頼朝の命により上総広常が理不尽に討たれ。
手を下した梶原景時も御家人たちから総スカンを喰らって亡き者にされ。
義経も奥州藤原氏も、とにかく関係者たちが次々に消されていく……そんな殺伐とした『鎌倉殿の13人』の中でも、とりわけ後味悪かったのが源実朝の暗殺事件でしょう。
現役の将軍である源実朝が、甥っ子の公暁(こうぎょう)に襲われ命を落としてしまう。
いったい何事なんだ?
歴史の授業で、そう不思議に思われた方も少なくないはず。
権力争いの最中に、骨肉の怨恨もからんだかのような、とにかくドロドロしてそうなこの一件。
中心にいるのはやはり公暁であり、その生涯や周辺事情を見ることで、犯行の動機なども浮かんできそうな気もします。

公暁(月岡芳年『美談武者八景_鶴岡の幕雪/wikipediaより引用
暗殺を実行し、同日の建保7年(1219年)1月27日に亡くなった公暁の生涯を、振り返ってみましょう。
祖父・頼朝の死の翌年に生まれる
源頼朝が急死した建久10年(1199年)1月13日。
その翌年の正治2年(1200年)、源頼家の二男として善哉こと後の公暁が誕生しました。
母の辻殿(ドラマではつつじ)は、源為朝の外孫にあたります。
源為朝は初代鎌倉殿である源頼朝の叔父であり、剛弓で知られる伝説的な武者。

源為朝/wikipediaより引用
父も母も源氏の血を引く男子が生まれることは、頼朝にとって悲願成就であり、生きていれば大いに喜んだことでしょう。
『鎌倉殿の13人』では、つつじ(辻殿)の子を世継ぎにする――源頼朝にはそんな意向があったと描かれています。
血筋を考慮すれば、そう不自然なことでもありません。
一幡の母であるせつ(若狭局)は、鎌倉政権で有力な比企一族の出身ですが、頼朝が存命であればそこまで強硬な反論はできなかったはず。
しかし、その頼朝が急死してしまったため、鎌倉政権内部でのパワーバランスが崩壊していまいました。
頼家の子のうち、誰を嫡子とするか。
事前に相続の順を明確にしておけば、後の悲劇も避けられたのかもしれません。
困ったことに、頼朝の跡を継いだ源頼家には、4人の息子たちがいました。
せめて頼朝存命中に母つつじの懐妊が発覚していれば、悲劇は避けられたのかもしれない。
そんな不幸の連鎖が、誕生時から生じていたのが公暁の人生でした。
父・頼家の失墜と死
頼朝の死後、若くして後継者となった源頼家。
その治世は当初から困難を極めました。

源頼家/wikipediaより引用
もともとの器量や資質が低い――そんな論調は『吾妻鏡』にも見えますが、鵜呑みにしてよいのかどうか、発信側のバイアスも考えねばならないでしょう。
源頼家が二代将軍となって程なくして、梶原景時が失脚と同時に滅亡。
以降、北条と比企の争いが激化していく最中、頼家の側室せつ(若狭局)とその子である一幡も命を散らします。
鎌倉殿の地位を追われた頼家も惨殺されてしまいました。
そして次なる鎌倉殿の地位は、頼家の息子……ではなく、北条サイドの息がかかった頼家の弟・源実朝(幼名は千幡)に引き継がれるのです。
頼家の正室だったつつじ(辻殿)、ならびに善哉(公暁)の処遇はどうなったのか?
つつじ(辻殿)は出家し、その後の消息は不明です。
鶴岡八幡宮別当への道が敷かれる
元久2年(1205年)、祖母である北条政子のはからいにより、幼い善哉は第二代鶴岡八幡宮別当・尊暁に弟子入りし、頼暁と名乗りました。
さらに翌建永元年(1206年)、叔父である源実朝の猶子となります。

源実朝/Wikipediaより引用
5年後の建暦元年(1211年)。
善哉あらため頼暁は上洛し、京都園城寺の高僧・公胤の弟子となって、名を公暁に改めました。
こうなると着々と僧侶の道を歩んでいるようで、後に、幕府を震撼させる事件を起こすようには思えません。
それは建保4年(1216年)と建保5年(1217年)に師匠の公胤と定暁が相次いで亡くなってからもそうでした。
定暁は鶴岡八幡宮の別当でしたので、その跡を継ぐべく、公暁は鎌倉へ呼び戻されます。
政子の構想はこうでしょう。
実朝が将軍として政治を執り行い、宗教権威にその猶子である公暁を据える――鎌倉の源氏政権を一層盤石とする配置でした。
実朝の後継者選び
源実朝には、ある問題がありました。
妻との間に子が生まれない。
為政者としては由々しき事態です。
実朝は、後鳥羽院と良好な関係を保っておりました。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用
父・頼朝や兄・頼家も朝廷との距離を適切に保っていましたが、実朝は寵愛されていたと言ってもよいほど。
そうした関係もあってか、健保6年(1218年)には父・頼朝と兄・頼家の官職を超え、内大臣にまで昇進しています。
しかし、そんな実朝に子ができない……。
その思わぬ打開策は、政子と藤原兼子(卿二位・後鳥羽院乳母の妹)との話し合いの中で進んでゆきました。
もしも男子が授からぬまま実朝に万が一のことがあれば、後鳥羽院の子を鎌倉に下向させ、将軍としてはどうか?
まだ三十にもならない我が子の実朝。
これから子はできるはず。
母の政子とすればそう信じたかったことでしょう。
しかし、父や兄と比べ、閨房(けいぼう)関連のことが淡白に思えることは確かです。
後世形成されていった文弱なイメージの影響のせいなのか。あるいは閨閥(姻族関係による勢力争い)を回避したかったのか。ただ単に真面目なのか、あるいは煩わしかったのか。
後鳥羽院の子を将軍とする案は、バカなこと!とは一蹴されなかったようで。
御家人にとっても下衆の勘繰りを刺激したのでしょう。
次期将軍の噂話が徐々に広まるにつれ、怒りを募らせていく人物がいました。
公暁です。
確かに彼にとっては度し難い話でしょう。
もしも実朝が子のないまま没したのであれば、還俗した自分に鎌倉殿の地位が回ってきてもおかしくない。
しかし鳥羽院の子が将軍になれば、その可能性を潰されてしまう。
とても放置しておける問題ではありませんでした。
事件の前兆
公暁は、胸の内に何かを抱えていたのか。
別当として修行に励むどころか、“宿願”を叶えるため、千日にわたる山籠を始めてしまいます。
異変が起きたのは彼だけでもありません。
公暁の門弟である三浦駒王丸が夜間に徘徊し、見咎められると乱闘になる騒ぎを起こしました。
そんな不審な動きをしても、彼は血統ゆえに大目に見られたのでしょうか。
ここで出てきた三浦駒王丸とは、幕府の重鎮であり、北条義時とも親しい三浦義村、その四男・光村の幼名です。
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殺伐とした鎌倉を生き延びた三浦義村|義時の従兄弟は冷徹に一族を率いた
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善哉が誕生した時、義村は乳母夫となりました。
となれば三浦一族の助力を期待するのは自然なことでしょう。
当時の鎌倉の寺社勢力には、もともと不穏な要素はありました。
平家は一族郎党全員が誅されたわけでもなく、出家した者も多くいたのです。
潜在的な危険が漂っていました。
実朝暗殺
運命の承久元年(1219年)正月27日――鎌倉には大雪が積もっていました。
曇り空の下で実朝は大勢の供を連れ、鶴岡八幡宮を目指して幕府を出ます。
そして後鳥羽院から賜った車に乗りました。
束帯姿で八幡神前で神事を行い、石段を下りて戻ってきたとき、突如、目の前に男が現れます。
「親の仇はこのように討つのだ!」
公暁はそう叫ぶと、実朝の束帯の裾を踏みつけました。そして頭部に斬りつけると、そのまま首を落としたのです。

国立国会図書館蔵
首を抱えた公暁は雪を踏みしめ、どこかへ姿を消しました。
このとき公暁の配下の者たちが源仲章を斬殺。
『吾妻鏡』ではこうあります。
気分が悪くなったと言う北条義時と交代し、御剣役を務めていた仲章は災難に遭いました。
公暁一行のターゲットは義時だったと推察されます。
ただ、この交代について『愚管抄』では「なかった」とされています。そうなると実朝の側近であり、後鳥羽院と深い関係のある源仲章が狙われていたことになります。
後鳥羽院の命を受け、側近として実朝に「次の鎌倉殿は後鳥羽院の御子息はいかがですか?」と吹き込んでいたのではないか? そう公暁が邪推したならば、なんとしても始末したいところでしょう。
御家人たちが駆けつけたときには、公暁とその配下の者は逃げ去ったあとでした。
公暁は首を抱えたまま備中阿闍梨の屋敷に向かい、そのまま食事を済ませます。
食事中も首を抱えたままでした。
そして門弟である三浦駒王丸の父・義村に使者を送り、こう伝えたのです。
「鎌倉殿はもういない。拙僧こそ坂東を束ねる者にふさわしい! そのためにも為すべきことをすべきである」
しかし、凶報を受け取った三浦義村は絶句するしかありません。実朝を思い涙を流しました。
それでも本心を隠し、使者に対して「我が屋敷に来るように」と伝え、同時に、辛くも難を逃れていた北条義時に、このことを知らせたのです。
義時は激怒し、こう命じます。
「今すぐにでも阿闍梨(公暁)を誅せよ!」

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵
返答を受け取った義村は一族と打ち合わせ、備中阿闍梨邸へ剛力の者を向かわせます。
公暁の力を警戒し、厳選した者を送り込みました。
一方、しびれを切らし、迎えを待たずに義村邸へ向かっていた公暁。
三浦から派遣された者と遭遇すると乱闘となり、斬首されてしまいます。
享年20。
四人いた我が子のうち、北条政子は最後の実朝を失いました。
しかもそれは孫の手にかかって斬殺されるという悲劇的な展開。
将軍と八幡宮別当に子と孫を据えたことが招いてしまったのです。
次々に斃れてゆく、頼朝と政子の血を引く者たち。
京都では「酷い方法で平家を滅ぼした祟りである」と囁かれ、その後、実朝の首も一向に見つかりません。
そのため首の代わりに遺髪を用い、供養されました。
かくして頼朝の血を引く源氏将軍は断絶しまして、問題はその後です。
テロリストとしての公暁
あまりに凄惨な実朝暗殺事件――。
その衝撃は大きく歴史ミステリの定番となりました。
『吾妻鏡』の中身は事実を歪められた可能性があり、他の史料と比較すると齟齬もあって鵜呑みにできず、いわば【本能寺の変】のような位置づけとなってゆきます。
北条義時が体調不良で源仲章と交代し、難を逃れたことは怪しい。
公暁の乳母夫であった三浦義村だって怪しいではないか。
いやいや、後鳥羽院の深慮遠謀かもしれない。
そんな風に様々な黒幕説が提唱されてきたのです……が、近年は「公暁の単独犯行」という見方が主流です。
僭越ながら、この事件はシンプルに捉えて良いのでは?
『鎌倉殿の13人』の脚本家である三谷幸喜さんは、『吾妻鏡』が原作のつもりで書いていると明言しました。

吾妻鏡(1626年江戸時代の写本)/国立国会図書館蔵
実朝に斬り付ける瞬間、公暁は親の仇討ちだと叫びました。
比企一族もろとも父・頼家を手にかけた北条の血を引く実朝とは、公暁からすれば親の仇になったということです。
『鎌倉殿の13人』の公式サイトで出演者発表も見ておきますと……。
頼家の息子。父の無念を晴らすため日本史上に残る大事件を引き起こす。
寛一郎さんコメント
実直であり、感情的であり、若さ故の愚かさもあり、作法があるなか、個人の選択で、あの時代で仇討(あだうち)の象徴といってもいい彼を、革命児として認識しています。
そんな彼を演じられることをうれしく思います。
時代と遊離してしまう彼の心情と近い部分を探して、表現していければと思っています。
感情的で、仇討ちとして実朝を手にかける――この見方からは、誰かの傀儡となる姿は感じられません。
自らの判断と動機を掲げ、天誅をくだす刺客は古今東西おりました。
この時代の日本史にもそれがあてはまります。
黒幕説に翻弄されることで、そんな激情を軽んじる傾向がむしろ強すぎたのかもしれません。
大河ドラマでは2020年『麒麟がくる』でも本能寺での謀反の動機を明智 光秀の感情としました。
2022年『鎌倉殿の13人』でも、陰謀論や黒幕説を否定したのではないでしょうか。
双系制であった中世
「公暁」の読みは、長いこと「くぎょう」とされてきました。
最近の研究では「こうぎょう」であるとされ『鎌倉殿の13人』でもそれに準じています。
なぜ「くぎょう」にされたのか。
漢字の読み方は時代によって異なります。
伝来した言葉の時代により、呉音・漢音・唐音と変化していて、大変悩ましい問題です。
公暁の読み方の問題からは、時代によって異なる漢字の読み方と、後世の見解により上書きされたまま修正されないことがあると示しています。
歴史は変えられない。
しかし、解釈は時代ごとに変化してゆくのです。
公暁の読み方のように、後世の価値観によって上書きされ、わかりにくくなった中世の要素があります。
「双系制」です。
男系か女系か。どちらか一方ではなく両方の血統を辿ることを指します。
親の地位を子が相続する――どの文化圏でも普遍的であったこの制度にも、違いはありました。
父系だけを重視するか?
それとも母系も重視するか?
エリアや文化圏だけでなく、時代によっても異なるため、なかなか難しい問題と言えます。多くの国と地域において、時代がくだると父系重視が強まる傾向があります。
中国の場合、前漢の呂后以来、外戚の排除を重視したため、古くより父系を重視するようになりました。
日本は中国の政治制度をならったことが多いとはいえ、このことは浸透しません。
むしろ平安時代の摂関政治は外戚による権力掌握を目指してきたため、女系の力は根強く残り続けました。
平安時代には「劣り腹」という母の身分が低いことを示す言葉があったほど。
『鎌倉殿の13人』でも、この「劣り腹」に該当するとみなされ、相続に一悶着があった人物がおります。
義時の子である北条泰時がその代表例です。
女系が重視されるため、女性による領土の相続や権力の行使もできました。
『鎌倉殿の13人』における北条政子、丹後局、藤原兼子(卿二位)らは、そうした権力を持つ女性たちです。

北条政子(江戸時代・菊池容斎画)/Wikipediaより引用
戦国時代でも女系は重視され、ある程度は権力を行使することもできました。
武田信玄の子である勝頼は、母の血統ゆえに後継者とみなされておりませんでした。
それが兄の死により家を継ぐこととなり、こうした事情が勝頼の治世に暗い影を落としたのです。
織田信秀の嫡男は、母の血統を考慮したうえで信長とされます。異母兄である織田信広がいたにも関わらず、母の身分の差によりそうなりました。
大河ドラマ『おんな城主 直虎』の井伊直虎や寿桂尼のように、権力を行使する女性もいました。
これが徹底的に排除されたのが江戸時代です。
江戸幕府将軍は、正室の子が継ぐことはむしろ珍しく、初代・家康、三代・家光、十五代・慶喜のみが該当します。
女性の大名は江戸時代に消えました。
明治時代となりますと、さらに徹底した女性の権利排除が行われます。
天皇を京都から東京へ移し、朝廷にあった女官を廃止。
幕府の終焉とともに大奥も廃止。
東洋における伝統である夫婦別姓を廃止し、西洋由来の夫婦同姓を導入。
江戸時代までは存在した女医も、西洋医学を学ぶ機会から女性を排除することにより、消滅させました。
こうした明治維新による女性の権利制限の回復には、長い歳月と労力が費やされることとなります。
女系排除の影響は、天皇制にも及びます。
女系を排除すると、血統継承による君主制は行き詰まる――日本が当時お手本としていた西欧諸国ですらそれを認識していました。
ましてや明治時代は大英帝国のヴィクトリア女王が君臨していた時代です。

ヴィクトリア女王/wikipediaより引用
女性君主は統治能力がない?
そんなことはないだろう。日本は、この先のことを考えると女系を排除してもよいのか? 安定的な皇室が維持できるか?
ましてや西欧と違って他国の王室と婚姻関係もないだろうに……西欧諸国からすら、そう疑念を抱かれる中、日本では伝統を変えてでも女系天皇および女性天皇は認められなくなったのでした。
こうして女系を軽んじる歴史が続いたせいか、公暁の読み方のように、本来の姿が見えなくなってしまったのでしょう。
女系を重んじる価値観に立ち返ってみれば、公暁の憤りは理解できます。
自分より劣る血の実朝めが、鎌倉殿の座を盗んだのではないか!
そんな怒りが渦巻いていたとして、おかしなことではないのです。
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【参考文献】
細川重男『鎌倉幕府抗争史』(→amazon)
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人びと』(→amazon)
若桑みどり『皇后の肖像―昭憲皇太后の表象と女性の国民化』(→amazon)
他






