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【源実朝】
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民への慈悲あるリアリスト
承元四年(1210年)10月頃は仏教への関心が高まったのか。
聖徳太子の十七条憲法を調べたり、四天王寺・法隆寺の重宝について大江広元から講釈を受けています。
その後、持仏堂で聖徳太子の御影を供養したそうです。
詳しくは後述しますが、実朝はいわゆる「夢のお告げ」を得ることが多かったそうで、似たような逸話がある聖徳太子に親近感を持ったのかもしれません。
実朝のエピソードには、慈悲の心をうかがわせるものも豊富です。
建暦元年(1211年)7月に大雨が続いたため「民はこの雨でさぞ嘆き、不便を感じているだろう」と思った実朝は次の歌を詠みました。
時により すぐれば民の なげきなり 八大龍王 雨やめたまへ
【意訳】雨は普段ならありがたいものだが、降りすぎると皆困ってしまう。八大龍王よ、今はどうか雨を止めてください
八大龍王とは、仏教で雨を司るとされる龍族の王たちのことです。
元々は仏教とは別の宗教の神だったといわれており、彼らが釈迦の教えに耳を傾けたため、仏教に取り入れられたといいます。
雨の多い日本でも古くから親しまれ、各地に八大龍王を祀った祠や社寺、池などがあるほどですから、そうした状況を踏まえてのことでしょう。
翌建暦二年(1212年)にも、実朝が民衆を気にかけていたことがわかる逸話があります。
同年の2月28日に「相模川にかかっている橋のいくつかが壊れてしまった」という報告がありました。
三浦義村から修理の申し出があったのですが、北条義時と大江広元は以下の理由から修理に否定的な考えだったようです。
「建久九年(1198年)に稲毛重成がこの橋を造り、落成供養のときに頼朝様がいらしたのだが、その帰路で落馬されたのがきっかけで亡くなってしまわれた。
重成もその後討伐されることになったので、この橋はどうにも縁起が良くない。
修理しないほうが良いのでは」
義時と広元は、そう判断を仰ぐと、実朝は、この時代にしては特異なほどリアリストな回答を出します。
「父上の死は官位を極めた後のことであり、重成は自らの過ちによって討伐されたのだから、この橋とは何ら関係がない。
橋があれば神詣でに来る者にも地元の住民にも便利であろう、完全に壊れてしまう前に早く修理せよ」
当時は迷信や縁起などを重んじる時代。にもかかわらず現実的な考えから、広元や義時などの重鎮を相手にして、毅然とした態度をとっていたんですね。
重ねて申し上げますと、やはり実朝は重臣たちの言うがままになるような人ではありませんでした。
和田合戦での不思議な予言
建暦三年(1213年)に和田合戦が勃発。
幕府創立以来の重臣・和田義盛を失うことになるのですが、この戦について、実朝はいくつか予言めいた言動をしていたとされます。
一つは、時を遡って承元四年(1210年)のこと。
駿河のとある神社で祀られていた馬鳴大明神が近隣の子供に取り憑き、
「酉年に合戦がある」
と託宣らしきものを告げた……という報告がありました。
そこで「占いをしたらどうでしょうか」と大江広元が進言すると、実朝は答えます。
「その数日前に、私も合戦の夢を見た。だから占うには及ばない」
そしてその神社に剣を寄進したのだとか。
和田合戦の起きた1213年は癸酉(みずのととり)の年であり、3年前に見たこの夢やお告げは、的中したことになります。
もう一つは、1213年の合戦直前のこと。
実朝が御所の近辺にいた二人の御家人を身近に呼び、不吉極まりない予言をします。
「二人とも近いうちに命を落とすだろう。一人は私の敵、一人は味方として」
当然二人とも恐れおののいてすぐに退出したといいます。そりゃそうだ。
しかし合戦後の記録によると、実朝の言った通り一人は和田方、一人は幕府方として討ち死にしていたとか。
最終的に和田氏が滅んでこの戦が終わると、同年12月3日、実朝は寿福寺で仏事を執り行い、和田合戦における双方の死者の冥福を祈りました。
また、12月30日には自筆の円覚経を「夢のお告げがあったので」と称し、三浦義村に命じて三浦の海へ沈めさせています。
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こちらの理由は明らかではありませんが、三浦氏と和田氏は親類であり、出身地も近かったであろうことを考えると、これも和田氏の供養だったのかもしれません。
義村は和田合戦の際、始め「義盛方につく」と言った後に、義時へ事の次第を密告しているので、この人選にはいささか意地悪さを感じますが……。
実朝も「義村も、好き好んで義盛を裏切ったのではないだろう。和田一族を弔いたいという私の気持ちも察してくれるはずだ」と思っていたのかもしれません。
実朝は歌や蹴鞠ばかりで武芸が疎か?
和田合戦が終わり、その弔いが行われるまでの間には、こんなことも。
建保元年(1213年)9月、畠山重忠の末子で出家の身となっていた重慶が、日光で怪しげな祈祷を行っていて、「謀叛を企てているのでは?」という報告がありました。
事の真偽を問いただすべく、実朝は長沼宗政という御家人に命じて、重慶を鎌倉に引き立てて来るよう命じます。
しかし宗政は、あろうことか重慶の首を持って帰ってきます。
これは間違いなく命令違反。
「そもそも重忠も冤罪で殺されてしまったのだから、重慶が謀反を考えてもおかしなことではないし、大した問題もない。
だからこそ生きたまま連れてこいと命じたのに、なぜ勝手に首を取ってしまったのだ。
叛意が事実かどうか、きちんと問いただしてから沙汰すべきであった」
あまりのことに実朝が嘆いていると、宗政は開き直ります。
「重慶は間違いなく謀反を企んでいました。生きたまま連れてくれば、実朝様は女性や尼の言うことに左右されて許してしまうに違いないと思ったのです」
さらには実朝と幕府への批判をぶちまけたのです。
「頼朝様と比べて、実朝様は歌や蹴鞠ばかりやっていて武芸に励まれない。幕府は女性に動かされていて勇士などいないも同然」
確かに実朝は、北条義時や大江広元から武芸をすすめられていました。
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それでもほとんど興味を示さなかったのは、病弱な体質で集中できず、熱が入らなかったせいではないでしょうか。
女性や尼の言うことに左右されるというのも、それは北条政子が初代将軍の妻かつ現将軍の母であり、彼女の政治能力が優れていたためとも考えられます。
現に実朝は、母以外の女性(妻・乳母など)やその周囲の人物に振り回されたようなことはありません。
また、耽溺しすぎとされる和歌を通じて御家人と交流を持つことがあり、坂東武者に文化を浸透させる働きにもなっています。
宗政が戻ってくるまでの間に、北条泰時や三浦義村など、心得がある御家人らと磯子方面へ出かけていました。
生粋の武人からすれば柔弱に見えても仕方のないことですが、
”戦乱の時代と平時においては、求められる資質が違う”
というだけのことでしょう。
しかし残念なことに、この宗政の発言を元にして、後世に「実朝は柔弱な人物で将軍の器ではなかった」と拡大解釈されることも多かったものです。
実は宗政の発言には続きがあり、もっと注目していいと思います。こんな内容でした。
「実朝様は、和田合戦で和田方についた者の領地を女性ばかりにお与えになった。頼朝様は武士に多く褒美を与えてくださったのに」
宗政の指摘したのは例えば以下の処遇。
・和田方だった榛谷重朝の領地が五条局へ
・中山重政の土地が下総局へ
”局”とつく通り二人とも女性で、実朝の側近くに仕えていました。
五条局は、和田義盛が胤長の屋敷をいただきたいと申し出たとき、取次役を務めた人で、下総局の和田合戦との接点は詳細不明です。
いずれにせよ宗政にとっては腹立たしいことだったでしょう。
明記はされていないものの、実朝は宗政にしばらく出仕停止を言い渡したようです。
同年閏9月に「兄の小山朝政の願い出により、長沼宗政が勘気を解かれた」という記述があるためです。
すぐ許してしまうと、将軍の命令を軽んじる者が続く恐れがあります。かといって何年も許さずにいれば、宗政自身が謀反を起こそうとする危険があったでしょう。
1ヶ月の出仕停止は、妥当な期間だったのではないでしょうか。
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