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足利義詮像/Wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 その日、歴史が動いた

足利義詮の生涯38年マトメ! 室町幕府の二代目将軍は地味だけど意外に有能?

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いつの時代も、目立つ人がいれば目立たない人もいます。
歴史で言えば、だいたい目立つほうは何かを初めてやった人だとか、後世にデカイ影響を与えた人で、それを受け継いだ人については甚だ軽視されていることが多いですよね。
我が国においては、将軍家にそういう特徴がよく見えるかなぁということで……。

今回は室町幕府の二代将軍・足利義詮(よしあきら)について見てみましょう。

たぶん今、9割8分の方が「誰?」と思ったんじゃないでしょうか。残り1分が名字で予測のついた方、最後の1分がこの人をご存知の方といった割合ではないかと思います。

学校の授業では、「室町幕府の将軍は尊氏義満義政・義詮だけ覚えておけばいい」みたいな扱いですしね。
順番でいうと初代・三代・八代・十五代ですから、義詮だけがすっ飛ばされた感がより強まりますね。

でも、やっていることを見ると「実はコレすごくね?」ということが多い人だったりします。
同時に影が薄い理由もわかります。

前置きが長くなりましたがそろそろ彼の人生を追いかけてみましょう。

 

実は二人の兄がいた

義詮は長男ではありません。
が、正室・赤橋登子の子供だったため、最初から嫡男(跡継ぎ)として扱われました。

登子の曾祖父が鎌倉幕府六代執権・北条長時ですので、義詮には北条氏の血も入っていることになります。

もっというと、室町幕府の将軍は全員、義詮の子孫ですので、
「室町幕府の将軍は全員、北条氏の女系子孫である」
とみることもできます。

ちなみに「義詮の異母兄かつ尊氏の長庶子」という立場の人は二人います。

一人は足利竹若丸。
側室生まれとはいえ、母親は足利氏の一族出身でしたので、順調に行けば義詮の側近や、それに準じる立場になっていたでしょう。

長庶子という難しい立ち位置のためか、尊氏の手元ではなく、伊豆山神社(静岡県熱海市)にいたといわれています。
そして鎌倉幕府打倒の戦いの中で、尊氏が六波羅探題を攻撃した際、母方の叔父に伴われて上洛しようとしたものの、途中で幕府方の刺客に討たれてしまいました。

このとき、山伏の姿をしていたといわれていますので、元服前ながらそれなりの年齢になっていたと思われます。
これは私見ですが、細身・小柄であれば女性に化けて逃げたほうが安全だったでしょうから、竹若丸は割と体格が良かったのかもしれません。

 

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倒幕の混乱期、いきなり人質にされてしまう

義詮のもう一人の異母兄は、観応の擾乱でも名前が出てくる直冬です。

直冬の母親は身分が低かったらしく、「尊氏が若い頃にお忍びで通っていた」ことくらいしかわかっていません。
また、他の男性が通っていたフシもあったのか、”尊氏が直冬を冷遇したのは「コイツ本当に俺の息子か?」と疑っていたからだ”なんて説もあるようです。

そのせいで観応の擾乱や南北朝問題がこじれるので、尊氏がわざわざ敵を増やしてしまったような感がありますね。
「庶子だから厚遇はできないけど、一門の中に席を与えるよ」くらいの扱いにしておけば、もうちょっとマシだったかもしれません。

そんなわけで義詮は、生まれ順としてはおそらく三男。
一番、出自が良かったので嫡子になりました。

義詮が生まれたのは元徳二年(1330年)。
鎌倉幕府を倒すかどうかの瀬戸際であり、トーチャンの尊氏も一家団欒を楽しむような状況ではありません。

しかも尊氏は当初幕府軍にいたので、後になって倒幕軍についた際、義詮とカーチャンは人質として鎌倉に押し込められてしまいます。
実に幸先の悪いスタートですね。

しかし足利家は源氏きっての名門ですから、忠実な家臣には事欠きません(少なくともこの時代は)。
そうした人々によって義詮は救出され、当コーナーの推しメンこと新田義貞と合流し、しばらくの間行動を共にします。

新田義貞公肖像/wikipediaより引用

 

幼いながらに父を補佐して名門の跡継ぎをこなしている

上記の通り、義詮は(1330年)生まれで、鎌倉幕府滅亡が(1333年)ですから、倒幕までの戦で前線に立つことはありませんでした。

が、幼いながらに父の代理で軍中状(武士が功績を報告してくる手紙)にサインしていたり、跡継ぎの自覚を持った行動をしています。
実際には家臣の誰かが義詮(当時は幼名・千寿王)の名で発行したのでしょうけどね。

まだ花押(かおう。名前などを崩して文様のように書き、本人が書いた証明にする)とか書けなかったでしょうし。

そんなわけで、義詮が成長する頃には既に鎌倉幕府は滅びていましたが、皆さんご存知の通り、そうすると今度は混乱の南北朝時代が始まります。

義詮はしばらくの間鎌倉周辺の統治をしていたものの、室町幕府ができた直後に重臣・高師直と叔父・直義の間で揉め事が起き、いきなり地盤がガタガタになってしまったため、トーチャンから呼び出されて京都で仕事をするようになりました。

このあたりになると、義詮も既に20歳前後。
実績もできていたので、尊氏からの信頼も上々だったようです。

状況が状況ですから、ほのぼのとか親子水入らずというわけにはいかなかったと思いますが、比較的良好な関係だったのではないでしょうか。

応仁の乱のアホさ加減を知っている後世の人間からすると微笑ましいものです。
まぁ【当社比】みたいな感じですけど。

 

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地味に仕事をこなしお次はビッグネーム義満の登場

元々テンションの上下から体調を崩すこともあった尊氏は、このあたりから寄る年波も相まって、病気がちになっていきます。
そこに「嫡男がしっかり仕事をやれる」ということを見せてくれたのですから、さぞ嬉しかったでしょうね。

家臣の誰かがシッカリ教育してくれた成果だと思いますが、残念ながらそれが誰だったのかよくわかりません。
でしゃばらない人だったんでしょうか。

足利尊氏の肖像とされていたが、近年では「高師直だ」という説が根強くなった一枚/Wikipediaより引用

こうして概ね問題なく権力が移り、尊氏が亡くなると義詮は二代目として将軍の位に就きました。
南北朝の争いはまだ数年続きますが、その間も訴訟制度の整備など、地味に大切な仕事をしています。

ちなみに、尊氏と義詮は和歌を得意とする文人でもありました。
ちょっと意外ですよね。

義詮は後光厳天皇へ勅撰和歌集の編纂を執奏(提案)しており、天皇がそれを受けて新拾遺和歌集の編纂を命じています。
征夷大将軍=武家の代表格ではありますが、やはり由緒正しい流れをくんでいると、和歌のような文化的素養も高いんですね。

ただ、残念ながらテンションの上下が激しすぎる幕府創設者の父・尊氏と、ダイナミックすぎる発想の息子・義満の間では、義詮が後世にインパクトを与えることはできません。いや、まぁ、それでいいんですけど。

なんせ舵取りが最も難しい「二代目」をこの動乱の中で見事やってのけたのですから、それだけでOKじゃないでしょうか。
もうちょっと世間的に知られても良いんじゃないかと思います。

 

死の直前、大量に鼻血を噴き出していた

地味な印象が強い理由は、享年38という短命も原因かもしれません。

詳しいことはわかっていませんが、三条公忠の日記「後愚昧記」(建武の新政をボロクソに書いている日記)では、
「義詮は亡くなる二日前、大量に鼻血を噴き出していた」
と書かれています。

急激に病状が悪化したのでしょう。

元々体が弱かったわけでもありませんから、鼻血が大量に出る病気というと、急性白血病あたりですかね?
この辺は、馬渕まり先生にぜひご考察いただきたいところです。

また、義詮は子供が少なかったため、わずか9歳の義満へ跡を継がせざるを得ませんでした。
それが日本史でも有数の人物になるのですから、歴史の妙というか「事実は小説より奇なり」というか。

義詮のお墓は三ヶ所あります。

そのうち宝筐院(ほうきょういん。京都市右京区嵯峨野)のお墓は、かつての敵・楠木正行(正成の長男)の隣にあります。
尊氏が楠木正成を認めていたように、義詮も敵とはいえ、武士の信念を貫いた正行のことを尊敬していたので、そのように言い残したのでした。

もしかすると、他にもよく似たところのある親子だったのかもしれませんね。
それでもやっぱり地味だけど。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「足利義詮」
足利義詮/Wikipedia

 



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