源実朝

源実朝/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

源実朝は将軍としてどんな実績があった?朝廷と北条に翻弄された生涯

2025/01/25

鎌倉幕府最後の「源氏将軍」として知られる源実朝。

建保7年(1219年)1月27日はその命日です。

小中学校の歴史では

・甥の公暁に暗殺された!

という部分が強調されすぎて、なんだか薄暗いイメージをお持ちの方も多いかもしれませんが、その印象も大きく変わったかもしれません。

ご存知、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場。

和歌や平和を好み、後鳥羽上皇や源仲章に傾いたため、北条義時に追い詰められ……そして非業の最期を迎える、あまりにも悲しき生涯でした。

では史実では如何なる人物で、どんな事績があったのか?

源実朝の生涯を振り返ってみましょう。

源実朝/Wikipediaより引用

 


頼朝と政子の次男・源実朝

源頼朝と北条政子の次男として源実朝が生まれたのは、建久三年(1192年)8月9日のこと。

幼名は千幡(千万)といいました。

◆頼朝と政子の子

長女:大姫(推定1178年)

長男:源頼家(1182年)

次女:三幡・乙姫(1186年)

次男:源実朝(1192年)

この頃はいわゆる”源平の合戦”も片付いており、また実朝誕生のおよそひと月前には頼朝が征夷大将軍に任じられていたため、源氏に慶事が続いていた時期でもあります。

幼少期の実朝については、あまり記録がありません。

正治元年(1199年)1月には、父の源頼朝が急死し、兄・源頼家が二代将軍となりましたが、幼い実朝にはあまり影響がなかったと思われます。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

彼の名が頻出するようになるのは、建仁三年(1203年)に【比企能員の変】が起きてから。

その後、兄の頼家が将軍の座を追われ、実朝に三代将軍の座が回ってきたのです。

急遽、元服を済ませてからの慌ただしい就任で、弱冠12歳の実朝は自らの責務を果たすべく、努力を重ねます。

まず、将軍就任の直後に、頼朝時代の文書を提出させたり、複写させたりして先例を学ぶことに務めました。

良い統治者になろうという意欲が始めから高かったのでしょう。

幼くして将軍の座についた実朝が自ら学ぶ意欲を見せたということは、母の北条政子を含めた周囲の人々にとって、好ましいことだったのではないでしょうか。

就任の翌年、建仁四年=元久元年(1204年)春からは、実朝が実務を行ったという記述も増えてきます。

この年3月には自らの名で下知状(命令を記した文書)を発行しており、同年7月には祖父・北条時政と大江広元の同席の上で、安芸壬生荘の地頭職に関する争論を自ら裁決していました。

 


正室は自らの意思で京都から

政務に関する心配がなくなれば、次に重要なのが跡継ぎを得ること。

誰を正室にすべきか。

政子が、実朝のいとこにあたる足利義兼の娘を勧めると、実朝は意外な主張をしました。

「ぜひとも京都から妻を迎えたい」

使者を遣わし候補者を探させ、実朝が、母や重臣の言いなりになるような人物でなかったことがうかがえますね。

妻として、白羽の矢が立ったのが、坊門信清(ぼうもん のぶきよ)の娘・信子でした。

坊門家は、大河ドラマ『光る君へ』でもおなじみ、藤原道隆(道長の兄・一条天皇の中宮である定子の父)の血を引く家です。

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用

将軍家との釣り合いが取れる家格であり、信子が実朝と一つ違いという年齢の近さも決め手になったのでしょう。

彼女に関してはあまり記録がないのですが、出発する日には後鳥羽上皇も見送ったといわれています。

院の覚えがめでたいということは、おそらく公家社会での評判も良かったのでしょう。

鎌倉に来てからも大きなトラブルはなく、姑である政子との仲も良好でした。

時系列が前後しますが、建暦元年(1211年)7月には、二人で日向薬師堂(伊勢原市)に参詣しています。

薬師如来はその名の通り、衆生を病の苦しみから救い、寿命を伸ばすとされる仏様です。病弱な実朝への思いやりが、嫁姑のかすがいになったのかもしれませんね。

実朝と信子の夫婦仲も良好だったといわれています。実朝は京の文化に憧れていたため、上方から来た妻を重んじていたのでしょうか。

実朝といえば、和歌に関する逸話も豊富です。

興味を持つに至ったキッカケは不明ですが、もしかすると信子との結婚も理由の一つかもしれません。

というのも、彼が歌を多く読むようになった記録の初出が、結婚の翌年である元久二年(1205年)4月なのです。

この年は【畠山重忠の乱】や【牧氏事件】など、幕府に大きな影響を及ぼした事件が多々ありましたので、実朝も歌を詠むことで心の負担を軽減していたのかもしれません。

畠山重忠(月岡芳年画『芳年武者无類』)/wikipediaより引用

 

武士としての心構え

実朝は心身の成長とともに、和歌だけでなく、武士としての心構えも身につけていきました。

建永二年(1207年)8月に行われた鶴岡八幡宮での放生会(ほうじょうえ)に関する逸話で、それをうかがわせる言動をしています。

放生会というのは、一度捕った鳥や魚を放してやる行事。

鶴岡八幡宮を始め、神社仏閣で度々行われます。

鎌倉では恒例行事の一つでもあるのですが、この年はちょっとしたトラブルが有りました。実朝が出御しようとしたとき、警護の兵がなかなか揃わず、出立が遅れてしまったのです。

17日に実朝がその理由を尋ねると、吾妻四郎助光という武士がこう答えました。

「せっかくの晴れの儀式ですので、新しく鎧を用意していたのですが、鼠に食われてしまい狼狽しておりました」

それに対する実朝の回答が15歳とは思えないほど立派なもの。

「新品の鎧を用意したと言うが、武士は見かけを飾るのではなく警備をするのが本分である。

世の乱れは思いがけないときに起こるものなのに、武士が直ちに鎧を用意できないというのは度し難い。

古いものだからといって先祖代々伝えてきた鎧を使わずに、神事のたびに鎧を新しく作るなどということをしていたら、倹約の趣旨にも背くことになる」

将軍になってまだ三年目。現代でいえば中高生の少年ですが、将軍としての資質を十二分に持っていたことがわかりますね。

この話には後日談があります。

放生会からしばらく経ったある日のこと、将軍御所で酒宴が行われました。

その最中に青鷺が御所の寝殿の上に止まったのを、実朝は怪異と感じて射止めるように命じたところ、折り悪く射手がおらず、なかなか命令が実行されませんでした。

将軍の許しを得る機会をうかがい、近辺に潜んでいた助光。

「これぞ好機!」と見事に青鷺を射止めて実朝に差し出すと、実朝は喜び、怒りを解いて助光が近似することを許したとか。

しかも殺してしまわないように射たのが実朝の御意に叶い、褒美として剣を下賜したといいます。

こうして政治家としての素養を身に着けつつ、実朝は和歌の勉強も続けていました。

承元三年(1209年)には、藤原定家から『近代秀歌』という歌論書を送られたといわれています。

紀貫之の時代から当時までの歌論をまとめたもので、

「今後は貫之風と新古今風の和歌を統合することが目標になっていくだろう」

と結論づけた後、本歌取りについての解説を加えたものです。

実朝の歌に本歌取りや新古今調というより、万葉調に近いものが多いのは、おそらくこの本の影響でしょう。

 


民への慈悲あるリアリスト

承元四年(1210年)10月頃は仏教への関心が高まったのか。

聖徳太子の十七条憲法を調べたり、四天王寺・法隆寺の重宝について大江広元から講釈を受けています。

大江広元/Wikipediaより引用

その後、持仏堂で聖徳太子の御影を供養したそうです。

詳しくは後述しますが、実朝はいわゆる「夢のお告げ」を得ることが多かったそうで、似たような逸話がある聖徳太子に親近感を持ったのかもしれません。

実朝のエピソードには、慈悲の心をうかがわせるものも豊富です。

建暦元年(1211年)7月に大雨が続いたため「民はこの雨でさぞ嘆き、不便を感じているだろう」と思った実朝は次の歌を詠みました。

時により すぐれば民の なげきなり 八大龍王 雨やめたまへ

【意訳】雨は普段ならありがたいものだが、降りすぎると皆困ってしまう。八大龍王よ、今はどうか雨を止めてください

八大龍王とは、仏教で雨を司るとされる龍族の王たちのことです。

元々は仏教とは別の宗教の神だったといわれており、彼らが釈迦の教えに耳を傾けたため、仏教に取り入れられたといいます。

雨の多い日本でも古くから親しまれ、各地に八大龍王を祀った祠や社寺、池などがあるほどですから、そうした状況を踏まえてのことでしょう。

翌建暦二年(1212年)にも、実朝が民衆を気にかけていたことがわかる逸話があります。

同年の2月28日に「相模川にかかっている橋のいくつかが壊れてしまった」という報告がありました。

三浦義村から修理の申し出があったのですが、北条義時と大江広元は

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵

以下の理由から修理に否定的な考えだったようです。

「建久九年(1198年)に稲毛重成がこの橋を造り、落成供養のときに頼朝様がいらしたのだが、その帰路で落馬されたのがきっかけで亡くなってしまわれた。

重成もその後討伐されることになったので、この橋はどうにも縁起が良くない。

修理しないほうが良いのでは」

義時と広元は、そう判断を仰ぐと、実朝は、この時代にしては特異なほどリアリストな回答を出します。

「父上の死は官位を極めた後のことであり、重成は自らの過ちによって討伐されたのだから、この橋とは何ら関係がない。

橋があれば神詣でに来る者にも地元の住民にも便利であろう、完全に壊れてしまう前に早く修理せよ」

当時は迷信や縁起などを重んじる時代。にもかかわらず現実的な考えから、広元や義時などの重鎮を相手にして、毅然とした態度をとっていたんですね。

重ねて申し上げますと、やはり実朝は重臣たちの言うがままになるような人ではありませんでした。

 

和田合戦での不思議な予言

建暦三年(1213年)に和田合戦が勃発。

幕府創立以来の重臣・和田義盛を失うことになるのですが、この戦について、実朝はいくつか予言めいた言動をしていたとされます。

一つは、時を遡って承元四年(1210年)のこと。

駿河のとある神社で祀られていた馬鳴大明神が近隣の子供に取り憑き、

「酉年に合戦がある」

と託宣らしきものを告げた……という報告がありました。

そこで「占いをしたらどうでしょうか」と大江広元が進言すると、実朝は答えます。

「その数日前に、私も合戦の夢を見た。だから占うには及ばない」

そしてその神社に剣を寄進したのだとか。

和田合戦の起きた1213年は癸酉(みずのととり)の年であり、3年前に見たこの夢やお告げは、的中したことになります。

和田義盛/Wikipediaより引用

もう一つは、1213年の合戦直前のこと。

実朝が御所の近辺にいた二人の御家人を身近に呼び、不吉極まりない予言をします。

「二人とも近いうちに命を落とすだろう。一人は私の敵、一人は味方として」

当然二人とも恐れおののいてすぐに退出したといいます。そりゃそうだ。

しかし合戦後の記録によると、実朝の言った通り一人は和田方、一人は幕府方として討ち死にしていたとか。

最終的に和田氏が滅んでこの戦が終わると、同年12月3日、実朝は寿福寺で仏事を執り行い、和田合戦における双方の死者の冥福を祈りました。

また、12月30日には自筆の円覚経を「夢のお告げがあったので」と称し、三浦義村に命じて三浦の海へ沈めさせています。

こちらの理由は明らかではありませんが、三浦氏と和田氏は親類であり、出身地も近かったであろうことを考えると、これも和田氏の供養だったのかもしれません。

義村は和田合戦の際、始め「義盛方につく」と言った後に、義時へ事の次第を密告しているので、この人選にはいささか意地悪さを感じますが……。

実朝も「義村も、好き好んで義盛を裏切ったのではないだろう。和田一族を弔いたいという私の気持ちも察してくれるはずだ」と思っていたのかもしれません。

 

実朝は歌や蹴鞠ばかりで武芸が疎か?

和田合戦が終わり、その弔いが行われるまでの間には、こんなことも。

建保元年(1213年)9月、畠山重忠の末子で出家の身となっていた重慶が、日光で怪しげな祈祷を行っていて、「謀叛を企てているのでは?」という報告がありました。

事の真偽を問いただすべく、実朝は長沼宗政という御家人に命じて、重慶を鎌倉に引き立てて来るよう命じます。

しかし宗政は、あろうことか重慶の首を持って帰ってきます。

これは間違いなく命令違反。

「そもそも重忠も冤罪で殺されてしまったのだから、重慶が謀反を考えてもおかしなことではないし、大した問題もない。

だからこそ生きたまま連れてこいと命じたのに、なぜ勝手に首を取ってしまったのだ。

叛意が事実かどうか、きちんと問いただしてから沙汰すべきであった」

あまりのことに実朝が嘆いていると、宗政は開き直ります。

「重慶は間違いなく謀反を企んでいました。生きたまま連れてくれば、実朝様は女性や尼の言うことに左右されて許してしまうに違いないと思ったのです」

北条政子(菊池容斎画)/Wikipediaより引用

さらには実朝と幕府への批判をぶちまけたのです。

「頼朝様と比べて、実朝様は歌や蹴鞠ばかりやっていて武芸に励まれない。幕府は女性に動かされていて勇士などいないも同然」

確かに実朝は、北条義時や大江広元から武芸をすすめられていました。

それでもほとんど興味を示さなかったのは、病弱な体質で集中できず、熱が入らなかったせいではないでしょうか。

女性や尼の言うことに左右されるというのも、それは北条政子が初代将軍の妻かつ現将軍の母であり、彼女の政治能力が優れていたためとも考えられます。

現に実朝は、母以外の女性(妻・乳母など)やその周囲の人物に振り回されたようなことはありません。

また、耽溺しすぎとされる和歌を通じて御家人と交流を持つことがあり、坂東武者に文化を浸透させる働きにもなっています。

宗政が戻ってくるまでの間に、北条泰時や三浦義村など、心得がある御家人らと磯子方面へ出かけていました。

生粋の武人からすれば柔弱に見えても仕方のないことですが、

”戦乱の時代と平時においては、求められる資質が違う”

というだけのことでしょう。

しかし残念なことに、この宗政の発言を元にして、後世に「実朝は柔弱な人物で将軍の器ではなかった」と拡大解釈されることも多かったものです。

実は宗政の発言には続きがあり、もっと注目していいと思います。こんな内容でした。

「実朝様は、和田合戦で和田方についた者の領地を女性ばかりにお与えになった。頼朝様は武士に多く褒美を与えてくださったのに」

宗政の指摘したのは例えば以下の処遇です。

・和田方だった榛谷重朝の領地が五条局へ

・中山重政の土地が下総局へ

”局”とつく通り二人とも女性で、実朝の側近くに仕えていました。

五条局は、和田義盛が胤長の屋敷をいただきたいと申し出たとき、取次役を務めた人で、下総局の和田合戦との接点は詳細不明です。

いずれにせよ宗政にとっては腹立たしいことだったでしょう。

明記はされていないものの、実朝は宗政にしばらく出仕停止を言い渡したようです。

同年閏9月に「兄の小山朝政の願い出により、長沼宗政が勘気を解かれた」という記述があるためです。

すぐ許してしまうと、将軍の命令を軽んじる者が続く恐れがあります。かといって何年も許さずにいれば、宗政自身が謀反を起こそうとする危険があったでしょう。

1ヶ月の出仕停止は、妥当な期間だったのではないでしょうか。

 

宋の時代にいた高僧の生まれ変わり

建保四年(1216年)6月。

陳和卿という中国出身の職人が、実朝を訪ねてきました。

彼は以前、頼朝に「ぜひお会いしたい」と言われたことがありましたが、真正面からこう断っています。

「あなたは平家と戦ったときに多くの人命を奪ったので、お会いしたくありません」

ではなぜ、息子の実朝はOKなのか?

当時の基準ではきちんとした理由がありました。

実朝に対面すると、和卿は突然泣き出します。

「あなたは宋の時代に医王山にいた高僧の生まれ変わりであり、自分はその門弟だったのです」

現代だったら「何言ってんだコイツ……」と思われてスルーされるところですが、実朝はこれに驚きます。

というのも数年前に見た夢の中で、僧侶から同じことを言われていたからです。

前述の通り、夢のお告げは広く信じられており、北条義時もお告げを得たことによって覚園寺を創立しています。

周りの人々が和卿を不審者として扱わなかったのも、そういう時代だったからなのかもしれません。

大河ドラマでは、源仲章が実朝の夢日記を盗み見して、こっそり告げていたような流れにしてましたが、実朝はこの後、和卿を鎌倉に留め置いたと目されています。

同年11月に「前世で住んでいたという医王山に行きたい」と言い出し、そのための唐船建造を和卿に命じているからです。

この船は翌建保5年(1217年)4月に完成し、由比ヶ浜へ曳航されました……が、そこから海に浮かばなかったため、実朝の出立も取りやめとなっています。

政子や御家人の人々からするとホッとしたでしょうが、実朝としては残念だったでしょうね。

時系列が前後しますが、建保4年(1216年)9月にはこんなこともありました。

「実朝様が大将に任じられたいと思っていらっしゃるようだ。

頼朝様は生涯高い官位を固辞なさっておられたが、それは子孫に良い運を残すためだった。

実朝様はまだお若いのに、昇進が早すぎてかえってご運が尽きてしまうのではないかと案じている。

広元殿から諫言してもらえないか」

実朝の官位昇進が早いことを心配した北条義時が、大江広元に相談したのです。

「頼朝様はこういったことについては毎回下問してくださったのに、実朝様は全く話してくださらないので、どうしたものかと思っていました。義時殿が同じ気持ちでいたと知ってホッとしています。私から申し上げましょう」

と、義時に同意した広元。

さっそく翌日、実朝に進言します。

「まだお若く実績も足りないのに、大将ほどの高官に任じられるのは不吉です。今は征夷大将軍のお仕事に励み、もう少しお歳を重ねてから任官を願い出るのがよろしいと思います」

しかし実朝は譲りません。

ちょっと驚くような返答をします。

「広元が言うことはもっともだが、源氏の嫡流は私で途絶えるだろう。ならばせめて私の官位を上げて、家名を高めておきたいのだ」

これまで夢のお告げをたびたび受けてきた実朝ですから、この件についても何か託宣めいたものを受け取っていたのかもしれません。

前例があるだけに広元も強気に出られなかったのか。返す言葉もなく下がり、義時にこの返答を伝えたといいます。義時がどう思ったのかは記録がありません。

そしてこの約2年後、実朝の周囲で不審な出来事が起き始めます。

 

不審なトラブルが起き始める

まずは建保6年(1218年)9月のことでした。

中秋の名月の日に将軍御所では歌会が行われていました。

その同じ時間帯、鶴岡八幡宮で警備を務めていた者が、稚児と若い僧がふらついているのを見かけて注意したところ、いきなり殴られてしまったというのです。

武士が聖職者に殴られた……というのは少々情けない気もしますが、この一件が実朝に報告されると、翌日、使者を出して事の経緯と犯人を突き止めることになりました。

すると驚くことに、三浦義村の子・駒若丸だと判明します。

義村は、義時サイドの武士で13人には選ばれないものの、幕府の要人であることに間違いはありません。

そんな彼の子・駒若丸は、実朝の甥で養子だった公暁の弟子でもありました。

そもそも鶴岡八幡宮の警備は、源氏の氏神である八幡神への信仰から、頼朝が始めさせたものです。

聖職者側がこのような乱暴に及んだということは、頼朝以来の厚意が無下にされたということになるわけで、実朝は

「こういった恥辱を受けるのならば、もうこの役目は必要あるまい」

として警備を取りやめさせてしまいました。

公暁(月岡芳年『美談武者八景_鶴岡の幕雪/wikipediaより引用)

公暁については、妙な報告がもう一つあります。

この事件の前年の建保5年10月、公暁は鶴岡八幡宮で「千日籠り」を始めていました。

「千日かけて祈願する」というもので、騒動があったときもおこもりの最中であり、建保6年12月にはいくつかの願掛けをしていたと言います。

しかし、一向に髪を下ろさず、皆が不審に思っていた……とも『吾妻鏡』には記載。

こうなると公暁の真意を問いただしても良さそうなものですが、実朝もどちらかといえば信心深いタイプの人ですから、お籠りを邪魔するようなことは控えたのでしょう。

そもそも実朝の前途は洋々でした。

12月には右大臣の官職が与えられ、年が明けて承久元年(1219年)1月27日、そのお礼のため鶴岡八幡宮で儀式が行われることに。

右大臣は、頼朝にすら与えられなかった高い官職ですから、幕府も一気にお祝いムードです。

後鳥羽上皇からは儀式のための衣装や牛車などが贈られ、実朝にとっては義兄にあたる坊門忠信など、多くの公家が下向してくることも決まりました。

多くの御家人たちにとっても一世一代の晴れ舞台であり、お供を務める人々が厳選されています。

頼朝の時代に、こういった儀式の際は”三つの徳”を兼ね備えた者を選ぶ決まりになっていました。

・先祖代々仕えている家の者であること

・弓馬の扱いに長けていること

・容姿が優れている者

質実剛健のイメージが強い武士の世界で、容姿も重んじられるというのは、少々意外かもしれませんね。

しかし年が明けてから、鎌倉で縁起のよくないことが続きます。

 

暗殺

まず1月7日の夜、大江広元邸近辺で火事が起き、40軒以上が燃焼。

15日にも火事があり、数十軒が焼けてしまいました。

実朝の拝賀に参列するために下ってきた公家たちが続々と到着する中、25日には源頼茂が不吉な夢を見て、実朝の身近に仕える陰陽師たちに占いを頼んでいます。

夢の中で頼茂は、目の前にいた鳩を子供が杖で叩き殺すところを見てしまいました。さらに、自分もその子供に袖を打たれたのだそうです。しかも夜が明けてみると、境内で鳩が一羽死んでいたのだとか。

鳩は八幡神の使いとして知られており、八幡神は源氏の氏神です。

夢ではあっても不気味ですし、当時の価値観であれば凶兆と捕らえてもおかしくありません。

占いでもそのような結果になったようですが、さすがにこの後、起こる惨劇までは予言できませんでした。

儀式当日の1月27日も、朝から不吉な出来事が続いたといわれています。

出立の直前、大江広元が放った言葉が有名ですね。

「私は成人してから一度も泣いたことがないのに、今日はなぜか落涙を禁じえません。ご用心のために、束帯の下に腹巻を身に着けてはいかがでしょうか」

腹巻というのは、この場合、軽い鎧の一種です。

その名の通り、主にお腹をガードするもので、大鎧のように肩を防御する部分は付いていません。大鎧では周囲に不審がられると考え、広元は腹巻を勧めたのでしょう。

しかしこれは、お供を務める源仲章に反対されてしまいました。

本来はここに北条義時がいるはずだったのですが、体調不良のため急遽代役として来ており、広元の意見に反対します。

「大臣や大将にまで上った方が、そのようなことをした例はありません」

前例を重んじる実朝であれば、広元の心配をありがたく思いつつ、断ったのではないでしょうか。

さらにその後、髪を整える役目の者が参上したところ、実朝は自ら髪を抜いて形見として与え、庭の梅を見て歌を詠んだと言います。

出ていなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな

慶事の日には似つかわしくない、寂寥感が漂う歌です。

他にも、これでもかと不吉なことが起きました。

・実朝が南門を出るときに鳩がしきりに鳴いていた

・車から降りるときに刀を轅(動物に車を引かせるために前方に長く出ている棒)に引っ掛けて折ってしまった

こんな調子では儀式の最中も、参加者は皆、緊張していたことでしょう。

そして儀式が終わって実朝が八幡宮から退出しようとしたそのとき、事件は起きました。

公暁が飛び出してきて実朝を討ったのです。

建保7年(1219年)1月27日のことでした。

公暁が源実朝に襲いかかる図/国立国会図書館蔵

 

実行犯の公暁は義村邸へ

公暁は実朝の首を持って逃げました。

御家人たちは、公暁が「八幡宮の僧坊」に逃げ込んだと思い、攻めかかりますが、当人は不在。後見者の屋敷に逃れていて、そこで食事を振る舞われてから主張します。

「私こそが次の将軍になるべきだ!」

そして公暁はその承認を得るため、三浦義村へ使いを出します。前述の通り、義村の息子・駒若丸が公暁の弟子になっていたからです。

義村は実朝の悲劇に涙し、公暁の使者に伝えます。

「こちらから公暁様へのお迎えを出すので、しばらくお待ちいただきたい」

同時に義時へ、この一件を知らせました。

もちろん義時は「公暁を討つべき」と答え、三浦一門は討手の準備を進めます。

公暁は、父・源頼家に似て剛の者だったようで、真正面から挑んでは返り討ちに遭うおそれがありました。

そこで選ばれたのが、三浦氏郎党の中で経験豊富な長尾定景でした。

頼朝の時代から仕えていた武士で、かなり老齢でしたが、老体に鞭打ちながら“偽りの迎え役”を務めることになります。

一方の公暁は、迎えが遅いことに焦り、自分から義村の屋敷へ向かっていました。

そこにちょうど長尾定景が鉢合わせ、同行していた雑賀次郎という者がとっさに組み付くと、定景が公暁の首を取るのに成功します。

公暁の首は、義時の屋敷へ届けられました。

吾妻鏡』では、義時の息子である北条泰時が「まだ顔をはっきり見ていないので、本当にこれが公暁なのか疑わしい」と言っていたことになっています。

なんだか不気味というか、不思議な発言ですね。

和田合戦の北条泰時(歌川国芳作)/国立国会図書館蔵

 

なぜ公暁は実朝を殺害したか

それにしても、どうして公暁は源実朝を殺したのでしょうか?

真相は、現代でも不明のまま。

公暁の単独犯行説

・北条義時の陰謀説

・政子が始末させた説

・三浦氏が関与していた説

などなど、複数の推理が展開されています。後に北条氏の専制が始まるためか、義時黒幕説が有力とされていますね。

この中で最も可能性が低いのは、北条政子黒幕説でしょう。

政子は実朝が暗殺された後、こう述懐しています。

「実朝殿は私の子供たちでたった一人の生き残りだったのに、これからはこの老いた尼一人で生きていかねばならないのか。どこぞの淵へ身を投げてしまいたい」

幕府のために生き続けた政子の強さと、母としての悲しみが両方伝わってくる話です。

政子には実朝を殺す理由はありません。生前、頼家のときのように叱りつけたこともないですし。

一番得をしたように見えるのは北条義時ですが、彼もまた貞応三年(1224年)に急死。

嘉禄元年(1225年)には大江広元と政子も相次いで亡くなり、その後、幕政を主導していくのは義時の息子である北条泰時となります。

これは完全に私見なので、ご笑納いただきたいのですが。

もしも泰時が黒幕だったなら、現代に至るまで、ほぼ疑われていないことが空恐ろしくなってきます。

泰時は人格者で【御成敗式目】という画期的な取り組みをした頭の良い方としてしられます。

完全犯罪があるとしたらまさにこれこそ……と思ったりもしますが、まぁ、考えすぎですよね。すみません。

亡くなった源実朝は、勝長寿院に葬られたようです。

同寺は、その後たびたび火災に見舞われ、室町時代に鎌倉公方の足利成氏が鎌倉から古河へ逃れた後に廃絶。

現代では寿福寺に実朝と北条政子の供養塔が立っています。

源氏の嫡流は私で途絶える――。

そんな予言めいた言葉を遺して亡くなった実朝を偲びつつ、暗殺の真相や彼の和歌に思いを馳せるのも良いかもしれません。


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【参考】
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
山本 幸司『頼朝の天下草創 日本の歴史09』(→amazon
日本史史料研究会/細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(→amazon
日本史史料研究会『将軍・執権・連署: 鎌倉幕府権力を考える』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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