一般的にはマイナーながら、ある地域では絶大な支持を受ける戦国武将を紹介させていただく当コーナー。
今回は千葉県旭市からピックアップいたします。
木曽義昌さんです!
木曽義昌さんは文禄4年(1595年)3月17日に亡くなったとされます。
命日については諸説あり国史大辞典では同年3月13日だったりしますが、お墓のある東漸寺では17日を供養の日としていますので、この日で進めさせていただきますね。
申し遅れましたが、私、“れきしクン”という芸名で活動を行っている長谷川ヨシテルと申します。よろしくお願いします!
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木曽義昌と海 まるでイメージ湧かないが……
戦国時代好きの方が“木曽義昌”と聞くと
「信濃国の木曽(長野県木曽町)を領地とした武田信玄の重臣&娘婿」
をイメージする方が多いと思われます。
しかし、私がご紹介したい縁(ゆかり)の地は、太平洋にほど近い千葉県の旭市!
なんて偉そうに前書きを書いていますが、山国の印象が強い木曽義昌さんがまさか海に近い千葉県と繋がりが深いとは、当初思いもよりませんでした……。お恥ずかしい!
その事実を知ったキッカケは松尾城というお城です。
以下の拙著『ヘンテコ城めぐり』でも取り上げさせていただいたのですが、
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明治時代初期に太田道灌の末裔(太田資美・すけよし)によって築かれ、“日本最後のお城”と称されることもある城跡です。
この松尾城に、昨年初めて登城し、その際、近隣の歴史スポットも巡っておきたいなぁとリサーチをしてみました。
松尾城があるのは千葉県山武市。
そこから2つ東隣の市を調べてみると、ヒットしたのが「網戸城(あじどじょう)」でした。
え、知らん! と思って、さらに城主を調べてみると、なんと木曽義昌さんではありませんか!
な、な、なんでー???
しかも、旭市という地名も木曽義昌さんのご先祖様とされるアノ「木曽義仲」に由来するものだとか!なぜにー!?
ということで、松尾城とは併せて行けず、別に時間を作って初めて旭市の木曽義昌さんゆかりの地をめぐり、こうして記事にさせていただいた次第です。
武田家滅亡のキーマンとなり、その後は山から海へ――数奇で波乱の人生を歩んだ木曽義昌さんとは一体?
ご先祖様は源平合戦で大活躍したあの義仲!?
木曽義昌さんの生誕地は、祖父(木曽義在)が築いた上之段城(うえのだんじょう)と思われます。
生年は天文9年(1540年)なので、タメには豊臣秀長(秀吉の弟)や鳥居強右衛門(長篠の戦いの決死の伝令役として有名)などがいました。
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実家の木曽家は、先述した木曽義仲にルーツを持つ家系と言われています。
木曽義昌と、そのご先祖様である木曽義仲も知らない方からすると「誰と誰の話をしてんのよ!」と思われそうですが(笑)、先祖の木曽義仲は日本史上の大大大キーマンと言って差し支えはないかと思います。
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ザックリ申し上げますと―――平清盛と源頼朝の間に天下を取った男です!
またの名を「源義仲」という木曽義仲は、源頼朝とは従兄弟のセレブな源氏一族。
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ところが、源氏一族の分裂により、父の源義賢が居館の大蔵館(埼玉県嵐山町)で、源義平(頼朝の兄)によって暗殺される「大蔵合戦」が起きました。
当時、数え年で2歳だった義仲は父と共に殺される寸前だったところ、家臣の斎藤実盛(我が地元・熊谷が誇る鎌倉武士)や畠山重能(一ノ谷の戦いで馬を背負って駆け下りた伝説を持つ畠山重忠の父)の機転により脱出に成功!
命からがら落ち延びた場所が信濃国の木曽であり、その地名を称したのです。
それから24年。
山奥で雌伏の時を過ごした木曽義仲は「権力を我が物とする平氏政権を打倒しよう!」という「以仁王の令旨」を受けて挙兵し、木曽を出陣。
連戦連勝の快進撃で、信濃国から北陸を通り、近江国(滋賀県)を通過して京都に入り、平氏を都落ちさせることに成功したのです。
ただしその後は、後ろ盾となっていた後白河法皇と対立し、源頼朝の軍勢(率いたのは弟の源範頼と源義経)と戦うことになり「粟津の戦い」で討死してしまいました。
天下を握ったのはわずか半年ほど。
それでも、朝日が登るような勢いを持って天下に名を挙げた将軍であることから「旭将軍(朝日将軍)」の異名で呼ばれています。
ちなみに、木曽義仲の大ファンだった歴史上の人物に、アノ松尾芭蕉がいます。
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松尾芭蕉は全国行脚の中で度々、木曽義仲のお墓がある「義仲寺」を訪れていて、琵琶湖の近くをよく観光していたそうです。
そして「隣にお墓を立てて!」と遺言したため、現在も源義仲のお墓の隣には松尾芭蕉のお墓があります。
まさにオタの鑑です(笑)。
「願主 源朝臣義昌」からの「大檀那 源朝臣家豊」
さて、話がご先祖様の方にズレてしまいました。注目したいのは、木曽義昌さんが日本史・超大物の末裔にあたるお方だということです。
本人も自覚していたようで、永禄6年(1565年)に御嶽神社の里社若宮に奉納した板絵には「願主 源朝臣義昌」と記しています。
しかし!
しかしです!
実はこの系図、めちゃくちゃ怪しいのです! まぁ、よくあるお話ですね(笑)。
江戸時代にまとめられた史料には、源義仲を初代(二代目は史料によって人物はまちまち・次男の義重、義基、義宗)としているのですが、当時の証拠は無し……。
また、こんな別の説も。
源義仲の生き延びた息子たち(長男・源義高は頼朝の命で殺された)は、親戚の上野国沼田(群馬県沼田市)の沼田家に保護され、以降は「沼田」を称して代々暮らしていたそうです。
その後、源義仲から6代末裔の沼田家村が足利尊氏に味方して武功を挙げ、木曽谷の一部をゲット。木曽家中興の祖となったとも言われています。
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さーて、源義仲以降で木曽家の人物が史料にシッカリと登場するのは、源義仲の死から200年近く経った室町時代の至徳2年(1385年)のこと。
水無神社と御嶽神社の黒沢口里宮の棟札に「伊予守(いよのかみ)藤原家信」と記されています。
あれ? ちょっと待ってください、おかしくないですか?
「源」じゃなくて「藤原」になっているではありませんか!
ところがですよ!
木曽義昌さんの4代前(祖父の祖父)の木曽家豊が興禅寺(木曽町)に寄進した梵鐘には「大檀那 源朝臣家豊」と記されているんです。ちゃっかり変更してる!(笑)
さらに、木曽義豊の息子の代からは「義」という一字を名前に使うようになって、明らかに源義仲を意識しまくるようになりました。
おそらく……もしかしたらですが、先述の沼田家村の代から木曽谷の全体に領地を拡大していくに伴って、名字を「木曽」と称し、姓を「源」に改め、通り字に「義」を用いて、木曽での統治者としての正当性を地元の英雄である“木曽義仲”に託したのではないか……。
と言った作為的な部分がプンプンとニオうのも、歴史の面白さの1つですね!
さてさてさーて、今回の主人公はどこいったー!(笑)
戻しましょう、木曽義昌さんのお話へ。
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