下、合戦の時系列での経過です。
軍記の記載もありますのでご留意ください。
(茶:真田/紺:徳川)

9月3日
徳川勢が上田城に到着。
この日、昌幸は徳川に味方した信幸経由で、剃髪後に和睦をしたいと秀忠に伝えました。
籠城側の兵力は3千です。その一方で、上田の領民には「敵の首一つにつき知行百石を与える」と呼びかけ、兵を集めておりました。
高まる真田勢の士気。

4日
昌幸は、態度を豹変させ和睦を反故にします。
「あいつは絶対にゆるさん!」
昌幸の言動があまりに無礼、挑発的であったのでしょう。秀忠は激怒しました。

5日
秀忠は信幸に砥石城攻略を命じます。
信幸が城に向かうと、城を守っていた信繁とその手勢は脱出していました。信幸は犠牲を出さずに砥石城を奪います。
この日の夜、信繁は敵に夜襲をかけようとしますが、相手の警戒が厳しく断念。

6日
秀忠は染屋原に本陣を置きます。そして城内から敵を誘い出すため、苅田を実施。しかし苅田中に徴発され、徳川勢は城へ接近してしまいます。
城に接近した敵に対し、真田方は鉄砲や矢を放ち、激しく攻撃。甚大な被害を与えたのでした。
真田父子はさらなる挑発を行い、神川を渡ります。追撃してきた敵に対して、昌幸は伏兵に命じて川のせき止めを切り落とさせ、水を流しました。流れに脚を取られたところを虚空蔵山麓にいた伏兵に襲わせ、さらに追い打ちをかけます。
徳川勢は討たれる者、溺死者を多く出し、敗退するのでした。
秀忠が攻めあぐねているうちに、予定を変更した家康から至急美濃に転進するよう命令が下され、徳川方は撤退します。

こうして第二次上田合戦は終わりました。勝利といってもあくまで、
「徳川方の作戦変更による撤退」
というカタチです。

もしも家康が作戦を変更せず、秀忠がそのまま上田城攻めを続けていたら結果は異なっていたかも知れません。

そうはいえども、兵力差がありながらも徳川方が陥落させられなかったこと、緒戦で真田方が勝利をおさめたことは事実。
小さな城に手間取ったことは秀忠の若さ故の経験不足、そして本多正信の不手際であると当時から認識されていました。

第二次上田合戦は軍記にあるような痛快な大勝利でないにはせよ、歴史に影響をおよぼした合戦であったことは確かです。

 

九度山蟄居の日々

9月15日、真田昌幸・信繁父子が望みを託した石田三成ら西軍は、徳川家康の東軍に大敗を喫しました。

実は真田方はその三日後も、上田城を監視する徳川方に夜襲をかけています。
しかし、もはや決着はついていました。

信幸らの説得を受け、昌幸・信繁父子は降伏します。
家康の命によって上田城は破却。
長年にわたった徳川と真田の対立は、家康の完全勝利という決するのです。

上田領には、真田信之(信幸から改名)が入り、11万5千石の大名となりました。

家康は真田父子を死罪にしようと考えました。
が、信之は舅にあたる本多忠勝、本多正信らに父と弟の助命を嘆願します。
一説には、娘婿の信之を気に入っていた本多忠勝が「殿との一戦も辞さぬ!」という覚悟で迫り、さしもの家康もしぶしぶ折れたとされています。

「ああ、なんと悔しいことか! 家康めをこのような屈辱的な目にあわせてやろうと思っていたものを!」
昌幸は悔し涙を流しつつ、信之に別れを告げ、高野山へと向かいます。
慶長5年も末のことでした。

昌幸はこのとき54歳、信繁は30代前半でした。
当時の寿命を考えても、信繁は気力や体力をもてあます日々であったことでしょう。

なにせ生活費は信之からの仕送り頼みで困窮の極み。
生活費を稼ぐために、真田父子が「真田紐」を作り売り歩いたという逸話もありますが、伝承レベルであり史実かどうかは不明です。

信之も決して余裕があるとは言えない台所事情で、父と弟の生活を支え続けます。
生活費だけではなく、焼酎等の物資も送り続けたのでした。

蟄居生活は退屈ではあったものの、趣味のための時間を作ることはできたようです。
信繁は連歌に初挑戦し「なかなか上達しないがいつか興行したい」といった書状も残しています。
更には九度山でも子が何人か生まれ、兄・信之よりも子だくさんの父となりました。

戦国武将も愛した連歌が実はメッチャ面白い! 信繁も義光も官兵衛もハマってた

しかし、生まれきっての武士の彼らにその生活は厳しくそして辛いものでした。
はじめこそ楽観的で、赦免に望みをつないでいた父子ですが、歳月が流れ十年も経つと、悲観的にならざるを得ません。
真田昌幸は気鬱でふさぎこみがちになり、食事もろくに喉を通らなくなり、慶長16年(1611年)、無念の死を迎えます。享年65。

信繁も髭に白髪が混じり、歯は抜け落ち、病気がちになっていました。
30代前半という人生の盛りから十年以上蟄居し続け、心身ともに衰えるしかない環境です。

もしこのあと何も起こらなければ、真田信繁という男は父と同じく失意の死を迎え、歴史に輝かしい名を残すこともなかったことでしょう。
真田の家名も今ほど大きなものではなかったに違いありません。

 

大坂からの招待

父を失い、家族らと蟄居を続ける信繁。
連歌や焼酎でストレスを発散する日々は、大坂からの招待によって突如として終わりを告げます。

天下は動いておりました。
徳川家康は江戸に幕府を開き、諸大名を従え、新体制を着実に構築。
しかしこの新体制の中に、大坂の豊臣秀頼を含めることは未だできていなかったのです。

家康は歳をとり、秀頼は青年へと成長してゆきます。
そんな折、慶長19年(1614年)に起きた「方広寺鐘銘事件」は、タイムリミット間際の家康にとって絶好の好機でした。
それまではむしろ秀頼に寛容であった家康が、態度を変えます。「方広寺鐘銘事件」は、家康が仕掛けたというよりも、大坂方が最悪のタイミングで重大なミスを犯したのです。

それでもまだ大坂方には生存への道がありました。
家康としては秀頼の首は必要ではありません。彼らを江戸幕府の秩序に組み込めばよいのです。

両手両足を縛ってしまえば、いくら豊臣に恩顧を持つ他の大名たちとてそうは簡単に動けません。
かくして秀頼に対して突きつけた条件が以下のものでした。

1. 大坂城退去
2. 生母・淀殿を人質として江戸に送る
3. 駿府と江戸への参勤

大坂方は激怒し、この要求をはねつけました。
さらには徳川方との交渉を担当していた片桐且元を、謀叛を起こしたとして討ち取ろうとしたのです。且元は大坂城を退去するしかありません。

要求をつっぱね、しかも交渉窓口担当者を追放――これはもう宣戦布告に等しい行動です。
なぜ、そんな無謀な真似をしたのか。
大坂方は過去の栄華・権力を忘れられず、現在の情勢をまるで読み取れなかったのでしょう。

もはや開戦は待ったなし!
大坂方は各地の牢人に、味方するよう誘いの書状を送付。関ヶ原以来、主家を失っていた牢人たちは風前の灯だった野心に火をつけられ、セカンドチャンスを求めて日本各地からやってきました。

そこで信繁のもとにも大坂からの呼びかけが届いたのです。
信繁は一計を案じ、村人たちを酒宴に招きます。大いに飲んで騒いで、客人たちは皆泥酔。彼らが寝込んだところを見計らって脱出すると、信繁は抜き身の刀槍、火縄をつけた鉄砲を持ち、九度山を立ち去ったのでした。

 

大坂冬の陣

大坂城に入った真田幸村。
※以降はドラマ『真田丸』に合わせて「幸村」と表記しますが、これまで通り史実を追って参ります

そこには錚々たるメンツが集っておりました。

黒田家を出奔していた「後藤又兵衛」。
尾張生まれで父と共に秀吉に仕えていた「毛利勝永」。
四国の頭領、長宗我部元親の息子・「長宗我部盛親」。
宇喜多直家と宇喜多秀家に仕えていた「明石全登」。

戦力総数は不明ではあるものの、およそ10万人は集まっていたもよう。
彼らの多くが関が原を機に失職していた牢人たちであります。

大坂方は敵の来襲に備え、惣構えや砦の建設に着手し、防備を固めます。
幸村は、城の惣構南東の玉造口に砦を築きました。
これこそがドラマのタイトルにも用いられた「真田丸」です。

いったいどんな防御施設だったのか?

これについては今なお謎が多いながら、奈良大学の千田嘉博教授によって提唱された説が有力視されております。
「真田丸」は、大坂城に付随した単なる砦ではなく、堀から少し離れて建築された「(小さな)城」と見るものです。

城に頼るのではなく、独立して堅強な防御力を誇った「真田丸」。
ついに幸村は城主になった――。
少しセンチメンタルかもしれませんが、そう称して問題ないでしょう。

一方、攻め手の徳川方も、武器弾薬兵糧を十全に用意し、満を持して大坂城を目指しました。

大坂城内で軍議が開かれると、幸村は籠城ではなく出撃策を唱えます。
敵の足並みが揃わないうちに積極的に打って攪乱しよう。そんなスケールの大きな策です。
しかし大野治長らの反論にあい、却下されてしまいます。

ただし、この出撃策が史実であるかどうかは断定できません。
たとえ幸村自身がそう考えていたとしても、防備に忙殺されていた大坂方にそんな余裕があったかどうか。
これまた判然としません。

籠城策を取った大坂方において、幸村は「真田丸」に立てこもり、迎え撃ちます。

対するは、井伊直政の子・直孝。
前田利家の子・前田利常
利常はかなり濃い戦国キャラでありましたが、軍として見た場合、両者とも経験がありません。
大坂の陣に参戦した若い武将たちの大半は、これが初陣でした。

攻め手は城攻めの経験不足の者たちばかりで、「仕寄せ」(簡易バリケード)の作り方すらわかりません。
若い侍たちがその作成に四苦八苦していると、大坂方が鉄砲を射かけ、どうにも仕事が進まない。
東軍は、量は最高でも、質はお粗末なものでした。
「仕寄せ」を作れないだけではなく、軍としての機能すら失われているような現象も見受けられました。

味方崩れ。
パニック状態になって戦線が崩壊、敗走してしまう現象。
旗指物による判別がうまくいっていない証拠です。

味方討。
敵と誤認して味方を攻撃してしまう。
伊達政宗軍は神保相茂軍を味方討で壊滅に追い込み、笑いものになりました。

指揮命令系統はたやすく崩れ、戦線はしばしば深刻な崩壊を起こします。
天下統一の過程で戦が減り、関ヶ原から15年もブランクがあるのですから、当然の帰結とも言えるでしょう。

12月4日、前田勢は真田勢が陣取り、鉄砲を射かけて来た篠山を占拠し、その先にあった「真田丸」へと接近します。
飛んで火に入る夏の虫、格好の餌食でした。

「真田丸」の空堀に突入した前田勢は、激しい射撃によりたちまち命を落としてゆきます。
井伊勢も援護しようとしますが、これまた激しい射撃により為す術なく呆然とするのみ。ようやく援軍としてなだれこむと、混戦をかえって悪化させるだけになり、犠牲を増やすことになりました。

掘を登っても柵が作られ、身動きすらできないまま、次々に討ち取られてゆきます。

「真田丸」は、兵を飲み込む蟻地獄でした。

イラスト・富永商太

 

束の間の和睦、最期の挨拶

「真田丸」での大敗を聞いた家康は衝撃を受けました。

敗戦の報が諸国に広がるようなことがあれば、天下がゆらぎかねません。
そこで一計を案じ、ある男を幸村の陣へ送り込みます。

真田信尹。
昌幸の弟であり信繁の叔父でした。
信尹は十万石という破格の条件で寝返りを打診しますが、幸村は跳ね付けます。

そこで本多正純は条件をさらにつり上げ、信濃一国を提示。
この非現実的な条件は幸村を喜ばせるどころか怒らせ、彼は二度と信尹に会おうともしませんでした。

しかし、です。
幸村と信尹のこうしたやりとりが行われているころ、大坂方では和睦の機運が高まるのでした。
真田丸での奮戦により、東軍は攻めあぐねているものの、戦力差は大きく到底勝ち目はありません。

奮戦を知って西軍に味方する大名が現れるか?
そんな徳川の懸念、豊臣の願望が叶う気配もありません。
その上、間近に迫ってくる本格的な冬の気配。もはやこれ以上の戦闘続行は不可能でした。

和睦の条件として、大坂城の堀は埋め立てられ、真田丸も破却されます。
当然ながら、大坂城の防御力は大幅に低下。
これは家康の策略であり、無断で埋め立てたという説がかつて有力でしたが、現在では「大坂方も同意の上で埋めた」とされるています。

「城の防御力が低下して困る」
という考えは、再戦することがわかっている後世の人間のものです。
この時点で大坂方が和睦を履行するつもりならば、掘の埋め立ては妥当な要求とみなしたでしょう。

あるいは掘の埋め立ては、徳川方が面子を保つための条件であったとも周囲には伝わっていました。
あれだけの軍勢で包囲しながら、淀殿と秀頼母子を城の外までひきずり出すことはできなかったのです。
せめて掘だけでも埋め立てねば、格好が付かない、というわけですね。

和睦成立後、幸村は、甥にあたる真田信吉・信政兄弟(真田信之の子)の陣を訪れました。
幼いころ別れたきりであった甥は、たくましい若武者に成長していたことでしょう。

幸村は甥たちに語りました。
「関ヶ原で敗れた際に、兄上のおかげで助命されたというのに、このようなことになってしまいました。兄上はさぞや腹を立てておいででしょう。どうか二人から兄上にとりなしていただければと思います」

真田兄弟はこのあと、内通の疑いを避けるため、叔父との再会を幕府に報告。
幸村は旧知の人々に出会い、覚悟を語り残しています。

また、姉の夫・小山田茂誠に書状を送りました。
その心情は複雑で、様々な気持ちが入り混じったものでした。

「この和睦も一時のもの、私たち父子は、一両年のうちには討ち死にすることになるでしょう。私にとっては一軍の大将となり、討ち死にすることは本望。されど倅の大助はまことに不憫です。15年という人生を牢人として過ごし、やっと世に出たと思ったら討ち死にするさだめとは……」

このまま虚しく朽ちるかと思われた人生で、華々しく戦う舞台を得た喜び、高揚感。
兄のおかげで助命されながら、それに背いて親族に迷惑をかけてしまう申し訳なさ。
まだ幼い我が子・大助の命を奪うことになってしまった苦しみ。
残してゆく妻子の身を案じ、その幸せを祈る気持ち。

これまでの人生を振り返りつつ、残り少ない日々をどう生き、どう散るか。

死を前にした幸村は、苛烈な戦いぶりとは異なる、繊細で人間味あふれる心情を残していたのでした。

 

大坂夏の陣

掘を埋められた大坂城は、無力な巨大建築物と化したわけではありません。

信繁はまもなく再戦するだろうと予感していましたが、それは当たります。
城に立てこもる牢人たちがいる限り、再戦は避けられません。

大坂方が集めた牢人たちは、ただ腕っ節が強い者たちではありません。
徳川という新秩序の中、居場所を失いドロップアウトした者たちです。和睦が成立したからといって、彼らには行く場所はありません。
いったん大坂方に味方した彼らが武器を置いたところで、どうしようもないのです。大坂城を離れたところで、彼らを仕官させる大名家はありませんでした。

秀頼は、とりあえず大坂城に蓄えられた莫大な金銀を配り、牢人をなだめることしかできませんでした。
しかし、こんなものは焼け石に水に過ぎないのです。
大坂城内も意見が割れていました。徳川との和睦を遵守したい豊臣秀頼・大野治長らに対して、治長の弟・治房は真っ向対立します。治房は牢人たちの動きを支持しました。

牢人たちは掘を掘り返し、武器弾薬兵糧を買い付け、不穏な動きを見せます。
何万人もの牢人が、武装して城にいるわけです。不穏な動きは、当然江戸に伝わりました。

秀頼らは、和睦条件の完全履行をあきらめたわけではありませんでした。
城を出て新たな国に移れば命は助かるのです。
しかし、牢人にとってそれは破滅を意味するもの。彼らを養えるだけの国を、徳川が気前よく秀頼にくれてやるはずがないのです。

「召し放たれて野垂れ死ぬくらいならば、大坂城を枕に討ち死にしてやる!」

牢人たちにひきずられるようにして、秀頼らもまた次なる開戦へと突き進んでいきます。

家康にとっても「反幕府武装勢力」の牙城と化した大坂城を、放置するわけにはいきません。
和睦と統率がとれない大坂方は家康に見限られ、4月、ついにタイムリミットを迎えたのでした。

4月13日、大坂方は作戦会議を開きます。
信繁は防御力を失った城から出撃し、近江国瀬田で敵を止める作戦を提案します。
しかしこれはかなりリスクが大きい作戦でもあり、反対意見に呑み込まれてしまいます。

後藤又兵衛は、妥協案として天王寺近辺での迎撃策を出します。
大坂方は迎撃と同時に、周辺国で一揆を煽動して攪乱、地侍たちに対して味方につくよう誘いをかけました。

しかしこの策は不発に終わります。
4月29日の樫井の戦いでは塙団右衛門ら有力武将、多くの兵を失いました。
5月5日、道明寺の戦いでは、後藤基次が奮戦するものの、敵との戦力差を埋めることができず、伊達政宗軍によって討ち死にを遂げます。
後詰めに駆けつけた明石全登も大軍を支えきれずに撤退。傷を負いました。

幸村も後詰めとしてこの戦いに参戦し、伊達政宗軍と激戦を繰り広げます。
真田の軍勢は片倉重綱(小十郎景綱の子)に率いられた敵に猛攻を仕掛け、数での劣勢をものともせず押し返します。
伊達勢は武器弾薬が底をつき、敵の撃退を諦めるしかありません。

真田幸村の12歳の娘(超絶美少女)が伊達政宗の仙台藩にかくまわれていた!

しかし両軍とも損害は大きく、真田勢もまた疲弊していました。
真田大助も脚を負傷していました。

5月6日の八尾・若江の戦いでは、木村重成らが戦死。

大坂方の戦力は削がれ、限界が近づいていました。

 

茶臼山に咲いた満開の赤備え

5月7日。
茶臼山に布陣した真田隊は、その赤備えがまるで満開の躑躅の花のようでした。

鹿角の兜をかぶり、河原毛の愛馬にまたがった大将の幸村は、その中でもひときわ目立った存在。
今日こそが決戦の日になると考えていたのでしょうか。
あるいは目前に広がる敵勢を見て、もはやこれまでと覚悟を決めたのでしょうか。

幸村は大助を呼び出し、告げました。
「お前は脚を負傷している。活躍は見込めまい。秀頼公のお側に参り、最期まで付きそうのだ」

大助は父の命に抗い、父子ともに死ぬまで戦いたいと願いました。
父子の言い争いはしばらく続き、幸村が大助の耳元で何事かささやくと、やっと馬に乗ります。
しかしそれでもなかなか側を離れようとはしません。

ここで別れたら、二度と会うことはないと互いにわかっていたのでしょうか。
大助は父の方を振り向きながら、名残惜しそうに立ち去ります。

幸村は大野治長に、秀頼自らの出馬を請いました。
豊臣の威光を示す千成瓢箪が戦場で輝けば、どれほど士気が高まることでしょう。
城からは、使者を通して、秀頼の出陣を合図に合戦を始めるとの返事だけがありました。

茶臼山にいる敵の様子をうかがう幸村。
午後になると、松平忠直の軍勢が前を通りかかりました。
松平勢は真田勢を狙って来たわけではなく、見通しの悪い道を通っているうちに偶発的に出くわしたのです。

両者、鉄砲による小競り合いから、本格的な戦いに発展します。
そして混乱する戦場で、浅野長晟が離反したという虚報が流れ、東軍は混乱に陥り、もろくも崩壊するのでした。

統国寺の庭の裏から見える茶臼山(photo by 北村美桂@歴史おじ散歩

 

不幸な、あまりに不幸な誤認

ついに来た、好機――。

家康は「味方崩」を察知し、立て直そうとします。
しかし、旗本衆までが戦線崩壊してしまい、ますます混迷を極めます。
最後の盾となるはずの旗本衆が散り散りになり、我先にと逃げ出したのです。

それでも踏みとどまった僅かな旗本衆は、文字通り家康を死守すべく奮戦。
このとき、大坂方がひるむことなければ、家康は腹を切っていただろう——と、戦場の様子を聞いたイエズス会士は書き残しています。

では、そのとき何が起こったのか?
それは、不幸な偶然としか思えない出来事でした。
十騎ほど供を連れて出馬していた大野治長が、出陣のタイミングがわからない秀頼の呼び出しを受け、退却したのです。

大坂方にとって不運だったのは、よりにもよって治長が秀頼の馬印を掲げていたことでしょう。

東軍を相手に奮戦していた牢人たちも、治長の撤退、さらには城内に虚しく戻る秀頼の馬印を見て、自分たちの敗北を悟りました。
不幸な、あまりに不幸な誤認。
東軍を襲っていた「味方崩」の大波は、今度は西軍に襲いかかったのです。

天王寺口では真田幸村・毛利勝永が猛攻撃を仕掛け、岡山口では大野治房が秀忠相手に大健闘をしているタイミングでした。
治長が城に入ると、城で待機していた兵士たちが敗北かと動揺し始めます。
さらに真田大助が入城すると、敗れた幸村が「我が子だけでも逃がしたのではないか」と更に大きな動揺を呼び起こすのです。

治長は秀頼に出馬を請い、秀頼も準備を始めました。
明石全登に出撃を命じ、いざ出陣!というそのとき、城内に「先手が崩れている」との知らせが届きました。

かくなる上は戦い、討ち死にすべき!
秀頼は決意を固めますが、家臣からは籠城し、自害すべきだと進言されます。

秀頼が逡巡していると、突如、大坂城内から火の手があがります。
火をはなったのは、大角与左衛門という、秀吉の頃から使えていた料理人。
この火の手を見て西軍の将兵は絶望するしかなく、一方の東軍将兵たちは歓喜に沸きます。

真田幸村の援軍に駆けつけるはずであった明石全登も、もはや機を逸しました。
時既に遅し。
数で勝る敵軍相手に敗退し、そのあと行方不明になっています。

誤解はさらなる誤解を生み、裏切り者に火まで放たれ、もはや西軍の勝ち目は完全にゼロ。
太閤秀吉の遺児として生まれた豊臣秀頼は、一度も戦場に立つことなく短い生涯を終えることになるのでした。

 

日本一の兵

城内の混乱、秀頼の逡巡を知ることもなく、真田幸村は松平勢と一時間ほど戦い続けていました。

懸命に戦い続ける真田勢に、井伊直孝軍、藤堂高虎軍が横槍。
満身創痍の真田勢は、七手組(豊臣家に使える馬廻・旗本衆)に加勢を願いますが、彼らは動こうとはしません。
既に東軍へ内通していたのです。

奮戦むなしく、真田勢は手足をもぎとられるように分断され、戦闘力を失ってゆきます。

家康まであと一歩!

今まさに悲願の叶うその直前、ついに真田勢も撤退を余儀なくされました。

同時に毛利勝永軍も城内へ撤退。
真田幸村自身も重傷を負い、昼から続いた戦いで心身ともに疲れきっています。

幸村は、馬で撤退する最中に松平家臣・西尾仁左衛門宗次と遭遇。
抵抗するだけの余力はなく、首を取られました。
安井天神付近でのことであった、と伝わります。

享年も、最期の場所もハッキリとは伝わらなかった真田幸村。
しかし、その勇猛果敢ぶりは「真田日本一之兵」と島津忠恒によって讃えられました。

家康も敬意をもって幸村の首実検を行います。
もはや首だけとなったその姿を見るために、多くの武将たちが首実検の見物に訪れました。

同日(5月8日)、大坂城内――。

父を心配していた真田大助は、落ち延びた兵からその最期の様子を聞き、涙を堪えていました。
大助は母から与えられた数珠を手に、念仏を唱え、秀頼に殉じる時を待ちます。

まだ幼い大助を見て周囲の人々は憐れみました。
「豊臣譜代でもないのだから、秀頼様の最期を見届けることはありませんよ。早く落ち延びなさい」

彼らはそう諭し彼を逃そうとしますが、大助は父から秀頼様にお供せよと言われたと拒み、殉死を遂げます。
大坂城は落ち、豊臣秀頼・淀殿母子も自害を遂げました。
大助を除く幸村の妻子は大坂の陣を生き延び、その後も人生を送ることとなります。

兄の信之は、大名・真田家当主として、93という驚異的な長寿を全う。
病に悩まされ、多くの人々を送りながら、弟とは別の厳しい戦いに挑み続けるのでした。

 

後世に英雄視された姿とは違う、人としての迷い

真田幸村という人物の生涯を辿り、筆を進めていても、なかなか浮かんでこない考え方や性格。

大名であれば幼少期から逸話が残り、彼自身の生きてきた証を見ることができるのですが、幸村の場合は違います。
関ヶ原までは父の影に隠れている人生です。

上杉や豊臣から信頼を得て、大谷吉継の娘を娶り、評価されているからには、人間的にも魅力があり、才知に溢れていたであろうことは、なんとなく想像がつきます。
ただし、具体的にどこがそうであったのかはつかめないのです。

彼の性格や人間性がつかめたのは、蟄居後以降です。
連歌がなかなか上達しない、焼酎をもっと送って欲しいという書状からは、あたたかみが伝わって来ました。
大坂の陣和睦の際に家族に吐露した思いからは、彼の人柄が伝わって来ます。

チャンスをつかんでここまで来たものの、そのことで助命嘆願した兄を裏切り、我が子の一生を短いものとしてしまった……弟として、父として、迷う姿からは生々しい人間性が伝わってきます。
後世に英雄視された姿とは違う、人としての迷いがそこにはあります。

最後に蛇足です。
本稿をお読みくださっている方にとっては当たり前かもしれませんが、2016年の大河ドラマ『真田丸』は、幸村の人生を描いたドラマとして最高の作品でした。

史実を丹念に追いつつ、その隙間を三谷幸喜氏の発想と優れた筆力で補う、まさに傑作。
執筆中もずっと『真田丸』のことを思い出しておりました。

もしも未見の方がいらっしゃいましたら、是非一度ご覧いただければと思います。

文:小檜山青

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【参考文献】
平山優『真田信繁』(角川選書)
三池純正『真田信繁』(宮帯出版社)
黒田基樹『真田昌幸』(小学館)
黒田基樹『真田信之』(角川選書)
千田嘉博『真田丸の謎』(NHK出版新書)

 





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