頼朝の命により上総広常が理不尽に討たれ。
手を下した梶原景時も御家人たちから総スカンを喰らって亡き者にされ。
義経も奥州藤原氏も、とにかく関係者たちが次々に消されていく……『鎌倉殿の13人』の中でも、とりわけ後味が悪いのが源実朝の暗殺事件でしょう。
現役の将軍である源実朝が、甥っ子の公暁(こうぎょう)に襲われ命を落としてしまう。
いったい何事なんだ?
と、歴史の授業で摩訶不思議に思われた方も少なくないはず。
権力争いの最中に、骨肉の怨恨もからんだかのような、とにかくドロドロしてそうなこの一件。
その中心にいるのはやはり公暁であり、その生涯や周辺事情を見ることで、犯行の動機なども浮かんできそうな気もします。
暗殺を実行し、同日の建保7年(1219年)1月27日に亡くなった公暁の生涯を、振り返ってみましょう。
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祖父・頼朝の死の翌年に生まれる
源頼朝が急死した建久10年(1199年)1月13日。
その翌年の正治2年(1200年)、源頼家の二男として善哉こと後の公暁が誕生しました。
源為朝は初代鎌倉殿である源頼朝の叔父であり、剛弓で知られる伝説的な武者。
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父も母も源氏の血を引く男子が生まれることは、頼朝にとって悲願成就であり、生きていれば大いに喜んだことでしょう。
『鎌倉殿の13人』では、つつじ(辻殿)の子を世継ぎにする――源頼朝にはそんな意向があったと描かれています。
血筋を考慮すれば、そう不自然なことでもありません。
一幡の母であるせつ(若狭局)は、鎌倉政権で有力な比企一族の出身ですが、頼朝が存命であればそこまで強硬な反論はできなかったはず。
しかし、その頼朝が急死してしまったため、鎌倉政権内部でのパワーバランスが崩壊していまいました。
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頼家の子を誰と嫡子とするか。
事前に相続の順を明確にしておけば、後の悲劇も避けられたのかもしれません。
困ったことに、頼朝の跡を継いだ源頼家には、4人の息子たちがいました。
せめて頼朝存命中に母つつじの懐妊が発覚していれば、悲劇は避けられたのかもしれない。
そんな不幸の連鎖が、誕生時から生じていたのが公暁の人生でした。
父・頼家の失墜と死
頼朝の死後、若くして後継者となった源頼家。
その治世は当初から困難を極めました。
もともとの器量や資質が低い――そんな論調は『吾妻鏡』にも見えますが、鵜呑みにしてよいのかどうか、発信側のバイアスも考えねばならないでしょう。
源頼家が二代将軍となって程なくして、梶原景時が失脚と同時に滅亡。
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以降、北条と比企の争いが激化していく最中、頼家の側室せつ(若狭局)とその子である一幡も命を散らします。
鎌倉殿の地位を追われた頼家も惨殺されてしまいました。
そして次なる鎌倉殿の地位は、頼家の息子……ではなく、北条サイドの息がかかった頼家の弟・源実朝(幼名は千幡)に引き継がれるのです。
頼家の正室だったつつじ(辻殿)、ならびに善哉(公暁)の処遇はどうなったのか?
つつじ(辻殿)は出家し、その後の消息は不明です。
鶴岡八幡宮別当への道が敷かれる
元久2年(1205年)、祖母である北条政子のはからいにより、幼い善哉は第二代鶴岡八幡宮別当・尊暁に弟子入りし、頼暁と名乗りました。
さらに翌建永元年(1206年)、叔父である源実朝の猶子となります。
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5年後の建暦元年(1211年)。
善哉あらため頼暁は上洛し、京都園城寺の高僧・公胤の弟子となって、名を公暁に改めました。
こうなると着々と僧侶の道を歩んでいるようにも見えます。
後に、幕府を震撼させる事件をおこすようには思えません。
それは建保4年(1216年)と建保5年(1217年)に師匠の公胤と定暁が相次いで亡くなってからもそうでした。
定暁は鶴岡八幡宮の別当でしたので、その跡を継ぐべく、公暁は鎌倉へ呼び戻されます。
政子の構想はこうでしょう。
実朝が将軍として政治を執り行い、宗教権威にその猶子である公暁を据える――鎌倉を一層盤石とする配置でした。
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