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吉本興業の始まりとなった第二文芸館/wikipediaより引用

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わろてんか

吉本興業の歴史 何がどうスゴい? 明治時代から笑いと芸人を追求してきた創業者哲学

投稿日:

TVのバラエティ番組に出演する芸人は、なぜ吉本興業ばかりなのか?
賛否両論あれど、つまるところは彼らが「オモロイ」からでありましょう。

ではなぜ吉本ばかりに、オモロイ芸人が集うのか。

これも答えは明瞭で、明石家さんまやダウンタウン(文中敬称略)といった天才たちに憧れ、次世代の若者たちが引き寄せられるから――というのはもちろんその通りですが、そもそもこうした天才たちを輩出するのも同事務所が常に“伝統と革新”を重んじ、新しい笑いを提供してきたからかもしれません。

吉本新喜劇のようなコテコテ劇を提供する一方、NSC(芸人養成学校)を立ち上げ、ダウンタウンを見い出したことなど、その一端。
それこそ歴史の成せる業だと感じます。

同社の創業は約1世紀ほど遡り、1912年(明治45年)4月1日、大阪天満で産声を上げました。

当時は、江戸時代の落語全盛期から漫才(当初は万歳)へと移り変わる、お笑いの移行期。
数多ある落語の流派が廃れていく中、漫才に目をつけた吉本せいと林正之助が大阪の笑いを変え、その後も事務所の興隆を支えてきました。

ではなぜ彼女らにそんなコトができたのか。
戦前戦後を通じて、同事務所はいかなる経緯を辿ってきたのか。

本稿では、彼らの強さのヒミツに迫るべく、吉本興業の歴史を振り返ってみたいと思います。

※朝ドラ『わろてんか』のモデルになった創業者・吉本せいにつきましては、以下の記事にて詳細をご覧ください

わろてんかモデル・吉本せいの生涯60年をスッキリ解説!ここに吉本興業の歴史始まる

 

それは若夫妻の寄席小屋から始まった

1912年(明治45)4月1日。
大阪天満で「第二文芸館」(TOP画像)という寄席小屋が開かれました。

立地のせいか、何をしても客の入りが悪いというこの小屋を、吉本泰三(途中吉兵衛から改名してますが本稿は泰三で統一)と吉本せい夫妻が買い取ったのです。

若夫妻は借金をしてまで、この店を手に入れました。
というのも泰三は芸人に入れあげて道楽が過ぎ、家業の老舗商家を潰していたからです。

せいは夫にホトホトあきれ果てておりました。
しかし、商才はなくとも、これだけ芸能に興味があるなら、その嗅覚だけはあるかもしれない。
そんな藁にもすがる思いで金策をしてまで寄席小屋を買い、興行を開くことを勧めたのでした。

時代もよかったかもしれません。
明治維新以来、日本の演芸芸能は日進月歩で変わりつつありました。

例えばそれまでの演芸を挙げてみますと……。

・落語
・講談
・音曲
・娘義太夫
・手品
・三味線等の音曲
・曲芸
・俄(にわか、歌舞伎のパロディ)
・文楽

と、いかにも伝統芸能なラインナップに、以下のようなものが新たに加わります。

・自由党 角藤定憲の「壮士芝居」
・曾我廼家五郎の「喜劇」
・川上音二郎の「オッペケペー節」

 

ちなみに芸能で変化があったのは、お笑いだけではありません。

阪急グループの創始者・小林一三が始めた「宝塚少女歌劇団(宝塚歌劇団)」。
東京では「浅草オペラ」が、新たな日本の芸能として芽吹き始めていました。
また、技術革新によって加わった「活動写真」も、新たな娯楽として親しまれ始めました。

吉本夫妻が寄席小屋を始めたのは、まさにこうして新たな演芸が花開く時代であったのです。

宝塚歌劇団の歴史をスッキリ解説! 小林一三の魂はタカラジェンヌに引き継がれた

 

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「反対派」を集め、安くておもろいものをやる

吉本夫妻が寄席小屋を始める――。
と言っても、当時の人気落語家が、末端の小屋にそう易易と出演するわけもありません。

そこで夫妻が目を付けたのが「反対派」と呼ばれる芸人でした。

「反対派」というのは、落語と色物(落語以外の芸能)の主従を逆転させてしまった派です。
従来、落語がメインで色物は添え物。これを逆にしたというわけです。

当時は落語が一流という意識がありましたから「反対派」というのはどうしても格下扱いでした。

しかし、観客にそんな格は関係ありません。

「反対派」のほうが木戸賃(入場料)も安いし、面白い、とたちまち飛びついたのです。
格式や芸の世界の掟よりも、大衆の感覚を大事にするというのが、吉本の基本精神。

「安くてともかくおもろいもんをやる」
そんな芸を掲げた「反対派」と、格式にこだわらない吉本夫妻のニーズが一致したわけです。

木戸賃は「五銭」でした。
他の寄席の三分の一の価格で、きつねうどん一杯程度。
安くてバラエティに富み面白いということで、観客はたちまち「第二文芸館」に押し寄せました。

せいは、この寄席小屋で「お茶子」として働き出しました。
お茶子というのは、今でいうところの客席案内係のようなものです。

客との間にお茶子が尻を押し込んで、そこに座布団をさっと敷いて、そこに客を座らせる。
そんなふうにして、定員の二、三倍もの客をぎゅう詰めにしていったのです。
現代ならば消防法の関係で無理でしょう。

更にはこの頃、どうにも性に合わんと奉公先を辞めてしまったせいの弟・正之助がやって来ました。
フラフラしている弟を手伝わせてやろうという意図だったのでしょう。
後に彼は吉本を支える太い柱になります。

 

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「花月」のチェーン展開で大阪演芸界を席巻

寄席小屋を開いて一年。
ぼちぼち軌道に乗り、借金も返せるようになりました。
ここで満足しないのが、吉本夫妻の才能です。

彼らは寄席小屋をチェーン展開したいと考えました。

のちに吉本興業のライバルとなる「松竹」。
こちらは明治30年代に京都の劇場を次から次へと買い占め、さらに大阪へと進出してきました。
道頓堀でも劇場を買い占め、東京進出もうかがうという快進撃。吉本夫妻の脳裏に、この松竹のチェーン展開があったのかもしれません。

夫妻は買い取った寄席に「花月」という名をつけました。
占いの心得がある落語家がつけた名前で、現代に至るまで吉本興業の劇場につけられています。

さらに吉本は、はたから見ればえげつないと言いたくなるようなこともします。
「反対派」を立ち上げた岡田政太郎の急死後、吉本側はその権利を、息子に一万円の小切手を渡して買い取りました。
ところが岡田の息子は父の残したものを全て売り払うのも嫌で、芸人を引き連れて「反対派」を名乗り続けるのです。

「そういうことならしゃあない」
吉本では小切手を不渡りにし、「吉本花月連」という興業主として名乗りをあげてしまいました。
この一連の行動により、「反対派」は壊滅に追い込まれるのです。ただ、吉本側としては「権利は買い取ったはずやで」という言い分はあるのでしょう。

さらに「反対派」のライバルであった「三友派」の切り崩しにかかり、多くの「三友派」寄席小屋を買い占め。
返す刀で「三友派」の人気落語家・初代桂春団治を多額のギャラでヘッドハントしてしまうのです。

こうなるともはや「三友派」は、桶狭間の戦いのあとの今川家のようなもの。崩壊は秒読み段階でした。

かくして寄席を始めて十年で、大阪の演芸界を制覇してしまった吉本夫妻。
血こそ流れないものの、その深慮遠謀はまるで戦国武将さながら、本能寺の変のあとの豊臣秀吉のようです。

 

変革を迎えるお笑いの世界

飛ぶ鳥を落とす勢いの吉本。しかし彼らとて、動きを止めればライバルに追い抜かれる、そんな切羽詰まった状況でした。

演芸の世界は日進月歩です。
「宝塚少女歌劇」に対抗するため、「松竹」は活動写真、のちの映画に注力するようになりました。

一方、吉本としても今までのやり方ではやがて追い抜かれると考えます。

まずは給与体制の見直しです。
大勢の芸人を抱えるようになった吉本は、芸人を月給制で雇用することにしました。
芸人というのはギャラ頼りで、その日暮らしが基本。それが安定した経済状況になるのですから、ありがたいものではありました。

そして1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起こります。
未曾有の大地震は日本史に残る大災害ですが、吉本興業の歴史においても大きな意味があります。

林正之助は、このとき救援物資を大量に抱えて東京に向かいました。

ただの被災地への見舞いではありません。
東京の演芸界も大阪同様、革新の時期を迎えていました。だからといってそれで食い詰めた芸人が大阪まで来るかというと、そうではありません。
彼らはプライドが高く、そう簡単には応じないのです。

しかしこの非常時に、そんなことを言っているわけにはいきません。
そこで窮地の芸人たちに声を掛け、次から次へと大阪の吉本にまで呼び寄せました。
そうすることによって東京の市民にも、吉本の名を知らしめることができたのです。

そして1924年(大正13年)、同社にとっては更なる衝撃的な出来事が起こります。
泰三が39才という若さで急死したのです。

山崎豊子作『花のれん』やその映像化作品では、吉本興業は、ほとんどせいが一人で立ち上げたかのように描かれています。
しかし実際のところ、吉本せいは裏方のサポートに回っていました。

次から次へと大阪の芸能界を席巻するような手腕は、泰三あってのもの。彼の芸能に関する嗅覚、経営手腕は実際優れたものだったのです。

これから先、吉本の経営判断はせいの弟・正之助が担うことになります。
このとき正之助はまだ25才の若さ。
数年前までは無職でふらふらしていた青年が、関西の一大興行主となるのですから、そのプレッシャーは計り知れないものだったことでしょう。

 

万歳ブームの到来で更に勢いに乗るものの

大阪の寄席を席巻し、東京からも芸人を呼び寄せ、絶好調に見える吉本。
しかし、同時に「不良債権」も抱えていました。

大勢の落語家です。
春団治のような花形を除けば、その大半は鳴かず飛ばず。抱えているだけで赤字になってしまいます。
寄席の格式のためにも、ある程度、落語家は必要とはいえ、実際は持て余し気味だったのです。

また、泰三にかわって実質的な吉本のトップとなった正之助は、落語家と折り合いがよくありませんでした。

落語家からすれば、正之助はお笑いセンスがない若造。
自分を見下すような落語家をガツンと言わせたいという思いが、正之助に芽生えても仕方ないところです。

落語にかわる目玉のお笑いがいる——そこで正之助がまず目を付けたのが「安来節」。
「泥鰌すくい」と言ったほうが現代ではわかりやすいかもしれません。

 

これには女性バージョンもありまして。
素朴な化粧の娘さんたちが、腰巻きと白い臑をチラチラさせながら踊るセクシーダンスですね。

現代ですと「そんなもんの何が楽しいのかなあ」と思うかもしれませんが、そこそこヒットしたようです。

ただし、落語に取って代わる程ではありません。
そんな中、正之助が目を留めたのが「万歳」でした。

 

「万歳」というのは二人組で演じる日本の伝統芸能です。本来は、言祝ぎ(ことほぎ)の話芸として、祝いの席で行われていたものです。

その一方で万歳は自由度が高いものでした。
ありとあらゆる芸人が自分の得意分野をひっさげてアレンジし、披露することができたのです。

それゆえ万歳はたちまち日本に広がり、大阪神戸だけではなく東京にまで広まりました。

これからは万歳の時代だと確信した正之助は、次から次へと芸人をスカウトし、万歳部に呼び込みました。
日本中が昭和不況でわびしい中、吉本では格安の「十銭漫才」を興行して人気を博すのです。

万歳ブームには、ライバルの「松竹」も参入してきました。
吉本と松竹、関西の二大芸能興行主がタッグを組んで万歳大会を行うこともありました。

松竹側がこっそりと吉本の万歳芸人を引き抜こうとして正之助が激怒したこともあり、せいとしては、松竹相手に一歩もひかない正之助を見て大いに喜んだそうです。

しかし、だからと言ってこのままでいいのか。
実は、せいも正之助も、万歳の限界を感じ始めていたのです。

時は大正から昭和にうつり、世の中は変わりつつありました。

東京ではエノケンこと榎本健一が旗揚げ。
アメリカからはチャールストンやエログロナンセンスの流れが押し寄せる。

活動写真、レコード、ラジオ。
技術革新も起こっています。

そんな時代に、着物を着て扇子を持ち、俄口調で演じる万歳は古くさく思えます。
客層も落語と大して変わらない。

道ゆく紳士はスーツを着ているこの時代に、万歳というのはいかにも古くさいものであり、当時の日本人の生活に密着しているとは言いがたいものでした。
人気のあるはずの万歳が、急速に古びているように、せいと正之助には思えたのです。

流行に敏感な人たちからは、やがて飽きられてしまうだろう。
そんな危機感を抱えておりました。

 

昭和の「漫才」そしてラジオ放送に進出

間もなく吉本は、万歳の改革に取り組みました。
外国のコメディ映画のような、洗練されていて現代にふさわしいものにする。そのために英国製の三揃いのスーツを用意しました。

着るのは、横山エンタツと花菱アチャコ。

横山エンタツは、芸人として中国大陸、アメリカを巡業しながら、アメリカで手痛い失敗を食らって芸人を辞め、ヘアピン製造業に乗り出しておりました。
このエンタツを、文字通り三度自宅まで赴く「三顧の礼」で吉本へと招いたのです。アメリカ巡業で培ったセンスが欲しかったのでしょう。

一方でコンビを組むのは花菱アチャコ。彼は漫才芸人としてファン投票一位となるほどの人気でしたが、あっさりとコンビを解消させられ、エンタツと組むことになったのです。

洋服姿、歌も踊りもない、ただ喋るだけの「しゃべくり万歳」。
これぞまさしく笑いの革命でした。
というか、これはもう万歳ではないということで「漫才」と呼ばれるようになります。
現代漫才の原点と言えるでしょう。

さらに吉本は、新たな演芸の可能性と向き合わねばなりませんでした。

ラジオです。

未知のテクノロジーは、人々にとって脅威にうつるもの。
音楽家はコンサートから客が消えるのではないかと気を揉み、吉本も寄席に誰も寄り付かなくなるのでは?と懸念しておりました。

そんな最中、ある事件が起こります。
1930年(昭和5年)、売れっ子落語家の桂春団治が勝手にラジオに出てしまったのです。

吉本側は、放送したJOBK(NHK大阪放送局)にも、出演した春団治にも大激怒。
以降、彼らの寄席での春団治出演を禁じ、借金のあった春団治の家財道具を差し押さえてしまったのです。

吉本は怖い――。
今の芸人もそんな風に笑いにすることがありますが、もしかしたらこうした体質を言っているのかもしれません。

しかしこの騒動は、吉本もJOBKも春団治も折れて、丸く収まりました。
ラジオ出演を契機に春団治は更に人気が出て、寄席にも客が集ったのです。

更にJOBKは、エンタツアチャコの「早慶戦」をラジオ放送し、大評判をかっさらいます。

エンタツアチャコの「早慶戦」/NHKアーカイブスで閲覧できます

 

1932年(昭和7年)、「吉本興業部」は「吉本興業合名会社」に改称しました。
このころになると落語は完全に落ち目になり、万歳にとってかわられるように。それに従って、落語家と万歳師の対立も起こります。

しかし万歳にしても、元のものから大きく変わっており、そのため「漫才」の字が宛てられるようになります。東京にも進出し、全国的な人気となりました。

1934年(昭和9)に花形落語家の初代・桂春団治が没すると、いったん吉本と落語の縁は切れてしまうことになります。

林正之助はのちに、こう語りました。
「大阪落語を滅ぼしたのは、この私です」
吉本にとって、落語はもはや重要なものではなくなっていたのです。

 

大衆のニーズに応えて、映画に雑誌に吉本ショウ

吉本は常に大衆のニーズにこたえるのが身上。

映画が流行すれば映画に芸人を出す。
雑誌が必要となれば雑誌を発刊する。
それが吉本でした(現在の雑誌はマンスリーよしもと)。

1930年(昭和9年)にはアメリカから「マーカス・ショー」を招聘し、大評判を呼びました。
さらに吉本は、宝塚少女歌劇団の「レビュー」が人気となるや、

 

「吉本ショウ」を始めるのですから節操ありません。
しかし、歌えて踊れてギャグもできる芸人たちのショウは意外にも大評判となりました。

まさに飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことながら、1931年(昭和10年)、吉本興業の産みの親・吉本せいは、「辻坂事件」という脱税疑獄に巻き込まれ、病に臥せります。
そのため彼女は隠退し、37才の正之助がトップに君臨することとなるのでした。

 

芸人たちも次々に戦地へ送られる

1939年(昭和14年)、日本が戦争へと向かい、列島に暗雲立ち込める最中、吉本にも危機が訪れます。
売れっ子芸人のミスワカナ・玉松一郎が、松竹系列の新興キネマ部に突然移籍したのです。

このころ関西映画界は、熾烈な争いを繰り広げておりました。
松竹にとって最大のライバル・東宝が、吉本から林正之助を役員に迎えるという話があったのです。
東宝は、あの宝塚少女歌劇団の創設者でもあり、才知あふれる小林一三ですから、東宝と吉本が組むとあれば、松竹にとってはおそろしい話です。

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そこで先手を打って、吉本から売れっ子芸人を引き抜こうとしたのです。

もともとミスワカナ・玉松一郎側は、契約問題で色々と不満が鬱積したようですが、この一件によって吉本側も彼らの映画『お伊勢参り』を上映中止に追い込むなど、容赦ない態度を取ります。
吉本VS新興――。
マスコミはこのドロドロとした芸能界の争いに飛びつき、吉本も芸人の待遇改善を迫られました。

しかし時代は、彼らの争いなど些末なことにも思えるほど、暗い方へ動き始めていました。

戦時下でお笑いどころではない1943年(昭和18年)。
その年の一月、新世界で火災が起き、吉本の劇場・花月、更には、せいが買い取っていた通天閣まで焼け落ちました。
せいは通天閣の復興をあきらめ、資材を軍部に提供します。

吉本の芸人たちも、次から次へと兵士として戦場に引っ張られてゆきました。

かつてはエンタツアチャコやミスワカナ・玉松一郎を軍隊慰問に行かせ、宣伝に利用していた吉本。
しかし、今やそれどころではありません。
正之助自身もいつ徴兵されるかと怯える日々でした。

1944年(昭和19年)になると、「決戦非常措置要綱」が閣議決定されます。
非常時だから国民生活を制限するというもので、その中にはこんな一項目も……。

「高給享楽の停止」

戦争中にお笑いなんてもってのほかということで、全国各地の劇場が封鎖されました。
もちろん吉本も例外ではありません。
舞台に立つ芸人も、芸人が立つ舞台も、もはや何も残されていない空っぽの劇場。
空襲にも容赦なく襲われ、ほとんどが焼き尽くされました。

火の海と化した大阪では、劇場どころではなく、行き場を求めて人々が逃げ惑います。
とてもお笑いどころじゃありませんでした。

 

吉本がお笑いを捨てる!?

1945年(昭和20年)、日本は敗戦を迎えました。

しかし、大阪には劇場どころか食料もありません。
この状況でどうやって人を笑わせるのか。

正之助は、戦地から復員してきた芸人に吉本解散を言い渡します。
どうしても去ろうとしないアチャコだけを残し、他は皆四散してしまいました。
大阪の焼け跡に寄席を復活させたのは、ライバルである松竹でした。

これを見て思うところがあったのでしょうか。
敗戦後一年を経て1946年(昭和21年)、正之助は千日前グランド劇場を再開させます。
続けて梅田と新世界にもグランド劇場ができました。

ただし、ここで行われたのは映画の上映です(京都のグランドは進駐軍向けキャバレー)。

正之助は、これからは映画の時代であり、配給でいこうと考えていたのです。
彼は1947年(昭和22)には東宝株式会社の取締役におさまり、ますます映画に注力するようになりました。

そして1948年(昭和23年)、吉本は株式会社に上場し、1950年(昭和25年)には、最大の功労者である吉本せいが世を去ります。
笑いを捨てた吉本興業を、彼女はどう思っていたのでしょう。

 

「花のれん」の復活と吉本新喜劇

笑いを捨て、映画だけにしぼった吉本。演芸ブームが起こっても、ライバル松竹が笑いを席巻しても、手を出すことはありませんでした。
しかし、時の流れは速いものです。すぐに映画すら脅かしかねない技術が誕生しました。

テレビです。

この状況に危機感を抱いたのは、吉本の八田竹男でした。
「このまま映画だけに絞っていたらあかん」
と、笑いの復活と、テレビとの連携を訴えるのです。

正之助としては、戦後芸人を手放した苦い経験もあります。
同時に、映画だけでうまくいっているのだから、という思いもありました。

しかし、八田の熱意に押され、もう一度お笑いをやることを決意します。

思うが早いが梅田グランドを改装して「うめだ花月」をオープン。
吉本興業の“紋”である花菱を描いた「花のれん」が復活を遂げました。

八田の思いは、他のライバルに対抗することではなく、まったく新しい笑いを、テレビを通してお茶の間に届けること。
ライバルの松竹が義理人情を重視した演芸であるのに対して、若者を狙ったナンセンスな笑いを作り出すことにしました。

それこそが今ではコテコテと称される「吉本新喜劇」の誕生です。

八田の読みは当たりました。
テレビは新世代の娯楽として、日本人にすっかり定着したのでした。

 

苦難の時代と笑いの王者へ

勢いにのった吉本は演芸場の「花月」を復活させるのですが、危機が訪れます。
1963年(昭和38年)、正之助が病に倒れてしまったのです。

この後を受けて東京にいた弟の弘高が社長に就任しますが、今度は1966年(昭和41年)に弘高が病に倒れ、正之助が復帰することになります。
実はこの頃の吉本は、低迷期でした。

復活の契機は1967年(昭和42年)、テレビではなく、深夜ラジオでした。
パーソナリティを務める若手落語家・三代目笑福亭仁鶴が、若者中心に大人気を博したのです。
更には桂三枝(現在の文枝)もラジオで人気に火が付き、この二人に加えて横山やすし・西川きよし(やすきよ)の漫才コンビが吉本の人気御三家となり、にわかに吉本全体が上向きになります。

1980年(昭和55年)には「漫才ブーム」も到来しました。
今の若い方たちにとってかろうじて馴染みがあるのは「ビートたけし」のツービートぐらいかもしれませんが、吉本興業でもオール阪神・巨人やB&B(ただし事務所を転々)、西川のりお・上方よしお、島田紳助・松本竜介など数多の人気芸人を抱え、売り上げはぐいぐいと伸びてゆきます。

ただしブームは僅か二年ほどで終焉。
その反動でしょうか、漫才そのものの人気にも翳りが見え始めます。
そこでめげるどころか新たな笑いを模索し、実現してしまうのが吉本の吉本たる所以なのでしょう。

1982年(昭和57年)、その後の大改革となる「吉本総合芸能学院」(NSC)を大阪に開校するのでした。

師匠に弟子入りせず、若い世代のセンスを伸ばす――。
そんなスタイルが受け入れられて、一期生の中からダウンタウンやトミーズ、ハイヒールが出てきたことは周知のところでしょう。
この革新的な養成所ブームは、今や他のお笑い事務所でも当たり前となり、吉本以外からも多くの若手芸人が輩出されるようになっております※吉本も1995年(平成7年)に東京で開校。

しかし、今後、どんな新しいお笑いが出てくるのか。
となると、恥ずかしながら筆者の知見では想像すらつきません。

それは漫才ブームの頃に人気となったベテラン芸人を見れば一目瞭然かもしれません。
正月などの特番で、たまに彼らの話芸をテレビで見かけても、腹の底から『面白い!』と笑える方は、失礼ながら少ないでしょう。

定番のギャグやダジャレ、上手いコトを言うなどして、ご年配の芸人さんがニコニコと笑顔を浮かべ、これで漫才ブームの頃はみんながゲラゲラ笑っていた。
しかし、今それを見せられても、多くの人は“意外さ”を感じられない――要はツマラナイ。
特にアラフォー世代から下はその傾向が顕著で、ほぼ全員がダウンタウン以来の笑いに影響を受けすぎていて、それがスタンダードになっています。

そんな状況で、次に新しい笑いなんて生まれてくるのでしょうか。

いや、それでもやってしまうのが吉本なのでしょう。
それこそが“伝統と革新”を歴史に持つ、彼らの強みかもしれません。

文・小檜山青

【参考文献】

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【参考サイト】
吉本興行ヒストリー

 





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吉本せい波乱の一生


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◆長州藩 木戸孝允 木戸松子 高杉晋作 山県有朋


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