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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

金閣寺以外ブッコワシ! 室町四代目将軍・足利義持は目立たぬけれど高スペック

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当コーナーではこれまで「各幕府の二代将軍が地味だ」というお話を度々させていただきましたが、四代目もなかなか教科書で扱われることは少ないものです。
ほとんどの場合、三代目の時代に重要な事件や功績が出てきます。その直後、“無事”に幕府を存続させたということもなかなかの人物であると言えるのではないでしょうか(ただし鎌倉幕府を除く)。

今回はそのうちのお一人をご紹介します。

元中三年=至徳三年(1386年)の2月12日は、室町幕府四代将軍・足利義持(よしもち)が誕生した日です。まだ南北朝の統一が成っていない時期なので元号が二つありますが、ここではあまり気にせず進めましょう。

 

父の義満は弟に愛情を注いでいた!? 

義持は9歳で将軍職を継ぎました。まだ父の義満が健在だったため、ほとんどの権力を握られたまま22歳まで過ごし、その分、とんとん拍子に官位が上がっております。

しかし、やはり心情的には愉快なものではありませんので、あまり親子仲はよくなかったようです。一説には義持の異母弟・義嗣(よしつぐ)が生母ともども義満に寵愛されていたため、相対的に義持の扱いが冷たくなっていたともいわれています。
この手の「兄より弟が可愛がられたせいでアレコレもめる」というのは日本史に何回出てくるんでしょうね。そもそも古事記からしてそんなんですけど。

こうなると内紛の予感がプンプンしますが、義持は賢明なことに父が亡くなるまで大人しくしていました。
その代わりなのか、義満没後は独自の政策を次々と打ち出していきます。細かいことが多いので詳細は割愛しますけど、全体的に見ると単なる父への反発というよりは、父の代にあっちこっちにくすぶっていた不満を中和しようとしていろいろやったという感じがします。

異母弟の足利義嗣さん/Wikipediaより引用

異母弟の足利義嗣さん/Wikipediaより引用

 

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明からの使者を追い返す! 激怒されてもシカト( ´_ゝ`) 

その中で地味に大きなことは、明(当時の中国)との関係を改めたことでした。
義満は明から「日本国王」と見なされ、冊封体制(中国の家来になるという意味)に日本が入ることを了承していましたので、当然ながら皇室や朝廷からは大不評でした。しかし、義満の存命中は対抗できる力のある人がいなかったので、陰でイヤミを言うくらいが関の山。

それを知っていたか知らなかったか。詳細は不明ですが、義持は父の没後、明からの使者を京都に入れず追い返しています。現代の外交用語でいえば「ペルソナ・ノン・グラータ」=外交官の着任拒否ですかね。どうでもいいですけどこれラテン語でして、話術者がいない言語がこういうところで出てくると厨二心をくすぐられます。

「義満の時代に勘合貿易が始まった」というのは多分皆さん学校で習ったかと思います。その後、この単語が全く出てこないのは、ただ単に義持の時代に終わってたからなんですね。一応、後に復活してるんですが、そのときの将軍も教科書に出てきませんし。
ちなみに当然明からは激怒されましたが、義持はシカトを貫きました。度胸あるな。

豪腕父ちゃんの足利義満とは・・・/Wikipediaより引用

豪腕父ちゃんの足利義満とは・・・/Wikipediaより引用

 

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金閣寺以外ブッコワシ、花の御所からお引っ越し 

そんな感じで、義持は性格だけでなく父のやった事跡にもあまり好意的な印象は持っていなかったようです。

義満が建てたものは金閣以外ブッ壊していますし、住まいも「花の御所」(京都の室町というところにあった足利家の邸宅)から、祖父の足利義詮が住んでいた三条坊門殿に移しています。しかも義満の四十九日が終わってすぐだったらしいので、よほど花の御所がイヤだったんでしょうね。

まあ義持にしてみれば、花の御所には幼少期父に頭を押さえつけられていた記憶が色濃いでしょうから、離れたいと思うのも無理はありません。義持は義詮没後の生まれなので実際に会っておらず、おじいちゃん子というわけでもないのですけどね。他に適当な場所がなかったか、あるいは三条坊門殿の造りが気に入ったのかもしれません。
元々三条坊門殿が将軍の住まいとされていたのを、義満が花の御所を造ったためそちらに移ったということが気になったというのもありそうですね。この辺全部ひっくるめて、でしょうか。

今冬、ネットでも話題となった冬の金閣寺(残してくれてよかったですよぉ・・・)

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楠木家が暴れ、義嗣がダダこね、関東で上杉が反乱

そんなわけで住まいと気持ちを新たに政務に取り組んでいく義持ですが、上記の通りときは未だ南北朝の混乱期。
楠木家の残党が暴れるわ、弟の義嗣が「ボクの所領少ないんですけど!」とダダをこねるわ、関東で上杉禅秀(氏憲)という人物が反乱を起こすわととても落ち着ける状況ではありませんでした。
その上、弟は「領地増やしてくれないなら、ボク上杉さんと組んでお兄ちゃんに反乱しちゃうんだから!」(超訳)とまで言ってきます。頭も胃も痛くなりそうな状況ですね。

上杉のほうは当初テキトーに処理した幕府も、将軍の弟が与するかもしれないとなれば話は別です。さらに他の大名も何人か加担するおそれがあるということがわかり、本腰入れて解決しなくてはならなくなりました。

そこで関東は戦で、義嗣はブッコロして無事解決……したつもりでしたが、その余波はズルズル長引いて関東で諸々の戦の遠因となりました。これは義持の責任ではないですけどね。騒動の当事者の一方である鎌倉府(幕府が鎌倉に置いた関東の役所。江戸幕府の京都所司代みたいなもの)ともめたときには、「何さらしてくれとんじゃゴルァ! 解決(物理)すんぞ!」と脅し……説得していますし。

 

後小松天皇とは親しく朝廷とは良好な関係を築いた 

上記の通り父の負の遺産やら他の反乱やらと平行・連続して事に当たっていたわけですから、むしろ義持の有能さがわかるのではないでしょうか。

こう書くと父には反抗的、部下には強引なワンマンに見えてしまうかもしれませんが、義持は朝廷と極めて良好な関係だったそうですので、単なる短気な乱暴者ではなかったようです。
特に後小松上皇とは親しく、後継者について相談されるほどだったとか。武家政権の時代に幕府と朝廷双方のトップがそこまで良い関係だった例というのも珍しいですよね。

後小松天皇/Wikipediaより引用

後小松天皇/Wikipediaより引用

となると結果的にはほぼ全方向に対してそこそこ以上の成果を得ていたということになりますから、政治家としての手腕は父以上といっても差し支えないのではないでしょうか。

義持の時代は室町幕府が幕府らしい威容を保っていた時期(当社比)ですので、彼自ら兵を率いて戦うということはありませんでしたが、もしそういう時代に生まれていたらきっと名将と呼ばれるような働きをしていたんじゃないかなと思います。勇猛果敢というか剛毅果断というか。

そういうところは、遠い子孫にあたる剣豪将軍こと十三代義輝(過去記事:ムダムダムダムダムダ!剣豪レベルまで剣術を磨いた将軍、足利義輝が帰京するも…【その日、歴史が動いた】)と似ていますね。厳密には直系じゃないんですけど、こまけえこたぁ(ry

 

長月 七紀・記

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参考&TOP画像:足利義持/Wikipedia

 





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