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【源実朝】
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宋の時代にいた高僧の生まれ変わり
建保四年(1216年)6月。
陳和卿という中国出身の職人が、実朝を訪ねてきました。
陳和卿と源実朝が夢見た船は交易が狙いだった?二人の“希望”は由比ヶ浜に座礁
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彼は以前、頼朝に「ぜひお会いしたい」と言われたことがありましたが、真正面からこう断っています。
「あなたは平家と戦ったときに多くの人命を奪ったので、お会いしたくありません」
ではなぜ、息子の実朝はOKなのか?
当時の基準ではきちんとした理由がありました。
実朝に対面すると、和卿は突然泣き出します。
「あなたは宋の時代に医王山にいた高僧の生まれ変わりであり、自分はその門弟だったのです」
現代だったら「何言ってんだコイツ」と思われてスルーされるところですが、実朝はこれに驚きます。
というのも数年前に見た夢の中で、僧侶から同じことを言われていたからです。
前述の通り、夢のお告げは広く信じられており、北条義時もお告げを得たことによって覚園寺を創立しています。
周りの人々が和卿を不審者として扱わなかったのも、そういう時代だったからなのかもしれません。
大河ドラマでは、源仲章が実朝の夢日記を盗み見して、こっそり告げていたような流れにしてましたが、実朝はこの後、和卿を鎌倉に留め置いたと目されています。
同年11月に「前世で住んでいたという医王山に行きたい」と言い出し、そのための唐船建造を和卿に命じているからです。
この船は翌建保5年(1217年)4月に完成し、由比ヶ浜へ曳航されました……が、そこから海に浮かばなかったため、実朝の出立も取りやめとなっています。
政子や御家人の人々からするとホッとしたでしょうが、実朝としては残念だったでしょうね。
時系列が前後しますが、建保4年(1216年)9月にはこんなこともありました。
「実朝様が大将に任じられたいと思っていらっしゃるようだ。
頼朝様は生涯高い官位を固辞なさっておられたが、それは子孫に良い運を残すためだった。
実朝様はまだお若いのに、昇進が早すぎてかえってご運が尽きてしまうのではないかと案じている。
広元殿から諫言してもらえないか」
実朝の官位昇進が早いことを心配した北条義時が、大江広元に相談したのです。
「頼朝様はこういったことについては毎回下問してくださったのに、実朝様は全く話してくださらないので、どうしたものかと思っていました。
義時殿が同じ気持ちでいたと知ってホッとしています。私から申し上げましょう」
と、義時に同意した広元。
さっそく翌日、実朝に進言します。
「まだお若く実績も足りないのに、大将ほどの高官に任じられるのは不吉です。今は征夷大将軍のお仕事に励み、もう少しお歳を重ねてから任官を願い出るのがよろしいと思います」
しかし実朝は譲りません。
ちょっと驚くような返答をします。
「広元が言うことはもっともだが、源氏の嫡流は私で途絶えるだろう。ならばせめて私の官位を上げて、家名を高めておきたいのだ」
これまで夢のお告げをたびたび受けてきた実朝ですから、この件についても何か託宣めいたものを受け取っていたのかもしれません。
前例があるだけに広元も強気に出られなかったのか。返す言葉もなく下がり、義時にこの返答を伝えたといいます。義時がどう思ったのかは記録がありません。
そしてこの約2年後、実朝の周囲で不審な出来事が起き始めます。
不審なトラブルが起き始める
まずは建保6年(1218年)9月のことでした。
中秋の名月の日に将軍御所では歌会が行われていました。
その同じ時間帯、鶴岡八幡宮で警備を務めていた者が、稚児と若い僧がふらついているのを見かけて注意したところ、いきなり殴られてしまったというのです。
武士が聖職者に殴られた……というのは少々情けない気もしますが、この一件が実朝に報告されると、翌日、使者を出して事の経緯と犯人を突き止めることになりました。
すると驚くことに、三浦義村の子・駒若丸だと判明します。
義村は、義時サイドの武士で13人には選ばれないものの、幕府の要人であることに間違いはありません。
そんな彼の子・駒若丸は、実朝の甥で養子だった公暁の弟子でもありました。
そもそも鶴岡八幡宮の警備は、源氏の氏神である八幡神への信仰から、頼朝が始めさせたものです。
聖職者側がこのような乱暴に及んだということは、頼朝以来の厚意が無下にされたということになるわけで、実朝は
「こういった恥辱を受けるのならば、もうこの役目は必要あるまい」
として警備を取りやめさせてしまいました。
公暁については、妙な報告がもう一つあります。
この事件の前年の建保5年10月、公暁は鶴岡八幡宮で「千日籠り」を始めていました。
「千日かけて祈願する」というもので、騒動があったときもおこもりの最中であり、建保6年12月にはいくつかの願掛けをしていたと言います。
しかし、一向に髪を下ろさず、皆が不審に思っていた……とも『吾妻鏡』には記載。
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こうなると公暁の真意を問いただしても良さそうなものですが、実朝もどちらかといえば信心深いタイプの人ですから、お籠りを邪魔するようなことは控えたのでしょう。
そもそも実朝の前途は洋々でした。
12月には右大臣の官職が与えられ、年が明けて承久元年(1219年)1月27日、そのお礼のため鶴岡八幡宮で儀式が行われることに。
右大臣は、頼朝にすら与えられなかった高い官職ですから、幕府も一気にお祝いムードです。
後鳥羽上皇からは儀式のための衣装や牛車などが贈られ、実朝にとっては義兄にあたる坊門忠信など、多くの公家が下向してくることも決まりました。
多くの御家人たちにとっても一世一代の晴れ舞台であり、お供を務める人々が厳選されています。
頼朝の時代に、こういった儀式の際は”三つの徳”を兼ね備えた者を選ぶ決まりになっていました。
・先祖代々仕えている家の者であること
・弓馬の扱いに長けていること
・容姿が優れている者
質実剛健のイメージが強い武士の世界で、容姿も重んじられるというのは、少々意外かもしれませんね。
しかし年が明けてから、鎌倉で縁起のよくないことが続きます。
暗殺
まず1月7日の夜、大江広元邸近辺で火事が起き、40軒以上が燃焼。
15日にも火事があり、数十軒が焼けてしまいました。
実朝の拝賀に参列するために下ってきた公家たちが続々と到着する中、25日には源頼茂が不吉な夢を見て、実朝の身近に仕える陰陽師たちに占いを頼んでいます。
夢の中で頼茂は、目の前にいた鳩を子供が杖で叩き殺すところを見てしまいました。さらに、自分もその子供に袖を打たれたのだそうです。しかも夜が明けてみると、境内で鳩が一羽死んでいたのだとか。
鳩は八幡神の使いとして知られており、八幡神は源氏の氏神です。
夢ではあっても不気味ですし、当時の価値観であれば凶兆と捕らえてもおかしくありません。
占いでもそのような結果になったようですが、さすがにこの後、起こる惨劇までは予言できませんでした。
儀式当日の1月27日も、朝から不吉な出来事が続いたといわれています。
出立の直前、大江広元が放った言葉が有名ですね。
「私は成人してから一度も泣いたことがないのに、今日はなぜか落涙を禁じえません。ご用心のために、束帯の下に腹巻を身に着けてはいかがでしょうか」
腹巻というのは、この場合、軽い鎧の一種です。
その名の通り、主にお腹をガードするもので、大鎧のように肩を防御する部分は付いていません。大鎧では周囲に不審がられると考え、広元は腹巻を勧めたのでしょう。
しかしこれは、お供を務める源仲章に反対されてしまいました。
本来はここに北条義時がいるはずだったのですが、体調不良のため急遽代役として来ており、広元の意見に反対します。
「大臣や大将にまで上った方が、そのようなことをした例はありません」
前例を重んじる実朝であれば、広元の心配をありがたく思いつつ、断ったのではないでしょうか。
さらにその後、髪を整える役目の者が参上したところ、実朝は自ら髪を抜いて形見として与え、庭の梅を見て歌を詠んだと言います。
出ていなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな
慶事の日には似つかわしくない、寂寥感が漂う歌です。
他にも、これでもかと不吉なことが起きました。
・実朝が南門を出るときに鳩がしきりに鳴いていた
・車から降りるときに刀を轅(動物に車を引かせるために前方に長く出ている棒)に引っ掛けて折ってしまった
こんな調子では儀式の最中も、参加者は皆、緊張していたことでしょう。
そして儀式が終わって実朝が八幡宮から退出しようとしたそのとき、事件は起きました。
公暁が飛び出してきて実朝を討ったのです。
建保7年(1219年)1月27日のことでした。
なぜ公暁は叔父の実朝を暗殺したのか?背景には義時の陰謀があった?
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