イラスト・富永商太

伊達家 週刊武春

伊達政宗は逸話も史実も全部オモロイ!70年の生涯まとめ【逸話の正誤表付】

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戦国時代で、面白エピソードを多く持つ大名と言えば?

と問われたら多くの人が名前を挙げるでしょう伊達政宗――。

知名度的にも「三英傑(織田信長豊臣秀吉徳川家康)」に次ぐものがあり、人気では彼らを上回るほどです。

しかし、誤解が多いのもまた彼の特徴。

特にド派手なエピソードが多く、何が本当で、何が作り話なのか、ワケわからなくなってしまう方もおられるかもしれません。

そこで本稿では、最新の研究をもとに、誤認されがちな話を訂正しつつ、政宗70年の生涯をスッキリまとめたいと思います!

 

鎌倉時代から続く奥州探題・伊達家

まず政宗本人の事績から語る前に、多くの方が勘違いしがちな点に着目しますね。

それは地名です。

令制国における東北地方は、太平洋側の
陸奥(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)

出羽(山形県、北東部を除く秋田県)
に別れていて、あわせて
奥羽
と呼びます。

奥羽地図

たまに「奥州=奥羽」と誤解している方がおられます。

「奥州=陸奥」であり「羽州=出羽」なんですね。

こちらを頭の片隅に置いていただいた上で、次に政宗誕生以前の伊達家について説明しておきましょう。

というのもここでも誤解が多いからです。

フィクションでは政宗が小さな家である伊達家を拡大したかに語られることもありますが、そんなことはありません。

伊達氏は文治5年(1189年)、奥州合戦の戦功として与えられた伊達郡を本貫とし、所領を拡大。
政宗の曾祖父にあたる稙宗は、陸奥国守護職に任じられておりました。

稙宗は積極的に外征を繰り返し、さらに多くの周辺大名と子女の縁組を行い、もめ事があれば調停に尽力し、影響力を拡大します。

上方の大名は後に「どうして政宗は親戚と争っているの?」と疑問を感じたそうですが、伊達家が婚姻や養子縁組を通じて勢力拡大したという背景があったのです。

その功労者である稙宗は、紛争解決の指針ともなる分国法『塵芥集』を制定(日本史の試験にも出ますね)。
陸奥国守護として、奥羽に秩序をもたらしました。

そして稙宗の子・晴宗も左京太夫、奥州探題に補任されています。

伊達稙宗/wikipediaより引用

政宗の父である輝宗は、その目を奥羽の外にも向けました。

彼は関東の北条氏政、そして急速に台頭しつつある織田信長、徳川家康とも通交します。信長が武田勝頼を滅ぼした後は、来たるべく信長の関東侵攻を見据え、蘆名・最上等の奥羽の家との連携も進めていました。
輝宗の右腕である遠藤基信は外交のエキスパートであり、伊達家の行く末を見据えた統治の原動力となりました。

政宗の功績をふりかえるとき、父・輝宗はじめ周辺の人物が過小評価されがちですので、注意が必要です。政宗以前の伊達家当主も優秀な人物が揃っており、輝宗もそうした名君の一人です。

先祖の偉業と政策、奥州探題、そして現在の宮城県中部、福島県北部、山形県置賜郡という広大な領土を受け継いだ伊達政宗。
彼は奥羽最大である大名家の嫡男として生を受けたのでした。

 

「独眼竜」の呼称は中国の英雄・李克用にあやかる!?

伊達政宗は、永禄10年(1567年)8月3日、出羽国米沢にて生まれました。

父は、伊達輝宗。
母は、最上義守の娘にして、最上義光の妹である義姫(お東の方、保春院とも呼ばれ、本稿では義姫で統一)。

フィクションで描かれるように伊達家と最上家は対立していたわけではなく、関係は良好でした。
要は、父が奥州探題家の出で、母が羽州探題家の出ですから、その両親の子として誕生した彼は、まさに奥羽一の貴公子だったワケです。

幼名は梵天丸。
同年代の人物には立花宗茂真田信繁(生年諸説あり)らがおります。

政宗の幼年期というと、母・義姫が彼を醜いから憎んだというエピソードが出てきますが、本稿では取り上げません。
政宗の逸話は「話を盛っている」と思われるフシがありまして。特に「弟や母親との関係性」については、「後世の人間が織田信長の挿話をなぞったのではないだろうか」と考えてしまうわけです。

もうひとつ、傅役の片倉景綱が政宗の隻眼(右眼)を摘出した逸話ですが、これは政宗の頭蓋骨に「眼球摘出のあとがない」ことから、事実ではありません。
いかにも面白いエピソードなので広まっていったのでしょう。これも含めて政宗らしいと言えばそうなのかもしれませんが。

天正3年(1575年)、政宗6歳のとき、父の輝宗は、師として僧・虎哉宗乙(こさい そういつ)を招聘し迎えました。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉でも知られる快川紹喜とも交流があり、若い頃から才知を認められてきた虎哉は、このとき46歳。慶長16年(1611年)に82歳で世を去るまで、政宗にとって師であり続けます。

虎哉は、僧侶といえども豪快な人物でした。
幼い梵天丸はどこかシャイなところがあったと伝わります。虎哉が接したのは、隻眼となった翌年。シャイな少年梵天丸を豪快な青年政宗に成長させたのは、師の教えも大きいことでしょう。
中国の歴史書である『十八史略』を教材にして「隻眼の英雄・李克用(りこくよう・856-908年)を見習いなさい」と、梵天丸に教えたとされています。

一般的にあまり語られるコトのない「李克用」ですが、その名は、政宗を振り返るに当たって避けて通れません。
というのも李克用もまた「独眼竜」と称され、彼が指揮する黒ずくめの軍団は「鴉軍」と呼ばれ恐れられていたのです。

李克用の本拠地は中国中心部の中原からみると北に位置します。
そこで虎哉は、まさに梵天丸こそ日本の「独眼竜」になるはずだと教え諭したのでした。これもまた後世の作家の創作であるという説もありますが、両者の行動をみるに当時から虎哉と政宗が意識していたと見るのは、むしろ自然なことでしょう。

幼少期のシャイな性格を克服した政宗は、黒い甲冑を身につけ、「独眼竜」として陸奥で飛躍することになるのでした。

 

輝宗・政宗二頭体制に訪れた、突然の終焉

天正5年(1577年)、梵天丸は元服し、政宗と名乗りました。

政宗とは、伊達家中興の祖・九代目政宗と同じ名です。伊達家当主はそれまで足利将軍家から一字拝領していましたが、足利将軍家の没落とともにその慣習を終えたのです。
外交に長けた輝宗だからこそ、時代の変化を理解していたのでしょう。

そして天正12年(1584年)10月、伊達家の家督は輝宗から政宗へと渡されました。
このとき輝宗41歳、政宗18歳。
壮年期の当主が20歳にならない子に家督を譲るというのは特異なことであるとされ、フィクションでは「政宗の器量をみこんで早めに譲った」という解釈がされてきました。

しかし最近の研究では、このような年齢での家督交替は特異なことではないという見方がされています。佐竹義重から義宣、北条氏政から氏直も、この年代で家督を交替しています。

ただし、このような場合、前当主である父と現当主である息子による二頭体制による統治となります。輝宗と政宗も二人で外交はじめ政治を行っており、家督相続の翌年に輝宗が不慮の死を遂げなければ、そのまま二頭政治が続いた可能性が高いと思われます。

伊達輝宗/wikipediaより引用

家督相続をした政宗は、外交政策を大きく転換します。
それまで二十年の長きにわたって友好関係にあった蘆名氏との同盟を解消し、天正13年(1585年)2月には会津の桧原ひばらへ侵攻。これ以前から蘆名氏は、伊達氏ではなく佐竹氏に接近していた中での出来事でした。

政宗が蘆名を攻めたのは、大内定綱の行動がキッカケでした。当初、伊達氏に従っていた定綱が、政宗に背く動きを見せたのです。

伊達軍は、定綱と同時に、定綱を支援した畠山義継も攻撃。義継は和睦交渉を申し入れますが、突如、交渉に関与していた輝宗を拉致するという行動に出ます。政宗の手勢は反撃に出て、この報復の過程で輝宗ごと義継を射殺し、政宗はそのまま畑山攻めを続行します。
この過激な行動が、蘆名・佐竹ら反政宗勢力を集結させてしまうのです。

そして11月17日には安達郡で伊達と佐竹が激突。戦国ファンに名高い「人取橋の戦い」です。
政宗は数で劣る戦いで追い詰められるものの戦線を維持し、夜半に敵が理由不明の撤退をしたことで辛勝をおさめます。と、すぐさま二本松攻めを再開し、天正14年(1585年)4月、相馬義胤のとりなしにより和睦が成立。畠山氏は二本松城を出て、二本松領は伊達氏のものとなりました。

なんて、サラリと書いてしまいましたが、政宗はなかなかトンデモナイことをしでかしているんですね。
いくら戦国時代とはいえ、父親ごと敵を射殺というのはかなり異常な行動。恩師の虎哉も「お前が畠山をむやみに追い詰めたからこうなったんだろうが!」と激怒したとか。
さらには「伊達家当主は二人もいらないから、片方始末したの?」と皮肉る落首が書かれる始末です。

輝宗の側近であり外交手腕に長けた遠藤基信は殉死してしまい、周囲の大名も政宗に対して厳しい目線を向けます。父子対立が絶えない戦国の世とはいえ、政宗の行為は度を超したものとして周囲に認識されていたのです。

フィクションでは覚悟を決めた輝宗が「わしを撃て!」と叫んだりしますが、これは流石に美化され過ぎではないでしょうか。前述の通り、輝宗は二頭体制で政治を切り盛りする路線だったと思われるわけでして。そこから発展して、この一件は輝宗と外交政策でそりのあわない政宗による計画的謀殺説すらあるほどです。

今となっては真相は闇の中ながら、いずれにせよ伊達家の二頭体制は、突然終焉を迎えたのでした。

 

奥州探題VS羽州探題 仕切るのは俺だ!

父の死後、しばらくの間、政宗は積極的な行動を起こしませんでした。

そして天正15年(1586年)冬、政宗は大崎家の内紛に武力介入します。内紛への武力介入は伊達家の得意とするところであり、奥州探題としての意識的な行動です。

ところがこの大崎合戦がなかなか厄介な経過をたどります。
伊達家の武力介入は反撃に遭い失敗。さらには政宗にとって母方の伯父にあたり、羽州探題である最上義光が、大崎家の支援に介入してきたのです。大崎家当主の義隆は義光正室の兄であり、彼にとっては義兄でした。

前述の通り、両者は最初から険悪な仲だったわけではなく、輝宗の代では、上方の軍勢が奥羽に侵攻した場合、最上氏と伊達は連携する手はずになっていました。

政宗の軍事行動の際には、最上家から援軍が加わることもあり、後年の長谷堂合戦では伊達家から最上家に援軍が出されています。
伊達政宗と最上義光はライバルとみなされることもありますが、武田信玄と上杉謙信のような、本気で火花を散らした関係とは異なるのです。
かといって常に仲が良かったわけではないという、つかずはなれずの関係と申しましょうか。

マンガやドラマでは、義光と義姫が政宗廃嫡を企み、小次郎擁立による伊達家支配を狙っていたとする設定もたびたび登場しますが、実はこれも創作です。

二人の行動パターンを見ていると、実のところよく似ておりまして。「奥羽の秩序を仕切るのは、探題の役目である」と共に考えていたことが、対立の根本にあるのです。
というのも、例えば書状などにおいては両者とも「国中の儀」や「侍道の筋目」、「骨肉」という言葉を使いました。
さらに探題職として助力を頼まれれば援軍を送り、逃げ込んで来た者がいれば匿い、紛争を仲裁するのも自分たちの責務であると意識していたのです。喧嘩をしている者がいれば割り込んで「まあまあ、このへんでやめておけ」と仲裁するのが役目であって、喧嘩相手を殴り倒すこととは違うわけです。

最上義光の記事でも触れましたが、人口が少なく、寒冷な地域であった東北には「相手を完膚無きまで倒すことはしない」という東北のやり方があり、彼らも土地の特性にあわせて最良の方法を探っていたわけです。
ある意味、伊達と最上のこうしたやり方は「惣無事」の原型とも言えます。

アートとしてもイケてる最上義光像

 

伊達家を支えた片倉喜多と景綱 2人は最上寄り

かくして最上も絡んだ「大崎合戦」で足踏みをしている政宗の苦境が伝わると、周辺の勢力が動き出します。

相馬、蘆名、佐竹ら連合軍が軍事行動を起こし、天正16年(1587)6月、郡山城を包囲(郡山合戦)。政宗自ら出陣し粘り強く戦い抜き、翌月にはなんとか和議に持ち込みます。

更に、この同時期、伊達・最上領の国境に最上勢が進軍します。
いよいよ一触即発!となったその瞬間、両軍の間に現れたのが政宗の母であり最上義光の妹であった義姫です。
彼女の登場によって両者は和議を成立させたのでした。

この義姫の行動は「肝っ玉母ちゃんの勝手な行動」とネタにされたり、「平和を愛する女神のような義姫の献身」と美化されたりしがちですが、決して突発的な行動ではありません。

80日間の長期滞在ですから、輿で乗り込んで座りこむだけではなく、大名夫人が寝起きできるようちゃんと即席の小屋が作られています。
周囲には片倉景綱の姉である片倉喜多はじめ侍女がついていて、景綱の許可も得ていました。

ここで片倉喜多&景綱の姉弟について補足説明しておきましょう。

喜多は、政宗の乳母とされていますが、生涯独身で子がなかったので、乳を与える役目は担っていません。
喜多には義姫や政宗正室・愛姫の侍女をしていた時期もあります。

養育係というだけにはとどまらず、秘書的な役目を果たすキャリアウーマンといったところでしょうか。彼女の才知をほめたたえた豊臣秀吉が、彼女を清少納言に由来する少納言との名を与えたという逸話もありますが、彼女は秀吉に出会う前から少納言と呼ばれていますので、創作でしょう。

一方、景綱は、小十郎の名がよく知られています。この名の由来は母方の叔父・飯田小十郎が武勇に優れていたことにあやかっています。
この飯田小十郎は最上家家臣です。つまり彼の母親は最上家臣の娘、ということになります。また、景綱のおばが最上家の氏家氏に嫁いだとする家系図もあります。義光の父・最上義守が重病の際、伊達家から景綱らを枕頭に呼び寄せて「私の死後も伊達と最上は協力していくように」と言付けたという話も残っています。

つまり景綱は、かなり最上家寄りの人物であるわけです。

片倉景綱/wikipediaより引用

景綱は政宗の右腕、軍師としてフィクションで描かれることが多く、傅役とされることもあります。
が、当時の記録には残っていません。
9歳で政宗の御小姓となって以来、そばにいたことは確かです。ただ、天正14年(1585)には大森城主となり、政宗の側にピッタリという状態ではなくなっています。

そもそも景綱の業績を見ていくと、参謀というよりも外交担当的な役目が多いのです。政宗と小十郎のコンビは有名で人気もあり、常にセットであるかのようなイメージがありますが、あくまでフィクションとしての描写と思っていた方がよいかもしれません。

閑話休題。

話を戻しますと、この「義姫和睦作戦」は景綱の影がチラチラと見え隠れするんですね。

外交担当として最上家と関わってきた景綱からすれば、まさに義姫こそ最高のカードだったのでしょう。結果的に伊達と最上は一滴の血も流れずに解決したのですから、これこそ景綱の面目躍如というところではないでしょうか。

もちろん義姫本人の交渉力もあります。政宗も義光も当時は余裕がなくて、本音を言えば矛を収めたいのにきっかけがなくて困っていた、という事情もありますが。

 

若くして得た巨大な力を持て余し、当人も当惑?

なんとか窮地を脱した政宗は、正室・愛姫の実家である田村家に目を向けます。相馬氏と接触していた田村家重臣を追放し、伊達家の支配下に置く体制を強化したのです。

こう政宗の戦歴を見ていくと、結構スッキリしないと思いませんか?
ピンチのところで切り抜ける手段は、なんだかんだで「和睦」が多いんですね。

これまた前述のように、相手を滅ぼすところまで戦い抜かないのは東北大名の特徴です。
政宗は撫で切りや強硬な態度でぬるま湯につかった東北大名を蹂躙した、と言われていますがそうでもありません。他の伊達家当主と同じく、相手が伊達家に従属すればそれでよいのです。
この行動パターンは「探題としての行動・思考」であると理解するとわかりやすくなると思います。

東北にショック療法を施したとされている「小手森城の撫で切り(天正13年・1585年)」にしても、あやしい部分があります。
政宗が数百人を切り捨てたとするこの一件、そもそも小手森城にはそれだけの人数は収容できません。撫で斬りした人数報告でも政宗本人が三種類の数字を書き残していて、それぞれ二百、五百、八百と数字がバラバラ。当時は誰でもそんなものですが、特に政宗は話を盛る傾向があります。

政宗と義光が敵対した相手から煙たがられたのは、政宗が残酷で厳しいからとか、義光が狡猾で権謀術数に長けているからとか語られがちですが、実情は異なると思います。

双方ともに自らが「探題だ!」とばかりに介入し、しかもそれを足がかりに権力を抜け目なく拡大したゆえの警戒ではないでしょうか。

しかも二人には、野心だけでそういう振る舞いをしていた、と言い切れない部分もありまして。
「俺はこの奥羽を本気でよくしたい、そう思っている。そのためには、このグレートな俺が仕切るのが一番いいよな! だからみんな従ってくれ!」
と考えていたフシがあるのです。

むろん、それが善意からの行動だとしても、周囲にとっては押しつけでしかありません。
喩えて言うなら、飲み会の場で全員分の唐揚げにレモンをかけるようなもの。「皆に美味しく食べて欲しいから」と言われたって、押しつけがましい善意は、迷惑なものでしょう……って、唐揚げ喩えはちょっとわかりづらいですかね。

例えばこんなシーンを想像されるといかがでしょう?

最近のアメコミ映画では、超人的な力を持つスーパーヒーローたちが何かと悩んでいます。
『俺は市民を守りたかったはずなのに、どうしてこんなことに?』

あまりに強烈なパワーで高層ビルを倒壊させてしまったり、ヒーロー同士で意見が対立してしまったり。力というのはコントロールできないと、善意で運用したところで時に危険が伴うもの。
政宗にも、そういうところがあるんじゃないかな、と個人的には思うわけです。

晩年、政宗が自ら「俺も天下を狙っていた」なんて話を盛っていることもあり、色々と判断の難しい要素はあります。
ただ、彼の行動を全て計算高い野心に基づく「大暴れ」だとか、「天下への野心」としてしまうのも、何か違う気がするのです。

『こんなはずじゃないんだ……』と、若くしてパワーを手に入れたのに壁にブチ当たり、悩み悶える――そんな姿こそ等身大の魅力があるのではないでしょうか。
完璧超人ではなく、悩みながら歩んで行く政宗像。ちょっとロマンに溢れすぎでしょうか。

 

快勝、摺上原! しかしパーティ is over……

天正17年(1588)、粘り強く続けてきた切り崩し策が実り、大崎氏が伊達氏の配下(馬打ち)に入りました。これで後顧の憂いをたった政宗は南下できるようになります。

相馬氏の領土を落とした政宗は6月になると更に会津へ侵攻。7月には「摺上原の戦い」で大勝利をおさめ、蘆名氏を滅ぼします。
武力で蘆名氏を滅ぼさねばならなかったのは、外交的敗北の結果でした。世継ぎが途絶えた蘆名氏の後継者として、政宗は弟の小次郎を据える工作をしたもののこれが失敗。蘆名氏は佐竹氏から義広を迎え入れていたのです。つまり、対蘆名戦は外交努力失敗の結果としてあるわけです。

当時の会津は交通の要衝であり、蘆名氏は衰えたとはいえ大大名でした。これを伊達氏が飲み込んだとなると、もはや南陸奥に敵はありません。
7月白河、10月二階堂、11月石川。こうして、家を滅ぼす、あるいは従えて、政宗の領国は拡大していったのです。

しかし、この時期の政宗にこう言いたい人物がいたはずです。
「まだ合戦で消耗しているの? 時代は外交だよ」

その人物とはあの最上義光。
外交力を発揮した義光は大崎合戦のあたりから、もはや武力でどうこうする時代ではないとピンときていました。
これからは惣無事を宣言した豊臣政権下で、外交力を発揮する時代。義光はいちはやく豊臣政権に接近し、羽州探題としてだけではなく、豊臣政権の政策代行者としての権力行使を目指し始めます。

この両者の違いを、センスだけで判断するのもどうかと思います。

義光は十五里ヶ原の戦いで惨敗、大崎合戦の介入も結果的に失敗に終わり、行き詰まりを感じていました。
一方、政宗は、領土拡大でノリに乗っています。パーティが楽しめない人は早く帰ろうとし、ノリにのっている人はまだまだ楽しもうとするものです。

「まだあわてるような時間じゃない。北条も健在だ、奥羽のために、俺たちには出来ることがあるはずだ!」
政宗だって何もただ調子に乗っていたわけではなく、彼なりのベストを模索していたのだと思います。

イラスト・富永商太

 

急がないと小田原に遅れちゃう!

天正18年(1589年)正月。新たに手にした会津黒川城(会津若松城)で新年を迎えつつ、政宗はこう詠みました。

七種を一葉によせてつむ根芹

前年の夏から一気に勢力を拡大した高揚感が伝わってきますね。
先の段で政宗はパーティしたいのに終わらせなければいけない、と書いてはいますが、彼だってただノリノリでいたわけではありません。

こんな歌を詠みつつ、南では北条氏政・氏直と豊臣秀吉の対立が深刻化していることを認識。他の奥羽の大名も一刻も早く上洛しようと行動を起こし、秀吉に鷹や馬を贈っています。

「はぁ、秀吉? 知らねーし!」
なんて無視していたわけではありません。
贈答品ばかりでなく、何度も使者を上洛させています。天正17年(1588)夏には蘆名氏との戦闘についても弁明し、さらにのちには「探題職として陸奥の統治は任せて欲しい」とも秀吉に伝えておりました。

しかし返答は、
「いいからお前が上洛して、自分でちゃんと弁明しろよ」
というもの。

政宗は会津を手にした高揚感と、上洛へのタイムアップが迫る状況に置かれていたのでした。
しかも山形では最上義光が「政宗がちゃんと従うか、俺が見張っていますんで」と、実にうっとうしい監視行動を取っています。

このころ南では、豊臣政権と北条氏の対立がこじれにこじれ、もはや対決は不可避となりつつありました。そこで豊臣政権は、奥羽の大名に小田原参陣を促します。
政宗らに締め切りが設定されたようなものです。

そして同年(1589年)4月6日、政宗の出馬が決定。
このとき「抗戦か、参陣か」で二分された家中を片倉景綱が「秀吉の軍勢は蠅のようなもので追い払ってもわいてくる」と譬えたと伝わります。が、景綱は外交担当者かつ最上からの情報がキャッチできる立場として、実際にはもっと中身のある話をしたのではないでしょうか。

ところがこの前日、義姫が政宗を毒殺しようとして、結果的に小次郎が斬られるという事件が発生します。

この事件は、昨今のフィクション作品でも山場かつ見所のあるシーンですが、現代では後世の創作ということでほぼ固まっています。
確かなのは家中が二分され、結果的に小次郎が処断されたという点でしょう(小次郎生存説もありますが)。

かくして色々ありながら伊達政宗は参陣し、所領を安堵されました。
豊臣政権としても、厳しい態度で挑むより、自分たちの意向を土地の者たちに伝える役目を果たす大名がいたほうが好都合だったのです。

政宗は陸奥代表、義光は出羽代表。
両者とも豊臣政権下での有力大名として本領を安堵されました。ただし、会津は没収され、織田信長にも覚えの良かった織豊政権のエリート・蒲生氏郷が入ることになります。

このとき非常に有名なエピソードがあります。政宗が「白装束=死に装束」をまとい、髪の毛を水引で結び、諸大名が見守る中、秀吉に対面するというものです。そこで実際、秀吉は、手にした杖で政宗の首をつつき「もう少し遅れたら危なかったな」と言いました。

イラスト/富永商太

漫画以上にマンガチックでドラマティックなこの展開に対し、
「死ぬかと思った……首に熱湯がかかったみたいでマジ怖かった……」
と後に回想する政宗さん。これぞ戦国ファンを痺れさせるエピソードの代表的存在かもしれません。

同時にこの一件は「さすが、我らの政宗さん! 俺たちにできないことを平然とやってのける! シビれる! あこがれるゥ!」という感じで受け入れられがちですが、一方でこういう風に考えることも可能です。
「政宗、遅刻したら大変なことになるぞ。遅れるにしても、きちんと連絡すべきだって言ったよね。ちゃんと忠告を聞かないから、死に装束パフォーマンスすることになったんだぞ、危ないな」
と、常識的なツッコミを入れたい方もおられると思うのです。

例えば、政宗よりも小田原入りが遅れたけれども、事前のアポあり、おもしろ芸ナシで参陣している最上義光さんとか。

ちなみに政宗は小田原だけではなく、このあとの宇都宮攻めでも遅刻していて、「ホントすみません、人馬が疲れてこんな遅れちゃうなんて予想してなくて! 寝ないで向かうんで!」と書いた自筆書状が残っています。

白装束の話もカッコイイというより、要するにこういう杜撰なスケジュール管理の結果、遅刻してしまい、それを坊主頭にして謝罪みたいな話にも思えてしまうのです。個人的に、カッコイイとは思えないのです。というか、部下だったら胃に穴空くわ!という感じです。
もちろん、部外者から見ればトビキリ面白くて、最高にロックなんすけどね。って私も一ファンに過ぎませんが。

いずれにせよ命は無事でめでたしめでたし、と言いたいところですが、ちょっと補足。
このとき伊達氏に従属していた(=馬打ち)大名の大崎氏や、正室・愛姫の実家である田村氏(政宗死後に再興)らは小田原参陣がかないませんでした。伊達側から不要とのお達しがあったので、勝手に行動できなかったのです。

結果、彼らは改易となりました。
政宗の派手なパフォーマンスの陰で、ひっそりと歴史を終えた陸奥の大名たちも存在したのです。

 

再び窮地に陥って、花押に穴は開いて……ない!?

紆余曲折の末、豊臣政権の大名となった政宗は、正室・愛姫とともに上洛します。

若く好奇心旺盛な政宗にとって、それは心躍る日々であったことでしょう。
上洛した奥羽の大名は、田舎者と馬鹿にされる日々にストレスをためて「もう外出もしたくない……」と弱音を吐く者すらいました。

しかし政宗は元気いっぱい、活動的に振る舞います。
日本の中心・京都で、今まで学んできた教養、洗練された文才やファッションセンスを発揮するとともに、最先端の文化や流行を吸収。実は政宗は若い頃から和歌、漢詩、能、茶道、香といった文学・文化にも関心を示し、そして実際にたしなんでおりました。

伊達家当主として恥ずかしくない振る舞い――と言えば聞こえがよろしいですかね。
こうした行動の根底には、同時に劣等感もありました。

そもそも奥羽の大名は、第一印象から第三印象まで「ド田舎から来た」と思われていたんじゃないかというぐらい、馬鹿にされていました。政宗はそうした偏見に怯むことなく、才知とセンスを見せ付け、「奥羽だからって馬鹿にするなよ!」と頑張っていたのだと思うのです。自分の努力とパフォーマンスが奥羽のイメージアップにもつながる、そんな「俺は奥羽代表」という意識があったわけです。

そして豊臣政権への参加により、国元では、国替えに奔走することになります。本拠は黒川城から岩出山城へ。ただの引っ越しではなく、家臣の知行替えも伴うものでした。しかし独立性を保っていた家臣たちがなかなか国替えに応じず、調整も骨が折れるものでした。

さらなる困難は、奥羽各地で発生した一揆です。
政宗も蒲生氏郷らとともに鎮圧に参加しています。この一揆の続発は豊臣政権にとっても予想外のものでした。そんな中、政宗の旧領で発生した葛西・大崎一揆は、政宗が裏で糸を引いているのではないかとささやかれ、政宗は弁明のために上洛します。
しかし、政宗に対して厳しい叱責はありませんでした。

このとき、政宗は自分のものとされる「花押に穴が開いていない」と弁明した逸話が有名です。残念ながら、話自体が江戸半ばに成立した軍記モノです。現在、発見された政宗の文書に、穴の開いている花押はありません。

「黄金でできた磔柱を担いだ」という話もありますが、話を盛っているのではないか、あったとしてもそれが政宗放免の決め手ではない、と思います。
この場面を大河ドラマ『独眼竜政宗』で見たとき、私はカッコイイなぁと感心はしたのですが、こうも考えました。『笑点』の大喜利じゃあるまいし、ノリと面白さで大名の処分を決めていいものか、と。つまり、ここで政宗を罰するのがよいか、それとも灸を据えてそのまま置く方がよいか、秀吉らも普通の政治的判断で吟味して、後者を選んだのではないでしょうか。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

 

「やったー、朝鮮に渡ったぞ、頑張るぞ!」って

天正20年(1592)、「唐入り(文禄・慶長の役)」が始まりました。前述の通り、このとき政宗は派手な装束で京都の人々を驚かせ、話題をさらいます。
特に、政宗の派手なファッションが話題となり、そのことが「伊達者」という言葉の語源であるという説もあります。が、正しくはありません。この言葉自体は政宗以前にもあるのです。

ただし、「田舎者とは思えないほどセンスいい物を持ってるじゃん」と他の大名に褒められたこともあります。朝鮮出兵前のパレードがかなり話題になり、京都の人々が大騒ぎして見物したのは事実です。現存する政宗の武具もセンスのよいものばかりです。

しかし、このときのド派手ファッションを秀吉に気に入られ、渡海せずに済んだ――というのは史実ではありません。

政宗は渡海しております。
しかも「やったー、朝鮮に渡ったぞ、頑張るぞ!」と浮かれている強烈な好奇心の持ち主です。
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