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【公暁】
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実朝の後継者選び
源実朝には、ある問題がありました。
妻との間に子が生まれない。
為政者としては由々しき事態です。
実朝は、後鳥羽院と良好な関係を保っておりました。
父・頼朝や兄・頼家も朝廷との距離を適切に保っていましたが、実朝は寵愛されていたと言ってもよいほど。
そうした関係もあってか、健保6年(1218年)には父・頼朝と兄・頼家の官職を超え、内大臣にまで昇進しています。
しかし、そんな実朝に子ができない……。
その思わぬ打開策は、政子と藤原兼子(卿二位・後鳥羽院乳母の妹)との話し合いの中で進んでゆきました。
もしも男子が授からぬまま実朝に万が一のことがあれば、後鳥羽院の子を鎌倉に下向させ、将軍としてはどうか?
まだ三十にもならない我が子の実朝。これから子はできるはず。母の政子とすればそう信じたかったことでしょう。
しかし、父や兄と比べ、閨房(けいぼう)関連のことが淡白に思えることは確かです。
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後世形成されていった文弱なイメージの影響のせいなのか。あるいは閨閥(姻族関係による勢力争い)を回避したかったのか。ただ単に真面目なのか、あるいは煩わしかったのか。
後鳥羽院の子を将軍とする案は、バカなこと!とは一蹴されなかったのでしょう。
御家人にとっても下衆の勘繰りを刺激したのでしょう。
次期将軍の噂話は徐々に広まるにつれ、怒りを募らせていく人物がいました。
公暁です。
確かに彼にとっては度し難い話でしょう。
もしも実朝が子のないまま没したのであれば、還俗した自分に鎌倉殿の地位が回ってきてもおかしくない。
しかし鳥羽院の子が将軍になれば、その可能性を潰されてしまう。
とても放置しておける問題ではありませんでした。
事件の前兆
公暁は、胸の内に何かを抱えていたのか。
別当として修行に励むどころか、“宿願”を叶えるため、千日にわたる山籠を始めてしまいます。
異変が起きたのは彼だけでもありません。
公暁の門弟である三浦駒王丸が夜間に徘徊し、見咎められると乱闘になる騒ぎを起こしました。
そんな不審な動きをしても、彼は血統ゆえに大目に見られたのでしょうか。
ここで出てきた三浦駒王丸とは、幕府の重鎮であり、北条義時とも親しい三浦義村、その四男・光村の幼名です。
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善哉が誕生した時、義村は乳母夫となりました。
となれば三浦一族の助力を期待するのは自然なことでしょう。
当時の鎌倉の寺社勢力には、もともと不穏な要素はありました。
平家は一族郎党全員が誅されたわけでもなく、出家した者も多くいたのです。
潜在的な危険が漂っていました。
実朝暗殺
運命の承久元年(1219年)正月27日――鎌倉には大雪が積もっていました。
曇り空の下で実朝は大勢の供を連れ、鶴岡八幡宮を目指して幕府を出ます。
そして後鳥羽院から賜った車に乗りました。
束帯姿で八幡神前で神事を行い、石段を下りて戻ってきたとき、突如、目の前に男が現れます。
「親の仇はこのように討つのだ!」
公暁はそう叫ぶと、実朝の束帯の裾を踏みつけました。そして頭部に斬りつけると、そのまま首を落としたのです。
首を抱えた公暁は雪を踏みしめ、どこかへ姿を消しました。
このとき公暁の配下の者たちが源仲章を斬殺。
『吾妻鏡』ではこうあります。
気分が悪くなったと言う北条義時と交代し、御剣役を務めていた仲章は災難に遭いました。
公暁一行のターゲットは義時だったと推察されます。
ただ、この交代について『愚管抄』では「なかった」とされています。そうなると実朝の側近であり、後鳥羽院と深い関係のある源仲章が狙われていたことになります。
後鳥羽院の命を受け、側近として実朝に「次の鎌倉殿は後鳥羽院の御子息はいかがですか?」と吹き込んでいたのではないか? そう公暁が邪推したならば、なんとしても始末したいところでしょう。
御家人たちが駆けつけたときには、公暁とその配下の者は逃げ去ったあとでした。
公暁は首を抱えたまま備中阿闍梨の屋敷に向かい、そのまま食事を済ませます。
食事中も首を抱えたままでした。
そして門弟である三浦駒王丸の父・義村に使者を送り、こう伝えたのです。
「鎌倉殿はもういない。拙僧こそ坂東を束ねる者にふさわしい! そのためにも為すべきことをすべきである」
しかし、凶報を受け取った三浦義村は絶句するしかありません。実朝を思い涙を流しました。
それでも本心を隠し、使者に対して「我が屋敷に来るように」と伝え、同時に、辛くも難を逃れていた北条義時に、このことを知らせたのです。
義時は激怒し、こう命じます。
「今すぐにでも阿闍梨(公暁)を誅せよ!」
返答を受け取った義村は一族と打ち合わせ、備中阿闍梨邸へ剛力の者を向かわせます。
公暁の力を警戒し、厳選した者を送り込みました。
一方、しびれを切らし、迎えを待たずに義村邸へ向かっていた公暁。
三浦から派遣された者と遭遇すると乱闘となり、斬首されてしまいます。
享年20。
四人いた我が子のうち、北条政子は最後の実朝を失いました。
しかもそれは孫の手にかかって斬殺されるという悲劇的な展開。
将軍と八幡宮別当に子と孫を据えたことが招いてしまったのです。
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次々に斃れてゆく、頼朝と政子の血を引く者たち。
京都では「酷い方法で平家を滅ぼした祟りである」と囁かれ、その後、実朝の首も一向に見つかりません。
そのため首の代わりに遺髪を用い、供養されました。
かくして頼朝の血を引く源氏将軍は断絶しまして、問題はその後です。
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