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【家康は源氏か藤原氏か】
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源氏ではなく藤原になった事情
『どうする家康』ではササッと流されてしまいましたが、当時の京都では重大な事態が起きていました。
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三好勢が将軍を御所巻き(ごしょまき・要求を通すため武威で圧力をかけること)した結果、義輝を死なせてしまったこの事件。
京都でそんな大動乱が起きる中、家康は祖父の松平清康にならい、こう朝廷に申し入れようとしました。
「我が一族は清和源氏であり、それも河内源氏は源義家の孫・新田義重を祖とする世良田の子孫・徳川です!」
正親町天皇は、この申し出に対し、難色を示します。信憑性がない――というのは、その通りなのでしょう。
これでは任官できず、家康は困り果てます。
本来であれば、足利将軍が間を取り持つ場面ですが、その将軍がいない。
そこで家康は名門公卿・近衛前久に依頼しました。
『麒麟がくる』では本郷奏多さんが演じた高級貴族であり、彼らの強みは有職故実に詳しく、教養にあふれていることでした。
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貴族は往々にして日記を残しましたが、子孫が滞りなく儀式を進めるために必要なマニュアルであり、近衛前久もこうしたデータベースにはアクセス権限を持っていました。
お願いを依頼されれば、細工もできる立場です。
家康から頼まれた近衛前久は、そこで「とある旧記」から「とある系図」を見つけたことにしました。
「系図によれば、えー、松平は本来源氏やね。その中から藤原氏になった者がいたとすればええ。この藤原氏の頂点に立つ近衛前久が言うからには、ほんまやで」
もしも他国、たとえばお隣の中国辺りなら、「族譜」といった、父系をたどる文書がそれぞれあったりするのですが、日本はそのへん大らかだったのでしょう。
近衛前久の協力次第でどうとでもなります。
ちなみに、却下された「世良田」は意外な所で出てきます。
徳川家康には影武者伝説があり、「世良田二郎三郎元信」という人物が家康と入れ替わります。
この影武者伝説は隆慶一郎が小説とし、それを原作とした漫画もありました。
結局、家康は源氏なの?
残念ながら、三河守をもらった時点での源氏は却下され、藤原氏となりました。後に、天下人となりましたので、以降は、無茶振りでも名乗れば通ってしまいます。
ただし、徳川の天下が揺らぐとなると、血筋で張り合う者も現れます。
時は流れて江戸の世――鎌倉での墓掃除を恒例とする大名家がありました。
薩摩藩の島津家と、長州藩の毛利家です。
うちの殿の方がよほどええ血筋じゃないの
島津氏の祖である島津忠久には源頼朝の落胤説があり、伝承によればこうなります。
つまり頼朝が、信頼していた御家人・安達盛長の妻とひそかに関係を持ち、忠久が生まれたという設定です。
いくら何でもそりゃないぜ……となるのは現代人ならではの感覚であり、ともかく血筋を盛りたい当時の人からすればプラスとされました。
ただ、島津忠久のケースはあまりに強引であり、現在は否定されています。
頼朝の血を引く男子は北条氏により出家させられました。
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一方、長州藩の毛利氏は、大江広元は確たるご先祖様であり、その繋がりから墓参りをしています。
純粋な先祖崇拝だと片付けてもよいものですが、不穏なものも見えてくる。
将軍様だというけれど、血筋からすれば我が家の殿の方が上ではないか? そんなプライドを感じさせるのです。
室町幕府の将軍家であった足利一門は、江戸時代には大名としては消えました。
今川氏は今川氏真の代で大名としては滅び、旗本となっています。最上氏も江戸時代初期に改易され、旗本となりました。
しかし、それよりもずっと遡れば、毛並みのよい大名家は残っていたのです。島津は話を盛っているとしても、毛利は確たるもの。
『鎌倉殿の13人』最終回では、松本潤さんが登場し、『吾妻鏡』を読み耽る場面が冒頭にありました。
ああしていたのは何も家康一人のはずがありません。
長州藩の誰かが『吾妻鏡』を読み、こう考えてもおかしくはなかったのです。
「徳川だのなんじゃの威張っちょるが、大江広元公の末裔たる我らの殿様の方が由緒正しいじゃないか」
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長州藩には、新年にこんな儀式があったと伝えられています。
家臣が殿にこう問いかけるというのです。
「殿、今年こそ、倒幕をなさりますか?」
「まだ早かろう」
これは後世の創作とされますし、そもそも薩長にしたって、はなから倒幕を目指していたとは思えません。
ただし、長州藩による大江広元の鎌倉の墓参りは実際にあったことです。ルーツへの誇りはあったわけですね。
江戸時代は朱子学が導入され、日本人の思考回路は変わってゆきました。
下剋上は卑しいものとされ、その体現者たる松永久秀はことさら梟雄として貶められてゆきます。
松永は大名として残ったわけでもないので、久秀を擁護する勢力はなかったのです。
幕末になってもそれは変わらず、明治維新とはフランス革命のような市民革命でなく、武士階級間のクーデターに過ぎないと指摘されています。
明治の元勲の中には、所詮は“農民一揆”にすぎぬフランス革命と、維新を並べられることに拒否感を示す人も多かったとか。
吉田松陰はフランス革命を称賛し、「フレイヘイド(自由)」と掲げたにも関わらず、松下村塾出身者は嫌がったのです。
こうした血統へのこだわりを、日本人はまだ持ち続けているのかもしれません。
大河ドラマが放送されると、その主人公子孫にインタビューする記事が出がちなのもその一端でしょうか。
子孫の方々も納得できるような大河ドラマが放映されることを望みたいものです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
柴裕之『徳川家康: 境界の領主から天下人へ』(→amazon)
二木謙一『徳川家康 (ちくま新書)』(→amazon)
高橋慎一朗『幻想の都鎌倉: 都市としての歴史をたどる』(→amazon)
他