会津恵日寺焼き討ち事件

伊達政宗/wikipediaより引用

蘆名家

政宗の会津恵日寺焼き討ち事件~絶対に焼いてはイケない寺を焼いた!

戦国大名といえば、戦乱ドタバタの中で寺社を焼いてしまう&宗教と対立する――そんなイメージがあるものです。

織田信長の比叡山しかり(※誇張があるようですが)。

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松永久秀の大仏殿しかり(※完全に冤罪ですが)。

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一向一揆の討伐しかり(※長島や三河が有名ですね)。

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そういったイメージがあまり無い伊達政宗にも、同様の歴史があったのです。

ただし、政宗の場合は、他の武将と違って、本人が調子に乗っていたきらいがあり、

『嗚呼、なんてコトしてくれてんだよ……』

と目を覆いたくなるような顛末になってしまいます。

天正17年(1589年)6月5日に勃発した【摺上原の戦い】で蘆名に大勝すると、

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その勢いで会津の恵日寺(えにちじ)という寺を焼いてしまったのです。

百歩譲って他の寺は良しとしても(もちろん良くはありませんが)、恵日寺だけは手を出したらアカン!

そんな場所で、なぜそんなことに?

恵日寺の歴史と政宗のやらかしを遡ってみましょう。

 

最澄 vs 徳一の「三一権実諍論」

空海と最澄といえば、日本史の授業でもおなじみの存在ですよね。

そんな彼らに対抗した、平安初期仏教・第三の男をご存知ですか?

その名は“徳一(とくいつ)”。

9世紀初頭、名だたる僧侶たちと熱い論争を繰り広げていた法相宗の高僧です。

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当時、奈良の法相宗は、唐帰りの最澄がもたらした天台教学に完全に駆逐されていました。

「法相宗はじめ南都仏教は旧仏教で時代遅れ、もうおしまいになるよ♪」

なんて言われて黙ってられんわ!

と、奈良の僧侶たちが望みを託したのが、東大寺や興福寺で修行を積んだ徳一だったのです。

最澄vs徳一、両者の対決を

『三一権実諍論』
さんいちごんじつ の そうろん

と言います。

知名度から言って、最澄が一蹴した圧勝に思われますか?

いえいえ。この論争、実に数年、一説によれば12年も続いているのです。

論旨を短くまとめると、こんなところ。

最澄:人は誰でも仏になれます。

徳一:いや、資質があるでしょ。そんなに簡単に仏になれるなら、苦しい修行は無意味じゃありませんか。

かくしてお互いが書物に記して議論を行っていたのですが、問題は、二人の距離。

実はこの徳一、会津の恵日寺にいました。

ご存知、最澄は比叡山での修行をもとに延暦寺を開いた僧侶ですから、普段は京都のすぐお隣、近江にいる。

それでも互いに譲れない性格であったようで、激しく宗論が交わされたんですね。

 

空海は華麗にスルー

では、最澄よりも柔軟な空海の場合はどうだったか?

徳一が議論をふっかけて『真言宗未決文』を送ると、これをおだてつつ無視するという高度な戦術を取るのです。

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さすが天才児・空海さんですね。

「すごいっ、徳一菩薩!」

そうおだてつつ、論争を受けて立たずにスルーするんです。

この論争ですが、いずれも徳一が敗北しています。

彼が論理破綻していたから敗ればのではありません。

・弟子がいない

・彼の思想の後継者がおらず、著作も散逸してしまった

・恵日寺が地方の一寺院であるため、どうしても知名度や力で劣る

彼が奈良にいれば周囲のバックアップも強力ですし、そう簡単に負けることもなかったでしょう。

なれば、こんな疑問が湧いてきませんか?

「なぜ徳一は、都から遠く離れた会津などに恵日寺を建立したんだ?」

答えは【被災地復興】です。

 

磐梯山の水蒸気爆発で被災した

ときは807年(大同2年)。

徳一は会津で布教をしておりました。

その理由は806年の【磐梯山噴火】です。

磐梯山

磐梯山は水蒸気爆発による噴火を起こし、山体崩落を伴い、近隣エリアに大規模な被害を与えたのです。

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同山では、1888年の噴火が有名ですが、それまでの記録が少ないだけで、807年にもおそるべき被害があった爪痕が残されています。

実際、磐梯山近辺には、大きな岩が多数残されています。

◆磐梯山ジオパーク(→link

そんな被災地に、仏教の教えで安寧をもたらしたいと考えたのが徳一でした。

僧侶だけに当たり前だと指摘されるかもしれませんが、頭脳明晰な高僧であれば京周辺での活動も可能だったはず。

そうではなく遠い被災地を選んだ徳一、まさに人格者と言っていいでしょう。

彼が開いた恵日寺は、会津地方において僧や修験者が信仰を守る、民たちの心情的にも大切な場所となっていたのです。

そう。

そんな大事なお寺を、前述の通り伊達政宗は焼き払ってしまったんですね……。

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恵日寺の歴史は、なかなか波乱万丈です。

◆天正17年(1589年)「摺上原の戦い」に勝利した伊達勢が会津へ侵入。近くにあった恵日寺も炎上する。金堂を残して全焼失

◆寛永3年(1626年)金堂焼失。再建されたものの、かつての勢いはない

◆明治2年(1869年)廃仏毀釈によって廃寺

政宗に焼かれただけでなく、明治時代にも廃寺とされています(1904年に復興)。

復元された恵日寺金堂/photo by Qwert1234 wikipediaより引用

ともかく「被災者救済」という寺の成り立ちや、最澄や空海と並ぶ徳一の功績を考えれば

――絶対に焼いてはいけない寺だった――

という主張もご理解いただけるでしょう。

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