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和宮(港区HPより)

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その日、歴史が動いた 幕末・維新

ロマンスの神様、あの世で二人を結ばせて!政略結婚でもラブラブだった和宮&徳川家茂

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最近ブッ飛んだ女性の話が続いたので、今日はおしとやかな方の逸話をご紹介しましょう。
明治10年(1877)の9月2日、14代将軍・徳川家茂(いえもち)に降嫁した皇女・和宮(かずのみや)がこの世を去りました。
大河ドラマ「篤姫」で堀北真希さんが演じていた方ですね。
家茂が亡くなってからは「静寛院宮(せいかんいんのみや)」というお名前でしたが、以下和宮で統一します。

 

幕府と朝廷の橋渡しのために嫁いだ和宮

和宮は幕府と朝廷の橋渡しとして徳川家に嫁ぎました。
このとき既に皇族の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや・たるひとしんのう)と婚約していたのですが、兄である孝明天皇の説得により泣く泣く降嫁を受け入れたそうです。

このときの孝明天皇、なかなかスゴイことを言っています。
「お前が嫌って言うなら仕方ないけど、お前以外だと去年生まれたばかりの私の娘を嫁がせないといけない。幕府がそれでいいって言えばそうするし、もしダメってことになったら私は責任を取って譲位する。お前も尼になってもらわないと筋が通らない」
という、出家するか?嫁ぐか?という究極の二択を迫ったのです。(かってにお兄ちゃんが譲位して上皇になればいいじゃん、とも思いますが)

既にペリー来航によって(朝廷に断りなく)日米修好通商条約が結ばれており、それを許すのと引き換えに攘夷を約束させた孝明天皇としては、どうしても和宮に行ってもらわなければなりませんでした。天皇にとっても「譲位」か「攘夷」かの二択中だったのですね。

皇室という尊い血筋と環境で育った和宮にとって、将軍とはいえ武家という野蛮にも思えるところへ嫁ぐのは本当に嫌だったのでしょう。
自分で直接宮廷へ行って拒否していたくらいですからね。

「日本のためですから、嫁ぐのは仕方ありません。でも、江戸に行ったからといって生活習慣を変えるのは嫌です」と言って、いろいろ条件を出しています。
御所から女官を連れて行くことや、何かあれば伯父の橋本実麗(はしもとさねあきら)に来てもらうようにはからうことなどを幕府に認めさせています。

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会ってみたら誰よりも貴族っぽかった将軍さま

さて、こうしてイヤイヤながらに嫁いだ和宮でしたが、意外に夫婦仲は円満だったのではないか?とも言われています。
家茂は「オレは将軍様だ!」という人ではなく、とても優しい人でした。
江戸時代も何百年もたつと、当時の殿様の写真を見れば分かるように、すっかり「公家」化していました。

和宮の出した条件を全てのみ、それ以外にも非常に気を使って接していたエピソードが伝わっています。
歴代の将軍では、結婚後正室とほとんど会わないという人もいましたが、家茂はたびたび贈り物をしたりや手紙を書いて、できるだけ夫婦らしくいたいという気持ちを示したのです。
現代の夫婦のようにいつも同じところで寝起きしているわけではないですから、それも立派な心遣い。
なんだか源氏物語のような話で、とてもロマンチックですね。

徳川家茂/wikipediaより引用

しかし、家茂は20歳という若さで亡くなってしまいます。
ここらの事情はちょっとややこしいのですが、簡単にまとめるとこんな感じです。

「公武合体なんてとんでもない!攘夷しましょうぜ!」と言ったら政治からハブられた長州藩の人々

「会津の松平容保とかやっつければうまくいくんじゃね?」と京都市街を巻き込んで戦闘(禁門の変=蛤御門の変)

よりによってうっかり御所に発砲してしまったため、朝廷から『お前らは天皇の敵だ!』と断定される(長州藩、朝敵に)

討伐のため将軍と幕府に『やっつけてこい』命令が下り、家茂軍を率いて上洛

というわけで家茂は上洛していたのですが、元々丈夫な質ではなかったためか、それともストレスのせいで悪化したのか、大坂城で息を引き取ってしまうのです。

これには幕府も朝廷も大奥も大慌て。
江戸を出るときには元気だったそうですし、将軍になってたった8年。
和宮と結婚してからはわずか4年でした。
家茂は3回上洛しているので、その期間を別とすると、二人一緒に江戸で過ごしたのはもっと短くなります。
ここを考えると、この後のエピソードは二人の仲のよさをうかがわせるものばかり。

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最期まで夫の遺影を胸に?

例えば、京のお土産の話。
最後となる上洛の前、家茂は「京都に行くから、あなたの好きなものを土産にしたいと思う。何がいいですか」と尋ねたそうです。
これに和宮は「では、西陣織をお願いいたします」と答えるのですが、家茂の訃報や遺品と一緒にきっちり西陣織が届いたと言うのです。
家茂だって仕事で行くのですから、そうそうぶらつくこともできません。
(例え実際に買いに行ったのは家臣の誰かだとしても)家茂はきちんと約束を守ったのです。

これを見て和宮は歌を詠みました。
「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」
(西陣織を届けてくれたのはうれしいけれど、この綺麗な着物も、貴方がいなければ何の意味があるでしょう)

「三瀬川 世にしがらみの なかりせば 君諸共に 渡たらしものを」
(立場や影響のしがらみがなければ、あなたのお供をして三途の川を渡りたい)

など、和宮も家茂を大切に思っていたことがよくわかります。
その後この西陣織は増上寺に奉納され、袈裟として生まれ変わりました。
増上寺は将軍家の墓所ですから、家茂もここに眠ることになると見越して「この着物を私だと思ってください」という気持ちでいたのかもしれません。

そして家茂の逝去から11年後、和宮も31歳の若さで世を去ります。
遺言は「家茂の側に葬ってほしい」というもの。
時間が経っても、夫のことを健気に思い続けていたのでしょうね。
このため、葬儀も将軍家と同じ仏式で執り行われ、和宮の希望通り家茂の隣にお墓が作られました。

写真に写っていた男性は、烏帽子と直垂(ひたたれ)を身に着けていた

そして時は流れ、1950年代ごろのこと。
増上寺の徳川家墓所が再開発のため移転されることになり、同時に和宮を含めた歴代将軍家に連なる人々の遺骨調査が行われました。
そのとき、和宮は一枚の写真を抱くようにして葬られていたそうです。
写真に写っていたのは、烏帽子と直垂(ひたたれ)を身に着けた若い男性だったとか。
その後の取り扱いが悪かったため、この写真は現存していません。
太陽光で画像が消えてしまったそうです。

検証する間もなく消えてしまったため、この人物が誰だったのかは今も謎のまま。
でも、烏帽子はともかく、直垂は武家の衣装です。
しかも当時貴重だった写真を撮れるような身分の人で、和宮がずっと持っていた……ということは、当てはまる人は家茂しかいないようにも考えられます。

若くして政争に巻き込まれ、夭折した二人。
せめてあの世で幸せに過ごしていたらいいですね。

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参考:
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/09/post_8631.html
http://ameblo.jp/hoshusaisei/entry-10602692094.html

 





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