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【源実朝】
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実行犯の公暁は義村邸へ
公暁は実朝の首を持って逃げました。
御家人たちは、公暁が「八幡宮の僧坊」に逃げ込んだと思い、攻めかかりますが、当人は不在。後見者の屋敷に逃れていて、そこで食事を振る舞われてから主張します。
「私こそが次の将軍になるべきだ!」
そして公暁はその承認を得るため、三浦義村へ使いを出します。前述の通り、義村の息子・駒若丸が公暁の弟子になっていたからです。
義村は実朝の悲劇に涙し、公暁の使者に伝えます。
「こちらから公暁様へのお迎えを出すので、しばらくお待ちいただきたい」
同時に義時へ、この一件を知らせました。
もちろん義時は「公暁を討つべき」と答え、三浦一門は討手の準備を進めます。
公暁は、父・源頼家に似て剛の者だったようで、真正面から挑んでは返り討ちに遭うおそれがありました。
そこで選ばれたのが、三浦氏郎党の中で経験豊富な長尾定景でした。
頼朝の時代から仕えていた武士で、かなり老齢でしたが、老体に鞭打ちながら“偽りの迎え役”を務めることになります。
一方の公暁は、迎えが遅いことに焦り、自分から義村の屋敷へ向かっていました。
そこにちょうど長尾定景が鉢合わせ、同行していた雑賀次郎という者がとっさに組み付くと、定景が公暁の首を取るのに成功します。
公暁の首は、義時の屋敷へ届けられました。
「まだ顔をはっきり見ていないので、本当にこれが公暁なのか疑わしい」
と言っていたことになっています。なんだか不気味というか、不思議な発言ですね。
なぜ公暁は実朝を殺害したか
それにしても、どうして公暁は源実朝を殺したのでしょうか?
真相は、現代でも不明のまま。
などなど、複数の推理が展開されています。後に北条氏の専制が始まるためか、義時黒幕説が有力とされていますね。
この中で最も可能性が低いのは、北条政子黒幕説でしょう。
政子は実朝が暗殺された後、こう述懐しています。
「実朝殿は私の子供たちでたった一人の生き残りだったのに、これからはこの老いた尼一人で生きていかねばならないのか。どこぞの淵へ身を投げてしまいたい」
幕府のために生き続けた政子の強さと、母としての悲しみが両方伝わってくる話です。
政子には実朝を殺す理由はありません。生前、頼家のときのように叱りつけたこともないですし。
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一番得をしたように見えるのは北条義時ですが、彼もまた貞応三年(1224年)に急死。
嘉禄元年(1225年)には大江広元と政子も相次いで亡くなり、その後、幕政を主導していくのは義時の息子である北条泰時となります。
これは完全に私見なので、ご笑納いただきたいのですが。
もしも泰時が黒幕だったなら、現代に至るまで、ほぼ疑われていないことが空恐ろしくなってきます。
泰時は人格者で【御成敗式目】という画期的な取り組みをした頭の良い方としてしられます。
完全犯罪があるとしたらまさにこれこそ……と思ったりもしますが、まぁ、考えすぎですよね。すみません。
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★
亡くなった源実朝は、勝長寿院に葬られたようです。
同寺は、その後たびたび火災に見舞われ、室町時代に鎌倉公方の足利成氏が鎌倉から古河へ逃れた後に廃絶。
現代では寿福寺に実朝と北条政子の供養塔が立っています。
源氏の嫡流は私で途絶える――。
そんな予言めいた言葉を遺して亡くなった実朝を偲びつつ、暗殺の真相や彼の和歌に思いを馳せるのも良いかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
山本 幸司『頼朝の天下草創 日本の歴史09』(→amazon)
日本史史料研究会/細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(→amazon)
日本史史料研究会『将軍・執権・連署: 鎌倉幕府権力を考える』(→amazon)
他