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ビスマルク(Wikipediaより)

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その日、歴史が動いた

なぜ「鉄血」と呼ばれたか? ドイツ・ビスマルクの宰相伝説スタート【その日、歴史が動いた】

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現在、世界には200以上の国があります。

その中でも日本と縁の深い国といえばご近所のアジア圏、実は近いロシア、ドンパチやりあった海の向こう側、かつての同盟相手イギリスなど、時代も関わってきた理由もいろいろ。
国交のきっかけができたタイミングで大きく分けると江戸時代以前と明治以降ということになってきますが、今日明日は後者の中でも特に関係の深いあの国のお話です。

1871年(日本では明治三年)の3月21日、オットー・フォン・ビスマルクがドイツ帝国宰相に就任しました。

ビスマルク(Wikipediaより)

ビスマルク(Wikipediaより)

日本史世界史問わず「暗記第一!」(テスト終わったら忘れてもいいけど)の日本の歴史教育の中でも、この人の名前は覚えているという方は結構多いのではないでしょうか。
なにせ「鉄血宰相」なんてゴロと語感のいい二つ名がついていますし、やってたこともまさにこの言葉通りですからね。

某大作RPGではなぜか鯨にされていましたが、ドイツの戦艦に「ビスマルク」と名付けられたものが複数あるのでそこからでしょうか。

一言でいうと「(神聖ローマ時代から地方領主が独自カラーを出していたため)ちっともまとまりそうになかったドイツ一帯をまとめるためにアレコレやった人」です。
しかも国内が完全にまとまる前から対外戦争に勝っちゃうんですから、並みの頭脳でないことは確かでしょう。

しかしてビスマルク個人はといえば、案外人間くさいというか宰相=文官らしくない特徴をいくつも持っていました。

ガタイも鉄血!

例えば体格。
ビスマルクは190cm・120kgもの巨漢でしたが、上述の通り軍人ではなく文官です。
元々がユンカー(地方貴族)の出身であること、ドイツ全体が民族的に体格が良くなりやすいというのが相乗されてこのガタイになったのでしょうね。

これは周囲からもツッコミどころに移ったようで、国王・ヴィルヘルム1世から「君はなぜその恵まれた体を持っていながら、軍人にならないのかね」と聞かれたことがあったそうです。これに対しビスマルクは「私は軍で昇進する見込みがありませんので」と答えたとか。
本当にこう思っていたのか、エラくなるためには文官の方がやりやすいと思っていたのか、自分が戦争に行くのはイヤだったのか、真意はわかりませんが。全部だったりして。

体格がいいからか、大食漢としても有名だったそうです。
「一度の食事で卵を15個食べた」「(同様に)牡蠣を175個食べた」などなど、今だったら確実にギネスに乗るレベルの食欲+酒豪という体に悪い食生活をしていたとか。
その割に83歳まで長生きしてますので、エネルギーやらコレステロールやらは代謝できていたんでしょうね。ますます軍人にならなかったのが不思議でなりません。こんなのと戦えって言われたら敵軍に同情するわ。
それともドイツの方の基準だと特筆すべきことでもないんでしょうか、教えてエ□い人。

この他にも逸話に事欠かない人なのですが、そろそろ宰相としての話をしましょうか。

ビスマルクは青年時代から、徹頭徹尾合理主義かつ現実主義の持ち主でした。
彼は「民族的にはドイツ人だけど地理的にはドイツというより北ポーランド」だったプロイセンの出身だったので、ドイツの他の地方の人々を極めて客観的に見ていたものと思われます。神聖ローマ帝国の轍を踏むまいということも念頭にあったのでしょう。

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統一問題は【鉄と血】によってのみ解決される!

例の鉄血演説は、ものすごく端折って言うと「ドイツがまとまるためには、我がプロイセンが先頭に立ち武力を持って統一を図るべきだ」と主張したものです。末尾が「ドイツ統一問題は(演説や多数決などの話し合いではなく)鉄と血によってのみ解決される」だったことから”鉄血宰相”及び”鉄血演説”の名がつきました。

これだけ聞くと「言うこと聞かないヤツは殴って従わせようぜ!」とも取れますが、それではあのややこしいにも程がある三十年戦争の二の舞です。フランス革命の余波が(フランス以外は)ようやく収まり始めたこの時期のヨーロッパでそんなことをしていれば、統一するどころか四方八方の隣国に分割されてしまうでしょう。

ですから、ビスマルクの本意は別のところにありました。
どこに武力を向けたかというと、他国との領土問題です。

しかも、ビスマルクはケンカの売り方と終わらせ方が非常に上手でした。
この類の戦争を違う相手と計三回やっているのですが、三回とも勝利を収め、狙った通りの成果を上げています。文字で言うと簡単ですけども、これは並大抵の手腕でできることではありません。正義より実利を掲げたほうが戦争はうまく行くんでしょうね。

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ドイツとは切っても切れないオーストリア 

もうひとつ、この時期(今も)のドイツ諸国とプロイセンにとって切っても切れないのがオーストリアとの関係です。

かつては神聖ローマ皇帝を出していた国ですし、民族的にも近く、プロイセンよりずっと歴史が長いので、オーストリア側からすれば「ウチが中心になって新しいドイツを作るべきなのに、あの新参者何してくれちゃってんの?」ってな状態でした。

18世紀には2回ドンパチもやってましたので、元々友好関係とは言いがたかったのもありますが。
ビスマルクは戦争ついでに対オーストリア関係も片付けてしまおうと画策しています。

それでは、三回の戦争をいつも通りざっくり見ていきましょう。

その1:デンマーク戦争(1864年)

デンマークとの国境でややこしいことになっていた、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国というところを分捕るためにケンカを売りました。

かつて「フリードリヒ2世(18世紀のプロイセン王)が好きなので戦争やめます!!」とほざいて自滅したロシア皇帝・ピョートル3世の出身地ですね。(過去記事:実母にも嫁にも国からも見捨てられた ドイツかぶれのロシア国王【その日、歴史が動いた】)

元々プロイセンのほうが戦争には強いのであっさり勝利。

2:普墺戦争(1866年、同時進行:イタリア独立戦争)

デンマーク戦争後のアレコレを巡ってオーストリアと対立が深まり、これをきっかけに開戦。
先日ご紹介したイタリア独立戦争でプロイセン・イタリアが同盟を結んだのもこのときです。(過去記事:19世紀までバラバラだったイタリア【その日、歴史が動いた】

2ヶ月もかからずに終わってしまったため、「7週間戦争」とも呼ばれます。もちろん勝ったのはプロイセンでした。

ビスマルク風刺画

ライオンをナポレオン三世、ビスマルクを羊飼いに喩えた普墺戦争後の風刺画/wikipediaより引用

この二国で戦争すると必ずプロイセンが勝ってたというのが何ともいえません。ほぼ同じ民族なのに何でこんなに連勝と連敗がはっきり分かれるんですかねえ。
中国みたいに別の民族ならわかるんですけども。(漢民族vsモンゴル民族とかvs女真族とか)

これによって、上記のシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国はもちろん、ドイツの中でもオーストリアについた国(ハノーファーとかヘッセンとか)がプロイセンに併合されることになりました。
後者はそれまで独立した国で、独自の王様もいたのですが、この併合によって廃止されています。

3:普仏戦争(1870年)

最後はナポレオン率いるフランス帝国との戦争です。といっても「余の辞書に不可能の文字はない」って言った(ことになっている)ほうではなくて、甥っ子のほう=ナポレオン3世ですが。

それでもフランスは長らくヨーロッパの大国でしたし、ドイツにとってはフランク王国時代(この時点からだいたい1000年前)から領地を取り合っていた相手ですから、ビスマルクがカタをつけたかったのは当然といえましょう。

しかし、潜在的な遺恨はあってもこの時点でフランスとの間に直接いざこざはなかったので、ビスマルクはその火種から作ることにしました。これだけ立て続けに戦争やっててよくそんなに頭が回るものです。

ビスマルクは当時内紛で空位になってしまったスペイン王の座に目をつけ、「ウチの王族様がスペインに行って、王様になっていただけばいいですよね!皆さんそう思いますよね!ね!?(チラッチラッ」とあからさまな挑発をし始めました。
日本人からすると「何でよその王様のことを勝手に決めようとするの?」と不思議に思えますが、これはヨーロッパの王族同士があっちこっちで血が繋がっていることによる日常茶飯事ですので、あまり深い意味はありません。
今でもイギリスの王位継承権をデンマークとかスウェーデンの王様が持ってたりします。百位以下なのでまずありえないですけどね。

しかしスペインとプロイセンの王様が同じ家の人になってしまうと、フランスはサンドイッチされてしまうことになるので笑うに笑えません。実は同じことを一回ハプスブルク家にやられてますので、「二度とあんな目にあってたまるか!」というわけです。

そのため、ナポレオン3世は見え透いた挑発に乗らざるを得ませんでした。いくら1世より見劣りするからって全くわかってなかったってことはないでしょう……多分。

結果は例によってプロイセンの勝利……どころか、ナポレオン3世(※皇帝)が捕虜にされたうえ、パリの陥落というフランスにとっては悪夢以外の何物でもない結末になりました。あーあ。

もちろんビスマルクがそれだけで勘弁するわけはなく、フランク王国分割以来の係争地だったエルザス=ロートリンゲン(現フランス領・アルザスとロレーヌ)+50億フランという多額の賠償金(ケタが大きすぎて換算する気にもならない)もガッツリ奪い取りました。

 

こうしてビスマルクは着々とドイツ統一への道筋をつけていったのです。

いよいよ盛り上がってきたところですが、このままだと当コーナー最長記事がドイツの話になってしまいますので、統一と首相就任の話はまた明日ということで。

 

長月七紀・記

 

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