家康は源氏か藤原氏か

徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

家康は藤原氏なのか源氏なのか? 武士の姓って結構デタラメなのね

永禄10年(1567年)正月、従五位下徳川三河守藤原家康が誕生しました。

赤ん坊として生まれたのではなく、松平元康から徳川家康へと改名し、朝廷工作が実を結んで「従五位下三河守」という官位を得たのです。

大河ドラマ『どうする家康』でもその様子は描かれましたが、家臣団とのドタバタ喜劇が目立ち、いまいち要領を得なかった方もおられるでしょう。

なぜ彼らは喜んでいたのか。

いったい「藤原家康」とは何なのか?

たしか家康は「源氏」を名乗ったりもしていなかったか?

戦国ファンの方ならそんな疑問も感じられたかもしれません。

当時の事情を振り返りながら、徳川家康の官位や姓を考察してみましょう。

 


そもそも名門でもない松平氏の出身

出自は不明なれど、武力は高く、戦場を駆け回る――。

戦国時代は、正体不明の地侍こと国衆たちが数多くひしめいていました。

彼らに確かな血筋などはありません。

これが2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の舞台である平安末期から鎌倉時代であれば「アイツのご先祖様は◯◯だよな」と、ある程度は判明していたものです。

しかし、その後も幾度かの動乱が起き、血筋よりも実力本位の世界が到来。

武力とリーダーシップで自領を治め、財力を蓄える余裕が出てくると、ご先祖様を調べたりでっち上げたりするなどして、怪しげで曖昧なルーツができあがってゆきました。

では、家康の松平氏はどうか?

現在の愛知県豊田市松平町は、かつては「松平郷」とされていました。

13世紀の後宇多天皇(在位1274ー1287)の時代、在原信盛がこの土地に居を構え、松の木が生い茂るさまを見て「松平」と名付けたとされます。

「松を見て名付けた」とは、なんだか曖昧な話ですよね。

要するに、出どころの怪しい話が伝わっている。ただそれだけのことであり、そんな一族が朝廷から官位をもらうとなれば、由緒が必要となってきます。

そこで出自を作り上げるわけですね。

これはなにも徳川家ばかりがセコいとかズルいのではなく、多くの大名や国衆たちがそうしていました。

 


日本人の名前はややこしい

再び『鎌倉殿の13人』に着目してみましょう。

同ドラマには、日本の家族像を探っていくような描写がありました。

主人公の北条義時は当初「江間小四郎」とされ、北条家を継ぐと見なされていなかったことがわかります。

義時には兄の北条宗時がいて、家を継ぐ前に討死。

生まれ順で一番上になっても義時には異母弟がいて、その母が正室・牧の方(りく)だったため、北条は弟が継ぐとされていたのです。

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平安時代まで、一定の立場にいる者は「氏」と「諱(いみな)」を組み合わせて名乗っていました。

平清盛はその典型例です。

「たいらーきよもり」ではなく「たいらーのーきよもり」と間に「の」が入っていました。

それだとややこしいので、鎌倉時代になると、武士たちは「名字(苗字)」と「家名」で名乗り始めます。

「平義時」ではなく「北条義時」になるのです。

さらに武士は、よくわからない出自でも役立つものを引き立てるような例が増えてゆきます。

『鎌倉殿の13人』では、きづきさんが演じた平盛綱が典型例です。

劇中では孤児であり、義時の妻である八重が面倒を見ていました。

義時の子である北条泰時と兄弟のように育っていくうちに、彼は役立つ人物として「平盛綱」という名前と御家人の地位が用意されました。

あれは劇中の設定ではありましたが、史実の平盛綱も出自が不明であることをふまえた名付け方といえます。

要するに、姓とか名とか、割と作ることができるんですね。そこがややこしい。

再び家康へ戻ります。

 

生まれつき領地を持つ大名もいる

松平元康改徳川家康の場合、三河の国衆から大名に成り上がった過程があらわになります。

ゆえにこの従五位下徳川三河守藤原家康となる過程は重要です。

対象的に生まれながらの大名であり、アイデンティティを確立していた事例もあります。

今回はその例として、伊達政宗最上義光に注目しましょう。

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伊達家は歴史が古い名門であり、没落した大崎氏にかわって、室町幕府の役職である奥州探題とされています。

最上家は足利一門であり、室町幕府の役職である羽州探題です。

伊達政宗は陸奥。

最上義光は出羽。

支配する家に生まれたというプライドと理論を両者は用いています。

そもそもが俺の土地だ、攻め取って当然だろう――そんな意識があったのです。

両者の認識は共通しており、どちらかだけが悪どいとか、非常識とか、革新的ということはありません。

名作とされる大河ドラマ『独眼竜政宗』は、そんな伊達政宗を成り上がり型ヒーローとしたためか、実際の伊達家が盛っていた力よりも、過小評価して描かれていたものです。

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伊達と最上は、争いの緩い東北地方であるからこそ、後世にまで残された面もあるでしょう。

一方、激烈な勢力争いが起きていた地方ほど、実力本位路線となり、激しい新陳代謝を繰り返しています。

ちなみに最上義光に敗北した名門として、寒河江氏がおります。

『鎌倉殿の13人』では栗原英雄さんが演じた大江広元の子孫です。

同じく大江広元を先祖とする毛利氏は残り、寒河江氏は最上家臣として組み込まれたのでした。

血筋よりも実力――それが戦国乱世です。

そしてこの下剋上の荒波は、家康が官位を得ようとしていたときの京都を襲っていました。

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