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日本が男色・衆道に寛容だった説は本当か?平安時代から江戸時代までを振り返る

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2017年大河ドラマ『おんな城主直虎』において、徳川家康と井伊万千代(のちの井伊直政)の同性愛関係(男色)が取り上げられました。

菅田将暉さん演じる万千代が「多くの武士が色小姓となったことをキッカケにのし上がった」と自らを励まし、阿部サダヲ家康の寝所へ向かったのです。

歴史に免疫のない茶の間のお父さん・お母さんたちにしてみれば、「と、突然、このシーンは何なんだ!?」と困惑されたかもしれません(ドラマでは未遂で終了・史実ではそう囁かれたりもする)。

その一方で、戦国ファンや歴史ファンならば納得の場面であったでしょう。
織田信長にせよ武田信玄にせよ、その手の話は尽きないものであり、多くの書籍やフィクション作品でも描かれたりもしています。

そうなると俄然大きくなるのが「かつて日本は男色に寛容だった」という声。
果たしてそれは本当なのでしょうか。

平安時代から江戸期を通じて、その事情をマトメてみたいと思います。

 

日本の男色は古代ギリシャに匹敵する?

まず国際的に見て、歴史上の「日本の男色は、古代ギリシャに匹敵する」と言われたりします。

キリスト教圏では、男性同士の性行為は「ソドミー」、「自然に反する最悪の罪」とみなされました。
イギリスのように20世紀まで投獄された場合もあり、多くの諸国で社会的に受け入れられてなかったのですね。

日本と地理的に近い中国および朝鮮半島では、時代や王朝によっては禁止、制限されることがありました。
容認はされていましたが、推奨とまではいかなかったようです。

 

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時は院政期 「悪左府」こと藤原頼長の場合

2011年大河ドラマ『平清盛』でも、同性愛描写が出てきました。
登場したのは「悪左府」こと藤原頼長です。

彼の愛人は、史料から確認できるだけでも最低7人。
そのうち源成雅については、父の藤原忠実と共に愛人として共有していました。

成雅モテモテ?かと思ったら、この藤原忠実、『富家語』によると、こう語っていたそうです。
「亡くなった源信雅はイケメンだったけど、お尻は駄目。息子の源成雅は、顔はイマイチだけど、お尻は父より上。だから寵愛したんだよね」

つまり、源信雅・成雅父子は、二代で藤原忠実と関係を持っていた。
そして息子の源成雅は、藤原忠実・頼長父子二代とも関係を持っていた、と。

いやぁ……この手のお話を初めて読まれる方には、いささか濃度がキツめでしたかね。
まぁ、当時の最高権力者の価値観を知るということで、続けましょう。

藤原頼長/Wikipediaより引用

こうした家族ぐるみの男色関係は他にもあったようで、藤原頼長は、藤原家成の子である隆季、家明、成親も愛人にしました。
隆季に至っては、本人が嫌がるところを、いとこである藤原忠雅を通じてアタックをしかけ、祈祷までしてものにしたのだから、なんとも厄介としか言いようがありません。

特に頼長の場合は「藤氏長者(藤原氏のトップ)」という権力を笠に着たセクハラ&パワハラという一面もありますね。

平安時代は、一門の女子を天皇に送り込むことで権威を得る、性と権力が絡まりあったような時代でしたが、それも平安末期になると同性愛でもそういうことが起こったのでしょうか。
パワーゲームと性愛が一体化した時代であり、他とは一線を画しています。

藤原頼長は妻帯しており、周囲に女性がいない環境ではありません。
また、稚児や小姓のような年齢差のある関係を持つのではなく、成人男性同士で関係を結んでいます。

このあたりは他の事例と異なる部分があると言えるでしょう。

 

寺社と武士の男色

男性ばかりの僧侶が男色に走ることは、日本以外でもありました。
中国大陸や朝鮮半島では「破戒僧のやること」として、あまり好ましくないとされ、笑い話のネタにされるものでした。

しかし、日本ではなぜだか寛容であり「許容範囲内の逸脱」扱い。
「女色を我慢しているのだから、美少年を愛するくらいいいじゃないか」
というワケですね。

こうした扱いは、女性を不浄とみなす考えも関係していたと考えられます。
武士の場合、男性ばかりの戦場において、小姓を性的な関係兼ボディガードの役割を果たすものとして側に置くのは効率的でした。
主君と家臣――究極の忠義のかたちとしての男色もありました。
また武士の中には、幼少期に寺で教育を受ける者もいたため、寺でそうした慣習を覚えるということも。

戦国武士と男色の関係は、今さら書くまでもないほど有名なものもあります。
ただし、後世「寝所にいたのだからそういう関係なのだ」と拡大解釈されたと思われるケースもあります。

『おんな城主直虎』でも描かれた徳川家康と井伊直政の場合も、色小姓であったのか、それとも気の置けない話相手兼頼りになるボディガードとして寝所にいたのかは、どちらにも解釈できるものです。
そのような関係性を、ドラマでは反映したものと思われます。

 

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江戸期都市の男色

江戸時代になると、人々が行き交う都市には多くの「陰間茶屋」、つまり男娼を置く店が繁栄しました。
こうした茶屋は歌舞伎小屋の近くにあることが多く、気に入った歌舞伎役者をそのまま買うという行為も行われていました。

しかし、天明年間(1781~1788)あたりからは衰退してゆきます。
度重なる改革によって取り締まられたということもあります。

それよりもっと大きな要因は、都市部において男性が余るという歪(いびつ)な男女比が、時代がくだるにつれ正常化したことが大きな要因のようです。

と、ここまで読んで来て、すでにお気づきの方もおられるかもしれません。
男色が起きやすいところとは?

・寺社
・戦場における武士
・女性の少ない都市圏

すなわち男女比に偏りがある場合に男色が盛んになっているのです。

本来は異性愛者である人物が、環境的に異性を得られない場合、代償的に同性相手に恋愛や性行動を行う場合を“機会性同性愛”といいます。
日本の男色文化の背景には、こうした機会性同性愛の要素もあると言えるのではないでしょうか?

もちろん生まれながらにして男色を好む人もいたでしょうが、江戸時代に男女比が正常化すると男色も下火になったという点は、注目すべき点でしょう。

また、江戸時代に関しては、藩によって男色を含めた性生活のルールが異なります。
男色が絆を深めるとして讃美された藩もあれば、男色に伴うトラブルを嫌い、禁止した藩もあります。

つまり、
「江戸時代の日本では、男色は盛んであった」
と、ザックリまとめることはできません。時代と地域ごとにばらつきがあるからです。

 

「日本は同性愛に寛容」なのか?

「日本は同性愛に寛容だった」
という言葉を見かけます。

これには注意が必要でしょう。

男性同士の性交渉が「罪」として断罪されていたヨーロッパの宣教師からすれば、日本は「悪徳が蔓延して誰も咎めない国」だったかもしれません。
しかし、実はそれも時代や地域によって事情は異なり、一概には断言できないのです。

また、前述した通り、「寝所にいるボディガードであったのか」、それとも「愛人」であったのか、判別できないこともあります。
藤原頼長のようにハッキリと日記に記載があったり、武田信玄のように恋文が残っているのであれば確定的ですが、「AさんとBさんは寝所に一緒にいた」程度であれば、後世に拡大解釈された可能性も大いにもあるわけです。

歴史的な事例を恣意的に持ち出し、明治以降の流れを無視して「日本は同性愛に寛容」とすることには問題があります。

また、寺社における稚児の寵愛や、小姓の場合は、身分差や年齢差の差がある関係性でもあり、現代の成人同士が合意に基づく同性愛とは別ものです。
現代の「同性愛者の権利に寛容」というのは、制度的に結婚等を含めて同性愛者の権利を認めるかどうか、という問題です。

「日本は稚児や小姓の文化もあるし、今だってBLがこんなに盛んなのだから、同性愛に寛容なんだよ」
といったことは、別の問題を混同しているものです。

ですので、大河ドラマの歴史的考証に基づいた同性愛描写を「女性向け」「BL」といった捉え方をするニュース記事等については、少々短絡的ではないかと個人的には思います。

昔と今の考え方が違うのは当たり前のことであり、性愛に関してももちろんそうです。
歴史と現代は別物と考えたうえで、偏見を持たずに男色を考えることが大事ではないでしょうか。

文・小檜山青

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