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【源実朝】
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不審なトラブルが起き始める
まずは建保6年(1218年)9月のことでした。
中秋の名月の日に将軍御所では歌会が行われていました。
その同じ時間帯、鶴岡八幡宮で警備を務めていた者が、稚児と若い僧がふらついているのを見かけて注意したところ、いきなり殴られてしまったというのです。
武士が聖職者に殴られた……というのは少々情けない気もしますが、この一件が実朝に報告されると、翌日、使者を出して事の経緯と犯人を突き止めることになりました。
すると驚くことに、三浦義村の子・駒若丸だと判明します。
義村は、義時サイドの武士で13人には選ばれないものの、幕府の要人であることに間違いはありません。
そんな彼の子・駒若丸は、実朝の甥で養子だった公暁の弟子でもありました。
そもそも鶴岡八幡宮の警備は、源氏の氏神である八幡神への信仰から、頼朝が始めさせたものです。
聖職者側がこのような乱暴に及んだということは、頼朝以来の厚意が無下にされたということになるわけで、実朝は
「こういった恥辱を受けるのならば、もうこの役目は必要あるまい」
として警備を取りやめさせてしまいました。
公暁については、妙な報告がもう一つあります。
この事件の前年の建保5年10月、公暁は鶴岡八幡宮で「千日籠り」を始めていました。
「千日かけて祈願する」というもので、騒動があったときもおこもりの最中であり、建保6年12月にはいくつかの願掛けをしていたと言います。
しかし、一向に髪を下ろさず、皆が不審に思っていた……とも『吾妻鏡』には記載。
こうなると公暁の真意を問いただしても良さそうなものですが、実朝もどちらかといえば信心深いタイプの人ですから、お籠りを邪魔するようなことは控えたのでしょう。
そもそも実朝の前途は洋々でした。
12月には右大臣の官職が与えられ、年が明けて承久元年(1219年)1月27日、そのお礼のため鶴岡八幡宮で儀式が行われることに。
右大臣は、頼朝にすら与えられなかった高い官職ですから、幕府も一気にお祝いムードです。
後鳥羽上皇からは儀式のための衣装や牛車などが贈られ、実朝にとっては義兄にあたる坊門忠信など、多くの公家が下向してくることも決まりました。
多くの御家人たちにとっても一世一代の晴れ舞台であり、お供を務める人々が厳選されています。
頼朝の時代に、こういった儀式の際は”三つの徳”を兼ね備えた者を選ぶ決まりになっていました。
・先祖代々仕えている家の者であること
・弓馬の扱いに長けていること
・容姿が優れている者
質実剛健のイメージが強い武士の世界で、容姿も重んじられるというのは、少々意外かもしれませんね。
しかし年が明けてから、鎌倉で縁起のよくないことが続きます。
暗殺
まず1月7日の夜、大江広元邸近辺で火事が起き、40軒以上が燃焼。
15日にも火事があり、数十軒が焼けてしまいました。
実朝の拝賀に参列するために下ってきた公家たちが続々と到着する中、25日には源頼茂が不吉な夢を見て、実朝の身近に仕える陰陽師たちに占いを頼んでいます。
夢の中で頼茂は、目の前にいた鳩を子供が杖で叩き殺すところを見てしまいました。さらに、自分もその子供に袖を打たれたのだそうです。しかも夜が明けてみると、境内で鳩が一羽死んでいたのだとか。
鳩は八幡神の使いとして知られており、八幡神は源氏の氏神です。
夢ではあっても不気味ですし、当時の価値観であれば凶兆と捕らえてもおかしくありません。
占いでもそのような結果になったようですが、さすがにこの後、起こる惨劇までは予言できませんでした。
儀式当日の1月27日も、朝から不吉な出来事が続いたといわれています。
出立の直前、大江広元が放った言葉が有名ですね。
「私は成人してから一度も泣いたことがないのに、今日はなぜか落涙を禁じえません。ご用心のために、束帯の下に腹巻を身に着けてはいかがでしょうか」
腹巻というのは、この場合、軽い鎧の一種です。
その名の通り、主にお腹をガードするもので、大鎧のように肩を防御する部分は付いていません。大鎧では周囲に不審がられると考え、広元は腹巻を勧めたのでしょう。
しかしこれは、お供を務める源仲章に反対されてしまいました。
本来はここに北条義時がいるはずだったのですが、体調不良のため急遽代役として来ており、広元の意見に反対します。
「大臣や大将にまで上った方が、そのようなことをした例はありません」
前例を重んじる実朝であれば、広元の心配をありがたく思いつつ、断ったのではないでしょうか。
さらにその後、髪を整える役目の者が参上したところ、実朝は自ら髪を抜いて形見として与え、庭の梅を見て歌を詠んだと言います。
出ていなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな
慶事の日には似つかわしくない、寂寥感が漂う歌です。
他にも、これでもかと不吉なことが起きました。
・実朝が南門を出るときに鳩がしきりに鳴いていた
・車から降りるときに刀を轅(動物に車を引かせるために前方に長く出ている棒)に引っ掛けて折ってしまった
こんな調子では儀式の最中も、参加者は皆、緊張していたことでしょう。
そして儀式が終わって実朝が八幡宮から退出しようとしたそのとき、事件は起きました。
公暁が飛び出してきて実朝を討ったのです。
建保7年(1219年)1月27日のことでした。
実行犯の公暁は義村邸へ
公暁は実朝の首を持って逃げました。
御家人たちは、公暁が「八幡宮の僧坊」に逃げ込んだと思い、攻めかかりますが、当人は不在。後見者の屋敷に逃れていて、そこで食事を振る舞われてから主張します。
「私こそが次の将軍になるべきだ!」
そして公暁はその承認を得るため、三浦義村へ使いを出します。前述の通り、義村の息子・駒若丸が公暁の弟子になっていたからです。
義村は実朝の悲劇に涙し、公暁の使者に伝えます。
「こちらから公暁様へのお迎えを出すので、しばらくお待ちいただきたい」
同時に義時へ、この一件を知らせました。
もちろん義時は「公暁を討つべき」と答え、三浦一門は討手の準備を進めます。
公暁は、父・源頼家に似て剛の者だったようで、真正面から挑んでは返り討ちに遭うおそれがありました。
そこで選ばれたのが、三浦氏郎党の中で経験豊富な長尾定景でした。
頼朝の時代から仕えていた武士で、かなり老齢でしたが、老体に鞭打ちながら“偽りの迎え役”を務めることになります。
一方の公暁は、迎えが遅いことに焦り、自分から義村の屋敷へ向かっていました。
そこにちょうど長尾定景が鉢合わせ、同行していた雑賀次郎という者がとっさに組み付くと、定景が公暁の首を取るのに成功します。
公暁の首は、義時の屋敷へ届けられました。
『吾妻鏡』では、義時の息子である北条泰時が「まだ顔をはっきり見ていないので、本当にこれが公暁なのか疑わしい」と言っていたことになっています。
なんだか不気味というか、不思議な発言ですね。
なぜ公暁は実朝を殺害したか
それにしても、どうして公暁は源実朝を殺したのでしょうか?
真相は、現代でも不明のまま。
・公暁の単独犯行説
・北条義時の陰謀説
・政子が始末させた説
・三浦氏が関与していた説
などなど、複数の推理が展開されています。後に北条氏の専制が始まるためか、義時黒幕説が有力とされていますね。
この中で最も可能性が低いのは、北条政子黒幕説でしょう。
政子は実朝が暗殺された後、こう述懐しています。
「実朝殿は私の子供たちでたった一人の生き残りだったのに、これからはこの老いた尼一人で生きていかねばならないのか。どこぞの淵へ身を投げてしまいたい」
幕府のために生き続けた政子の強さと、母としての悲しみが両方伝わってくる話です。
政子には実朝を殺す理由はありません。生前、頼家のときのように叱りつけたこともないですし。
一番得をしたように見えるのは北条義時ですが、彼もまた貞応三年(1224年)に急死。
嘉禄元年(1225年)には大江広元と政子も相次いで亡くなり、その後、幕政を主導していくのは義時の息子である北条泰時となります。
これは完全に私見なので、ご笑納いただきたいのですが。
もしも泰時が黒幕だったなら、現代に至るまで、ほぼ疑われていないことが空恐ろしくなってきます。
泰時は人格者で【御成敗式目】という画期的な取り組みをした頭の良い方としてしられます。
完全犯罪があるとしたらまさにこれこそ……と思ったりもしますが、まぁ、考えすぎですよね。すみません。
★
亡くなった源実朝は、勝長寿院に葬られたようです。
同寺は、その後たびたび火災に見舞われ、室町時代に鎌倉公方の足利成氏が鎌倉から古河へ逃れた後に廃絶。
現代では寿福寺に実朝と北条政子の供養塔が立っています。
源氏の嫡流は私で途絶える――。
そんな予言めいた言葉を遺して亡くなった実朝を偲びつつ、暗殺の真相や彼の和歌に思いを馳せるのも良いかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
山本 幸司『頼朝の天下草創 日本の歴史09』(→amazon)
日本史史料研究会/細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(→amazon)
日本史史料研究会『将軍・執権・連署: 鎌倉幕府権力を考える』(→amazon)
他