信長公記

弟・織田信行を誅殺だ~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第29話

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内憂外患どころか、ごく身近な家臣以外は敵ばかりだった――。
若き日の信長は、うっかり尾張の外に出ることもできない。

今回はその状況を打破するための、大きな楔を入れたお話です。

楔とは他でもありません。
弟・織田信行の粛清です。

 

織田信安と通じ、再び謀反を企てる

信長のすぐ下の弟・織田信行。
これまでもたびたび名前が出てきましたし、世間一般的にも「信長と敵対していた」ことは割と知られていますね。

19話ではついに信長と武力衝突し、なんとか赦免してもらっていましたが、彼はまだ織田家当主の座を諦めていませんでした。

そのために岩倉の織田信安と通じ、信長への謀反を再び企みます。

 

具体的には、竜泉寺(現・名古屋市守山区)を城に改造し、信長の直轄地である篠木三郷の土地を狙っていました。
ここは当時、実り豊かな土地として知られていたため、目をつけたようです。

信安を味方につけた安心感もあってか、信行は増長し始めます。
その最たるものが、男色相手の津々木蔵人を重用し、多くの侍をその配下にしたことでした。

「男色相手の扱いを間違えて主人が殺される」という話は珍しくありませんし、信長公記でもいくつか例が出ている=信行の身近でも起きていたことなのですが、頭からすっぽ抜けていたようですね……。

 

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悩んだ末、信長に訴えたのは勝家だった

この状況を嘆いていたのが、柴田勝家です。

勝家は、織田信秀(信長と信行の父)が生きていた頃から、信行につけられていた家老の一人。
当時は信長よりも信行の評判のほうが圧倒的に良かったので、勝家も誇りに思っていたでしょう。

それがこの有様ですから、どれほど落胆したか……。

柴田勝家/wikipediaより引用

勝家は悩んだ末、信行を見限り、信長に仕えることを選びました。
そして信長に、信行の行状と謀反の計画を打ち明けたのです。

信長はこの報を受けて、ついに弟を始末する算段をつけます。

方法は極めてシンプル。
病気になったことにして、しばらく外出しませんでした。

 

見事だった信長の計略

信長は毎日、朝晩に馬術の稽古をしていました。
温暖な時期には水練も欠かさず行っていた人です。

つまり、日頃は超健康体。
それが「外に出ないほどの重体」だと聞けば、誰しも尋常ではない病気を抱えたな……と思うところです。

信行にとっては、そのまま信長が死んでくれれば、計略や戦をせずに当主の座が転がり込んでくるわけで……その日が待ち遠しいところですよね。

勝家はこれが計略であることを知っていたでしょうけど、大多数の人間は気付かなかったでしょう。

なんせ信長と信行の母である土田御前もさすがに心配したほどで。

彼女が信行に
「日頃のことはさておき、血を分けた兄弟なのですから、一度お見舞いに行きなさい」
と勧めたのです。

信行もまだ謀反の支度が整っていないため、怪しまれないよう素直に従います。

これまた、似たようなことがすぐお隣の美濃で起きていたんですが(23話)、人って意外と「自分も同じような方法で陥れられるかもしれない」とは思わないんですね。

 

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手を下したのは河尻某と青貝某の二人

永禄元年(1558年)11月2日。
見舞いのため清州城へ出向いた信行は、果たして呆気なく殺されてしまいました。

信長の家臣である河尻某と青貝某の二人に、北櫓天守次の間で殺されたといいます。

信長公記には、
「勝家が後々越前を任されたのは、このときの忠節に報いたものだ」
と書かれていますので、密告以外にも、勝家が何らかの働きをしていたかもしれませんね。

この件について「弟を殺すなんて、信長はやっぱりひどい!」と思ってしまう人もおられますが、これまで信行がやらかしたことを考えると、当主である信長が始末するのも致し方ない面があります。

具体的に、信行が何をしていたかまとめますと……。

①信長の家督相続後、当主を騙って勝手に書類を発行
②弟である秀孝誤殺事件の際、ろくに事情も調べず守山城下を焼く(18話)
③稲生の戦い(19話)

稲生の戦いで信長一騎打ち!~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第19話

 

二年も経たないうちに一度ならず二度までも

こんな感じで、あまりに前科が濃厚すぎました。
少し詳しく見てみますと……。

①については信長公記であまり触れられてないところで、信長と信行は熱田などの利権を巡って、書類上でのバトルも繰り広げていました。
家督を継いだのは信長なので、否があるのは信行のほうです。

しかも、③の弘治二年(1556年)の稲生の戦いのときには、もう裏切らないと正式に謝罪しておりました。
にもかかわらず、二年も経たないうちにまた謀反を企んだのですから、もうこれ以上は許せない状況です。

ここでキッチリ処罰しておかないと、前28話・山口親子のように、外敵を引き入れる者や内通者が続出する危険性も否めません。

信長がただ単に信行のことを嫌っていたから始末した、というわけではないのです。

その証拠の一つが、信行の遺児である
・織田信澄
・織田信糺(のぶただ)
・織田信兼
の3名を養育したことでしょう。

 

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「人を活かす」「使えそうなら生かしておく」

信糺と信兼については記録が乏しいため不明点も多いです。
この三人は信長の嫡男・信忠とほぼ同世代と考えられ、おそらく当時3歳前後の幼児でした。

信長としても
「これぐらいの年齢からきちんと教育してやれば、やがて信忠に家督を譲った際、支えになる」
と考えていたのでしょう。

彼らがこの経緯を理解して
「信長様は自分たちを育ててくれた。この恩に報いるため、信忠様に精一杯仕えよう」
と考えれば御の字です。

逆に、
「信長め、命を助けて恩を着せたつもりか! 源頼朝のように、いつか兵を挙げて父の仇をとってやる!!」
と恨まれるリスクもあります。

正直、かなりの博打ですよね。

血縁というのは利害関係が厄介ですから、いったん反目に回れば可愛さ余って憎さ百倍となり、激しい憎悪のぶつかり合いになります。

ただ、基本的には味方のハズで、そうした判断からも
「人を活かす」
悪く言えば
「使えそうなら生かしておく」
という信長のポリシーが見てとれますね。

実際、この三兄弟は概ね真っ直ぐな道を歩み、特に信澄は信長に重んじられるようになりました。
それ故に悲劇が起こるのですが……その話はまた、だいぶ後で触れましょう。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典
現代語訳 信長 公記 (新人物文庫)(→amazon link)

 



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