ジョン・ハンター

ジョン・ハンター/wikipediaより引用

学者・医師

巨人症の遺体も付け狙うジョン・ハンター 人体への執着が医学を発展させる

2024/10/16

1793年10月16日はジョン・ハンターの命日です。

「実験医学の父」とか「近代外科学の開祖」などと呼ばれるイギリスの医師ですが、その行動力と研究心があまりにもケタ外れでして。

例えば、遺体を解剖するため巨人症の人物が亡くなる瞬間を付け狙ったり、当時誰もやったことのない人工授精を実行したり、あるいは帝王切開に挑んだり。

とにかく常識に囚われず、人体の解析に取り組み、結果、西洋医学を格段に進歩させた人物なのです。

ともすれば内容がグロくなるせいか、あまり世間に知られる機会がないだけで、実は偉大な医師だとも言える――ジョン・ハンターの生涯を振り返ってみましょう。

ジョン・ハンター/wikipediaより引用

 


生い立ち

ジョン・ハンターは、子沢山一家の末っ子に生まれました。

しかし、兄や姉の半数が幼少期あるいは20代で亡くなっており、そんな中、次兄のウィリアムが医学で身を立てようと決意してロンドンに出ていました。

彼は当時イギリスにはなかった「実際に解剖を見学・参加できる教室」を開いて大評判を呼び、忙しくなったため助手を探すようになります。

ちょうどそこに末弟のジョンが申し出てきたので、いくつか実技試験をした上で採用することに決めました。

ジョンは一応地元の学校に通ってはいながら、読書や作文、地理などに興味が持てず、関心を示したのは生物の観察だけでした。

そのため13歳で学校をやめてしまい、実家の農場を手伝ったり、姉の嫁ぎ先で材木商人の仕事を手伝ったり、それも長続きせず。

この間に兄や姉の死を間近に見たのをキッカケに生物への興味と結びついたのか、最終的にジョンは医学を選び、兄へ手紙を書いたのでした。

人間でも動物でも、体を治すためには、まず対象となる生き物の体の仕組みを知らなければなりません。

しかし当時のヨーロッパでは、キリスト教における「死後の復活」を信じている人が非常に多く、

「解剖なんてされたらまともな体が残らなくなってしまう! そうしたら天国に行けないじゃないか!」

というわけで、献体する人はほとんどいませんでした。

そのため、イギリスでは国によって、死刑囚の遺体が医師に下げ渡されることになっていたのですが……その数は、年にたった6体。

これでは現役の医師もろくに学べませんし、後進育成も妨げられてしまいます。

そういう状況に歯噛みしていたウィリアムは、弟にスゴイ命令をします。

「手段は問わないから、解剖用の遺体を集めてこい」

そういうわけで、ジョンは仲間を集め、兄の代わりに墓地に忍び込んで「教材」を集める仕事を任されたのでした。

標本作りにも取り組み、どんどん腕に磨きをかけ、しまいには兄を上回るまでになっていきます。

ウィリアムは既に医師として仕事をしていましたので、汚れ役を弟に押し付けたとみることもできますが……ジョンにも医学の指導をしてくれていたため、平等な関係だったといえるでしょう。

ジョンは芝居や酒も楽しむ陽気な男で、仕事仲間からの評判は良かったとか。

現代人からすると、そのギャップが空恐ろしいような気もしますけれどね。

 


生者を救う勉強

そんな暮らしを続けてしばらく経った1749年。

兄のウィリアムはジョン・ハンターに臨床経験を積ませるため、とある医師に連絡を取りました。

チェルシー王立病院のウィリアム・チェゼルデン。

彼はフランスで行われていた膀胱結石の手術法を取り入れ、さらに改良し、手術時間と患者の死亡率を劇的に下げた人物でした。

また、富裕層からは高額な医療費を取るかわりに、慈善病院で貧困層の治療にもあたる篤志も持っていました。

ウィリアムは手紙と一緒にジョンの作った標本を添え、「既に外科の腕は良いが、臨床経験が足りない」ということを証明。

チェゼルデンは快く受け入れを約束してくれました。

ここからの数年間、ジョンは暖かくなるとチェゼルデンのもとで臨床経験を積み、涼しくなればロンドンへ戻って遺体調達や解剖に精を出すようになります。

この頃の貴重な経験として、1750年に妊娠9ヶ月で突然死した妊婦の遺体を解剖したことがありました。

この後1754年にかけてウィリアムとジョンのところには5体の妊産婦の遺体が運び込まれ、その解剖図はヤン・ファン・リムダイクという画家の手で記録されています。

1752年にチェゼルデンが亡くなると、次にジョンはパーシヴァル・ポットという当時30代後半の医師のもとで学びはじめました。

彼も後々骨折や脱臼、がんに関する研究を進めて歴史に名を残す人です。

1754年になると、ジョンは聖ジョージ病院の実習生となりましたが、ここは彼にとって生涯の”戦場”ともなります。

 

大学や"常識"に反発

1755年、ジョン・ハンターはウィリアムの勧めでオックスフォード大学に入りました。

しかし、ラテン語やギリシャ語を強要されることに苛立ち、勝手に戻ってきてしまいます。

これまで実地で解剖や臨床経験を積んできたジョンにとって、言語などはどうでもいいことだったのでしょう。

ジョンが「講義」というものを苦手としていたことも理由かもしれません。

この頃になると、彼はウィリアムに替わって私塾の講義をするようになっていたのですが、お世辞にもうまい方ではなかったそうです。

しかし授業が終わって生徒が質問をしに行くと、熱心に答えていたため、人気は高かったとか。

形式張った長い話をするよりも、質疑応答のようなキャッチボール的な会話のほうが得意だったのでしょう。

となると、死語であるラテン語や、英語で「わけがわからない(複雑過ぎる)」の代名詞となっているギリシャ語に関心が持てないのも当然かと思われます。

ウィリアムはどちらかというと経営者や著述家向きで、ジョンのほうが現場のチームリーダーに向いていたということでしょうかね。

ジョンはこの後も、新発見をしたにもかかわらず、論文の執筆が遅れたために「第一発見者」としてみなされなかったことが多々ありました。

うまく手を取り合えれば、ウィリアムの名も現代まで強く残ったことでしょう。

また、当時の医学はキリスト教や古代医学の影響が強すぎて、事実と乖離していることも多々ありました。

特に悪影響を及ぼしていたのが、古代ギリシャの医学者ヒポクラテスの「すべての病気は人体に備わっている体液の不均衡によるもの」とする考えです。

ヒポクラテスは「人体には血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁という四種の体液がある」と考えていました。

後にこれが発展して、人間の性格にも影響を及ぼしているとか、別の液体が加わったりなどもしたものの、根本が事実と反しているのではどうしようもありません。

キリスト教の影響については前述の通り。

ジョンは病院で臨床経験を積む中で、

「今までの医学書は参考にならない。解剖して自分の目で事実を確かめ、適切な外科手術をことが患者を救う最も良い手段だ」

という信念に至ったと思われます。

これは彼の柱とも呼べる理念で、のちのち弟子たちにもそのように指導していきました。

ジョンは先人がおこなった実験を自分でもやってみることで、新たな事実を発見しようと心を砕きました。

犬の喉を切ってふいごつきの口輪を差し込み、原始的な人工呼吸器の実験をしてみたり、鶏の胚(哺乳類でいう胎児)を研究するために何十個も卵を用意し暖め、成長段階ごとの標本を作ったりなどです。

 


軍医の道へ

昼は講義や解剖や臨床、夜は遺体探しという働き詰めだったジョン・ハンター。

1760年に無理がたたってか体調不良となり、解剖から一旦離れることになりました。

肺炎だったそうで、直前にも検死や病院勤務をしているので、重症ではなかったようです。

それと同時期に、兄と別れて独りでやっていこうと決意。

正式な外科医の資格がないため、それ無しで働ける軍医を選び、志願書を送ってしばらく待ちました。

軍医としての経験があれば、一般人を診る権利も与えられるという慣習があったからです。

知人の作家トバイアス・スモレットが軍医として働いていた経験を持っていたので、ジョンも彼から聞いてこのルートを取ろうと決めたのかもしれません。

この頃は一人でやっていく覚悟は決めたものの、喧嘩別れというわけではなかったので、兄へはよく手紙を書いていました。

そして1761年3月に軍医の辞令が下り、七年戦争中のイギリス軍に加わりました。

ジョンはフランス領のベル島を占拠しに向かう船と同行していた病院船ベティ号に乗り、軍医の一人として、各地で負傷した兵の治療にあたっています。

銃弾の摘出や傷の縫合が主な仕事でしたが、不衛生な環境のためにうまく行っても助からない場合も多々ありました。

この間に「傷口に弾が残っていても、放置しておいたほうが回復する場合がある」ということを発見しています。

島に取り残されたフランスの負傷兵5人の経過から判明したことでした。

彼らはろくに治療をしないまま4日間隠れていましたが、似たような傷を負って外科医にいじりまわされたイギリス兵よりも、ずっと良い状態になっていたのです。

このことからジョンは

「全ての患者に同じ治療を施すのではなく、患者の状況をより詳細に観察して処置を決めることが重要だ」

という信念を持つに至ります。

このやり方は当初こそ反発も受けたものの、徐々に認められるようになりました。

そしてベル島の病院長を務めていたウィリアム・ヤングは、1762年に引退するときにジョンを後任に指名してくれ、少しずつジョンが公の人々にも認められていきます。

この頃ジョンが主張した考えとして、

「瀉血(地を抜くこと)をしないように」

という点がありました。

当時のヨーロッパでは「瀉血は何にでも効く」と信じられていて、瀉血によって命を落とす人も多かったのです。

当時ヨーロッパで盛んだった瀉血の様子/wikipediaより引用

「体液の不均衡説」が正しければ、血液が多すぎる場合に瀉血をするのも正しかったでしょうけれども、ジョンはそうではないことを熟知していました。

1762年7月にはポルトガルに移って傷病兵の治療にあたり、終戦後の1763年4月に帰国。

この間、各地で集めたトカゲの標本や、銃弾を受けた人骨の標本などを作り、持ち帰りました。

当時の常識を重んじなければ爪弾きにされる学術界より、結果が全てだった軍医としての生活は、ジョンに大きな自信をもたせることになります。

 

歯科治療の改善

帰国すると、兄のウィリアムは既に新しい助手を見つけており、学校には戻れませんでした。

そこでジョン・ハンターは当時ロンドンで大流行していた虫歯治療に目をつけ、歯科医と組むことを考えます。

当時の歯科治療は「虫歯になった歯を引っこ抜くだけ」という乱暴なもので、その後の痛みや出血、腫れに患者は苦しんでいました。

現代の技術や衛生状態でも、抜歯後の腫れは頻発しますから、いわんや当時をやというところ。

ジョンはこの状況を改善しようと考え、ロンドンの高名な歯科医ジェームズ・スペンスに、これまで学んだ解剖学や衛生の知識を助言として与えました。

歯を抜いた後の詰め物や洗浄、歯磨きの励行なども提案したそうです。

また「トカゲのしっぽのように、皮膚や骨には再生能力があり、別の生き物に移植できるのではないか」と仮定し、さまざまな実験をしはじめました。

雄鶏の蹴爪(かかと部分にある攻撃するための爪)を雌鶏に移植してみたり、色々やっています。

原始的な臓器移植と言っていいでしょう。

ジョンは次に、虫歯を抜いた後の入れ歯に人間の歯を使うことを思いつきました。

当時も入れ歯は存在していましたが、象やカバの牙を使っていたため非常に高価で、かつ安定しないのが問題となっていたため、より良い代替品が求められていたのです。

そこでジョンは健康な歯を提供してくれる人を探す広告を出し、いくらかの金を支払いました。

現代でいえば臓器売買や売血のようなものですが、お金を稼げる手段が少ない時代のこと。特に子供たちは、痛みと引き換えにお金を得るほうを選びました。

こうして抜いたばかりの健康な歯を移植する方法が確立され、ロンドンだけでなくヨーロッパ、そしてアメリカにも広まりました。

同時に、倫理的な反対意見もあり、移植した歯から梅毒などの伝染病にかかることもあったため、課題は残されていました。

結果として歯の移植については失敗に終わりましたが、臓器移植の嚆矢となります。

また、当時蔑視されていた歯科に関する論文を世界で初めて書いたのもジョンです。

ここでも、彼の価値観として、

役に立つ事実>>>>>>世間の視線や常識・定説

ということがわかりますね。

 

「病気=体液不均衡説」から科学的な方法へ

ジョン・ハンターは、スペンスと一緒に働きながら解剖学や外科の講座を開いて収入の足しにしていたので、徐々に支持者が増加。

やがて王室が運営する学術団体”王立協会”の調査や実験に招かれるようにもなります。

1763年12月には解剖医や標本作りの腕を買われて、エジプトのミイラの棺を開け、布を剥いでミイラの観察を行っています。

また、この年は厳寒であり、ロンドンの各所で死人が増えた年でもありました。

他の医者が亡くなった患者の死因を調べるため、ジョンに解剖を依頼してくることも増えたようです。

公開解剖はまだまだ受け入れられていませんでしたが、死因を特定するために非公開で解剖することは徐々に理解されてきはじめました。

医師の間でも、遺族に対し検死の協力を求める例が増えたのもこの頃。

「病気=体液不均衡説」から、科学的な方法にシフトし始めたのでした。

検死で死因が特定できれば、遺族が病気を予防することもできるようになることもメリットでした。

もっとも、この時代には全ての死因を特定できたとか、完全な予防策が見つかったわけではありませんが、進歩は進歩でしょう。

ジョンのもとにも、貴族から庶民の子供まで、いろいろな状況で亡くなった人の検死依頼が持ち込まれました。

それは大きな臨時収入になり、社交界ではちょっとした名士のような扱いを受けるようになりました。

 

婚約

ジョン・ハンターは元々人付き合いの良い人でした。

軍医時代に親交を持った人々とも交流を保ち続けるほど。

そのうちの一人ロバート・ホームの家に招かれたとき、彼の長女であるアンにジョンは一目惚れします。

アンは女流詩人として活躍し始めており、インテリ女性たちのサークルにも参加していた社交的な女性でした。

二人がどうして惹かれ合ったのかはわかりませんが、アンの弟であるロバートがジョンの絵を描いていることからして、ホーム家でのジョンの評判は悪くなかったのでしょう。

1764年の夏にアンの体調不良のためにジョンが呼び出され、寄生虫症であることをつきとめて治療を成功させたのが好意に繋がったのかもしれません。

ジョンは堅苦しい文章は嫌いな質でしたが、おしゃべりは好きだったようです。

まったく異なる分野に身を置いていたからこそ魅力を感じあったのでしょうか。

また、ホーム家の末弟であるエヴァラードもジョンによく懐き、将来は同じ道を歩みたいと考え、実際その通りにしていきます。

当時ジョン35歳、アン21歳、エヴァラード8歳でした。

結婚に対する障害はありませんでしたが、唯一の不安要素はジョンの収入が家族を養うには少々心もとないこと。

古巣の聖ジョージ病院で常勤外科医の席が一つ空き、そこに収まろうとするも失敗してしまいまSu。

そこで1765年6月にロンドンの外れにあるアールズ・コート村に土地を買い、家を建てて静かな住まいと実験場を作りました。

魚や爬虫類・哺乳類の仮死に関する実験をし、いずれ人間に応用して一儲けしようと考えていたようです。

しかしこれはアテが外れ、お金にはなりません。

18世紀にコールドスリープの概念があったとは驚きですね。

また、ある日ジョンは偶然アキレス腱を切ってしまい、「下手にいじるより、自然治癒力に任せたほうがうまく治る」という仮説を自分の体で確かめることにしました。

聞いているだけで痛そうですが、実にジョンらしいですね。

処置といえるものは固定だけ、工夫といえば靴にちょっと細工をしただけにし、少しずつゆっくり歩く練習を数日続けました。

これで「薬や安静よりも、少しずつ動かすようにしたほうが怪我の経過が良くなる」ことを確信しています。

ジョンはこの説を立証すべく、友人の家にいた車椅子の女性に、毎日少しずつつま先を動かすよう助言しました。

彼女は数年前に膝の骨を砕くという大怪我をしており、それからずっと歩けずにいたそうです。

しかしジョンの言う通りにすると、数ヶ月で不自由なく歩けるようになったとか。

現代の理学療法のようなものですね。

同時期にジョンは、探検家や冒険家との付き合いも増えていきました。

動物の解剖や標本作成をやっていたことが知られるようになり、ロンドン塔動物園で死んだ動物や、テムズ川に打ち上がったシャチなども彼の手で標本となりました。

そのうち、現在「オオサイレン」と呼ばれている爬虫類の一種を解剖して、王立協会に初めて論文を提出しました。

これによって1767年2月に王立協会の会員として認められています。

 

性病の研究で思わぬ発見

ジョン・ハンターが取り組んだ分野のひとつに、性病の研究があります。

当時の社会では「性産業は本人の自由」とされ、それによって性病も蔓延していました。

1746年には専門病院も存在していたほどです。

しかし淋病は放置していても治ることが多かったため重視されておらず、繰り返しかかる人も珍しくありませんでした。

ジョンはそれでも薬を欲しがる淋病患者に

「『薬だ』といってパンを丸めたものを飲ませたが、問題なく回復した」

と記録しています。プラシーボ効果の発見だったかもしれませんね。

この頃になると、ジョンを異様に敵視する医師も出てくるようになりますが、本人は全く気にしていません。

彼の周囲には献身的な友人や協力者、そして斬新な学びを得たいと考えてやって来た若い医学生などがたくさんいたからです。

王立協会でも一目置かれるようになり、定期会合の後に当時の社交場だったコーヒー・ハウスで集まることも増えていきました。

 

世界初の人工授精に成功

1767年の夏、ジョン・ハンターは雌のカイコから未受精卵を、雄のカイコから精液を採取して混ぜ合わせるという実験を行いました。

後日この卵は孵化し、人の手によって受精を促せることが判明。

ジョンはこの結果から、不妊で悩んでいたとある夫婦に助言をしました。

夫の精液を採取して注射器に入れ、その注射器を妻に……という方法です。後日、彼らにも無事子供が授かりました。

輝かしい発見ですが、文章下手のせいかジョンはこの件を王立協会に報告せずに終わっています。

義弟のエヴァラードが彼の死後に報告し、世界初の人工授精だといわれています。

ジョンが論文を苦手にしていたことは、別の話からもわかります。

当時、アメリカで発見された未知の動物のものと思われる骨と歯が話題になっていました。

別の学者はこれを象のものと考えており、ジョンの兄ウィリアムもそうだろうと思いつつ、弟の意見を聞きたいと考えました。

するとジョンはひと目見て「象のものではない」と判断し、自分の持っている象の顎の標本を示して説明しました。

ウィリアムも納得し、

「あれは象のものではなく、かつて存在していた未知の動物のものです」

と王立協会に論文を出しました。

この論文、ジョンではなくウィリアムが書いているのです。

ジョンは世間的な名誉のために苦手な論文を書く時間より、解剖や実験や診察の時間を重視していたためなのでしょう。

こうして実績を積み上げたジョンは、1767年7月には正式な外科医の免許状を手にし、活動に支障がなくなりました。

 

新大陸の動物

1768年、王立協会の発案により、南半球の大陸を探すという大規模な航海が始まりました。

船の名はエンデヴァー号、船長はジェームズ・クック。

乗組員となった学者の中には、ジョンの親友であるジョセフ・バンクスとダニエル・ソランダーがいました。

ジョンは彼らの帰国を待ちながら、手近なところで動物の研究をするべく、サーカスや社交界に出入りして珍しい動物の死体を集めていました。

当時のロンドンでは動物を使った芸を見せる見せ物小屋や、探検家が持ち帰った珍しい動物を率いた巡回動物園があり、珍獣に出会う機会は多かったそうです。

ジョンは出会った動物を丁寧に標本にし、特徴を書き留めていきました。

社交界では珍獣を飼っている貴顕に近づき、「あなたのペットが死んだら、譲っていただきたい」と言って眉をひそめられていたとか。

この頃まだ正式な結婚をしておらず、婚約状態だったのですが……これでよくアンやホーム家の人々が婚約を破棄しようと思わなかったものですね。

そんな感じだったので、アールズ・コート村の別荘は動物園のような状態になっていました。

シマウマやライオン、ヒョウといった大型動物から、ミツバチなどの昆虫、鳥類までありとあらゆる生物が飼育されていたため、ときにはトラブルも起きています。

あるときヒョウのつがいが逃げ出したとき、ジョンはみずから走って行って首をひっつかみ、所定の場所に押し込んだとか。

一歩間違えば死ぬところですが、ジョンなら大怪我を負っても、指が動く限りは記録を取り続けたのでしょうね。

 

聖ジョージ病院の外科医に

ジョンは研究のために惜しみなくお金を使ってしまうため、なかなか結婚資金が貯まりませんでした。

そこで1768年11月に聖ジョージ病院の外科医の席が一つ空いたため名乗りを上げたところ、役員投票で選ばれてやっと公的な職と安定した収入を得られるようになります。

この病院は慈善事業だったため、外科医としての給料は出ません。

しかし実習生の指導料などの副収入があり、さらには肩書によって富裕層からの依頼が増えたため、間接的に収入が増えるきっかけとなりました。

通常の回診や手術などもこなしながら、常勤職員としての生活に慣れた1769年10月、難産の妊婦マーサ・ローデスが担ぎ込まれてきました。

骨盤が狭すぎて通常の分娩ができず、助けるためには帝王切開しかない――そう判断されるも、この時点では出産中に亡くなった女性にしか行われたことがなく、イギリスでは母子ともに生存した報告はひとつもない……という、特殊過ぎる手術でした。

執刀医はロンドン病院のヘンリー・トムソンで、ジョンは解剖の腕を買われて助手を務めることに。

手術開始前には、マーサに鎮痛のためアヘンを飲ませていたそうです。

アヘンは全身麻酔ほどの効果はありませんでしたが、マーサは我慢強く耐えたらしいので、母の愛と根性に頭が下がります。

結果として、マーサは手術から数時間後に亡くなり、新生児も亡くなってしまったのですが……。

遺族は二人の遺体の検死を了承し、その結果は王立協会に報告されました。

ジョンはこの後、1774年にもう一度帝王切開の手術を試みています。このときも産婦は亡くなってしまったものの、新生児を生き延びさせることに成功しました。

マーサの際の経験が活きたのかもしれません。

やはりリスクが高すぎたためか、この後しばらくの間イギリスでは帝王切開が行われませんでした。

初めて帝王切開で母子ともに生還させられたのは、1793年のジェームズ・バーロウという医師です。

彼はジョンの弟子の一人チャールズ・ホワイトを助手にして執刀したとか。ジョンとしても鼻が高かったでしょうね。

 

愛弟子エドワード・ジェンナー

1770年10月、ジョン・ハンターは生涯の友とも呼べる人物に出会います。

エドワード・ジェンナーです。

彼は聖ジョージ病院の実習生としてロンドンへやって来て、ジョンの家に住み込みで教えを受けるようになり、手術の助手や往診の付き添いもし、知識と技術をどんどん吸収。

ジョンもエドワードを非常に可愛がり、「自分の頭で考えること」を大切にするよう教え込んでいます。

エドワードはのちに天然痘ワクチンを開発し、論文を発表するのですが、その中でジョンについても少し触れています。

ロンドンでの都会ぐらしが肌に合わず、三年ほどで故郷のグロスターシャーに帰ると、その後も文通や標本などの贈り合いが生涯に渡って続きました。

ちなみにエドワードは詩や音楽にも関心があったため、アンの話し相手にもなったそうで……エドワードの詳細については以下の記事をご覧ください。

エドワード・ジェンナーと天然痘~恐怖の病を根絶できたキッカケは牛だった

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カンガルーの研究と私生活

1771年7月、エンデバー号がイギリスに帰還したと聞いたジョン・ハンターは、持ち帰った生物の目録作りにエドワードを推薦しました。

一部の標本はジョンにも与えられ、中でも目玉といえたのがカンガルーの骨。

肉は船員たちが現地で食べていましたが、ジョンはいつも通り骨を見て喜び、今までの動物とは似ても似つかないことを理解したそうです。

全身標本は20年ほど後になってから届き、カンガルーがオーストラリアの固有種であることが判明。

1786年に「動物界に関する初見」という本にまとめて発表しています。

現代では人間の医学と動物医学は完全に分離されていますが、ジョンにとっては境目がなかったようです。

エンデヴァー号が戻ってきたのと同時期に、ジョンはいよいよ結婚することにしました。婚約から7年もの時間が経っており、よくアンもホーム家の人々も待ったものです。

1771年7月22日に結婚式が挙げられました。

ジョンは43歳、アンは29歳。当時としては遅めの結婚です。

クックらも式に参列し、航海の手土産のひとつだったヒッコリーの木材を新婚夫婦に贈ったといいます。

ジョンはこれを使って、妻のためにダイニングセットを作らせたとか。ラブラブですな。

1772年6月には二人の間に男子が生まれ、さらに助手のウィリアム・リンや、義弟エヴァラードを家に迎え、にぎやかな家庭ができました。

アンは夜会を開いて女流文学者や作家・芸術家との交流を続けており、その中には作曲家として有名なヨーゼフ・ハイドンの姿も。

ちなみに、ハイドンは後年ジョンの手術を断って後悔しています。鼻のポリープだったので、「目に見える範囲にメスを入れる」という恐怖に耐えきれなかったようです。

ジョンは、妻の友人たちとは挨拶だけで済ませ、自分の仕事に没頭していました。

この夫婦はお互いの領域に口を出さないようにしており、だからこそ年が離れていた上に婚約から結婚まで時間が空いても、破談せずにいたのでしょう。

時には妻とともに観劇や食事会に出かけることもあったそうですので、この夫婦にとってはそのくらいの距離感が適切だったのでしょうね。

ジョンとアンの間には四人の子供が生まれ、生き延びたのは長男のジョンと娘のアグネスだけでした。

ジョンほどの知識と経験があっても、乳幼児を無事生き延びさせることは難しい時代だったのです。

 

後進の育成を意識し始める

1772年の秋、ジョン・ハンターはこれまでの経験や考え方を人に教えようと思い始めました。

実子を授かって、人を育てることや、自分が老いた後、あるいは死後のことに強く目が向くようになったのかもしれません。

それまでも聖ジョージ病院の実習生がジョンのもとで学んでいましたが、同僚の外科医にも無料で口座を開いてはどうかと提案しました。

病院を治療する場所だけでなく、将来の外科医を育てる場所にしようという発想です。

病院の役員や同僚たちからはなかなか同意を得られないでいる一方、実習生たちのほうがジョンの意見に賛同。

そこで仕方なく、ジョンは自宅で講座を開くことにしました。

かつて兄と一緒にやっていた私学校と同じように、病院の外で外科医を育てようと考えたのです。

特に重視したのが、以下の通り。

・人体は正常なときと病気の時でどのように変わるのか、という生理学

・がん以外の病気や症状については、できる限り手術を避けること

・『定説だから』という理由だけで従来行われてきた治療法を使わないこと

当時は下剤や嘔吐剤、瀉血がやたらと使われており、それで患者が弱ってしまうことも多々ありました。

特に瀉血万能説は根強く、医師が拒否しても患者が求めてくることもあったそうです。

ジョンは相変わらず講義は苦手でしたが、斬新さやユニークさ、そして質問に丁寧に答えることで生徒の心を掴みました。

また、定説を疑うことを勧める一方で、自分の失敗についても話しました。

ジョンの講義で感銘を受けた医師たちは、その後、医学の考え方を大きく変えていくことになります。

 

心臓を病みながら

ジョン・ハンターは明らかに働きすぎでした。

1773年のある日、ジョンは朝食後に激しい胸部痛に襲われます。

これは狭心症の発作で、以降、何度も発生するのですが、当時は効果的な治療法がありません。

後年の手紙で「私はいつか自分の心臓に殺されるだろう」と予測しつつ、ジョンは持ち込まれる様々な仕事や日常の診察をし続けます。

そして1776年1月には、ときのイギリス王ジョージ3世の特命外科医に任じられました。

ジョージ3世/wikipediaより引用

おそらく従来通りの瀉血その他で効果がなかったため、全く違った治療法を厭わないジョンにお呼びがかかったのでしょう。

これによってさらに名声が高まり、貴族や富裕層の診察依頼が増えていきました。

 

蘇生法の研究

もうひとつ、この頃のジョン・ハンターが関与したのが蘇生法です。

当時、ロンドンでは「投身者救助会」という慈善団体がありました。

テムズ川などでうっかり溺れた人を助けるための団体でしたが、協力していた医師は、瀉血など「万能と思われていた」治療法をやっていたため、当然成功例はゼロ。

そこで1776年、救助会の提唱者であるウィリアム・ホーズが、ジョンに「より実用的な蘇生法を考えてほしい」と頼んできたのです。

ジョンはこれを引き受け、具体的な蘇生法をまとめてホーズに渡しました。

同時に王立協会にも「一時間以内に正しい処置を行えば、蘇生は可能である」とした報告書を提出。

この中で彼は次のような蘇生法を提案しています。

「鼻と口から空気を入れることが重要であり、おそらくは酸素を使うとより効果的だ」

「心臓が止まっている場合は、電気で刺激を与えると再び動くかもしれない」

これらが正しかったことを証明するには20世紀まで待たねばなりません。

ジョンの頭脳の中では確立されていたとは驚きですよね。

こうして多忙が続いたためか、1777年にはジョンの健康が本格的に悪化し始めます。

4月にめまいを起こして10日間寝込み、8月にはアンに無理やりバースへ連れて行かれたこともありました。

バースは湯治場として有名なところですが、ジョンは湯治の効果には懐疑的だったそうです。それでも行ったあたり、妻への愛なんですかね。

ジョンは自分が死んだ後も妻子が暮らしていけるように、準備しておこうと考えました。

そこで解剖学と博物学のコレクションを整理するため、弟子たちに目録を作らせます。

しかし、兄ウィリアムにかつて制作した標本や研究結果が持っていかれてしまっており、ジョンは静かに怒っていました。

そして1780年に王立協会の会合で兄を糾弾し、それをきっかけとして兄弟の縁はぶっつりと切れてしまいます。

ウィリアムは信心深く、ジョンはあくまで生物については科学的な見方を優先したので、根本から理解し合うことは難しく、それが表面化した形でした。

1783年にウィリアムが亡くなったときも、特別に言葉をかわすことはありません。

ジョンは葬儀にも出席しませんでしたし、ウィリアムも遺言書の遺産に関する部分で、ジョンの取り分について全く触れていなかったため、兄弟の溝の深さがうかがえます。

後々になっていくらか悔恨の念が湧き上がってきたものか、ジョンは講義の後に涙をこらえながらウィリアムの功績を称える発言をしたことがあったそうです。

血縁者だからこその難しさなのかもしれません。

 

巨大な動物への興味関心

しかしジョン・ハンターには後悔に沈んでいる暇はありません。

この時代、南アメリカやアフリカ、アジアでヨーロッパ人にとって珍しい動物を探し、その遺体を標本として持ち帰るハンターたちがいました。

その一人であるウィリアム・パターソンが1779年にキリンを持ち帰ってきました。

当時のヨーロッパでは「伝説上の生物」とされていたうちの一種ですから、注目度は抜群。

それだけに未知の生物を適切に処置し、剥製にできる技術を持っている人はいません。

そこで彼のパトロンだったレディ・ストラスモアが、ジョンにキリンの皮膚と骨格の大部分を寄贈してくれたのです。

ジョンは大喜びで筋肉を調べ、剥製に仕立てました。

あまりにも大きすぎてそのままでは飾れず、仕方なく脚を外して「頭~首~胴体」を飾ったのだとか。

1781年にはテムズ川にトックリクジラが曳いてこられ、やはりジョンの興味を引きました。

トックリクジラはイルカのような背びれを持つクジラで、顔もどことなくイルカに近い作りになっています。

学術的にはイルカとクジラの差はさほどないそうですけれども、まさにそんな感じの生き物です。

トックリクジラ/wikipediaより引用

ヨーロッパでは鯨の油を燃料や食品、はたまた蝋燭などに用いており、専門の商人までいたほど。こんな滅多に手に入らない巨獣をジョンが見逃すはずもありません。

と、ジョンはここでは強硬策には出ず、鯨油商人と交渉して解剖させてもらいます。

解剖はテムズ川で行われ、必然的に公開作業となり、様々な新聞や雑誌で記事が書かれました。

無事に解剖が終わり、骨格を手に入れると、今度は置き場所が問題になります。

すると、ちょうど家の賃貸契約が終わりかけていた時期でもあり、ジョンは理想の展示場所を兼ね備えた物件を探し始めます。

 

「巨人の骨をゲットだぜ!」

そんな中で迎えた1782年、ロンドンの注目は”巨人”に集まっていました。

アイルランド生まれのチャールズ・バーンという男性で、なんと身長は8フィート4インチ=約2.53m!

現代までのギネス最高記録では2.72mのロバート・ワドロー(1940年に計測)ですから、18世紀の人物だということを考えると、チャールズの規格外っぷりがわかります。

チャールズ・バーン(中央)を描いた挿絵/wikipediaより引用

古い時代には、こういった”巨人”と呼ばれる人をはじめ、体に奇形を持つ人々は見世物小屋で働くことが珍しくありませんでした。

現代ならば人権問題ですけれども、職業の選択に限りのある時代においては、むしろ「自分で稼いで食べていける」ことがメリットだと考えられていたフシがあります。

ロンドンでも珍しい動物や奇形の人々を見せて見物料を取る商売が行われており、チャールズもそのためにやってきたのでした。

チャールズは派手な芸ではなく、「巨大な紳士」として客をもてなすという変わったサービスで人気を博しました。

国王夫妻や貴族にも招かれ、大いに稼ぎましたが、その中でジョンだけは違った意味でチャールズに注目していました。

「巨人の体を研究してみたい」

まぁ、これまでのジョンがやってきた事を考えれば、至極当然な流れですよね。

遠目にチャールズを観察したジョンは、彼の高身長は先天性異常によるものと考えており、寿命が尽きるのも遠い話ではないと予測。

さらに、都会の流行が過ぎ去った上、別の”巨人”がロンドンにやってこようとしていたこともチャールズの寿命を縮めました。

人間、うまく行かない時期が続くと、何かしらに依存する傾向が強まるものです。

この時代ではその依存先は限られており、チャールズは酒に溺れるようになってしまいました。

結核になっていたという話もありますし、チャールズ自身、死期が迫りつつあることを悟っていたのかもしれません。

ジョンは辛抱強く、チャールズにお迎えがくるのを待ちながら、なんと本人に

「命が尽きたら体を貰えないか」

と掛け合いました。

”検体”という概念がまだまだ一般的ではなかった時代にこれを、しかも本人に言えてしまうというのが、ジョンのネジが飛んでるところですね。

当時として一般的な信仰心を持っていたチャールズは、当然この申し出を震えながら断りました。

もちろんジョンがその程度で諦めるはずもなく、人を雇ってチャールズの身辺を見張らせ、今か今かと「その時」を待ち続けます。

その間にレスター・スクエアで4階建ての広々とした家が手に入り、ジョン一家の生活する部屋はもちろん、アンが客をもてなすための広い応接間までありました。

しかし、キリンやクジラの骨格標本を飾るにはまだまだ足りません。

そこでジョンは裏手の家と、二軒を繋ぐ間の土地を購入し、ドッキングさせる工事を頼みました。これまで手に入れてきた全ての標本を飾る舞台が整い始めたのです。

もちろん、ジョンの脳裏にはその中に”巨人”を迎える予定も組み込まれていたに違いありません。

ジョンがいろいろな意味でワクワクしている間に、チャールズはますます健康が悪化。

死期を悟った彼は、信頼できる友人たちに

「俺の遺体は鉛の棺に密封し、海に沈めてくれ」

と依頼して息を引き取りました。

新聞でチャールズの死を知ったジョンは、葬儀屋を買収して棺の中身を入れ替えるという凄まじい方法で、”巨人”を手に入れました。

ジョンにしては珍しく、じっくり解剖をせずに骨格だけを残していますが……足がつくのを懸念したのでしょうか。

この頃には、ジョンの解剖や医学の知見は世間で揺るぎない評価を得ていました。

貴族や富裕層、高位聖職者などが死後の解剖を依頼してくることもあり、彼らの患部は後年の医学のため、標本として残ることになります。

 

理想の博物館

1785年、ついにジョン・ハンターの追い求めた理想の博物館が完成します。

実はこの頃になるとかなり狭心症が悪化しており、移転作業中の1785年4月から5月には頻繁に発作を起こしていました。

それでも移転を終わらせたばかりか、この後も数年に渡って仕事を続けるのですから、あらゆる意味で超人としかいいようがありません。

彼はいわゆるショートスリーパーだったようで、夜に4時間眠る他は昼寝を少々するのみで、ほとんど働き続けていました。

現代の研究では「睡眠時間が一日4~5時間を下回ると、心臓に悪影響を及ぼす」とされているようですから、ジョンの心臓は本当にギリギリのところで持ちこたえていたわけです。

ジョンは上流階級ばかりでなく、一般市民や治療費を払えない患者も診察したので、さらに仕事が増えてしまったものと思われます。

彼にとっては新たな考察の材料が手に入ることが最優先でしたが、その次に

「金と時間が余っている奴らからはたくさん払ってもらい、その分で余裕のない人を診察したほうがいい」

とも考えていました。

手術費を大幅に減らしたり、無料で治療したことも多々あります。

さらに、彼の評判や考えに惹かれた学生たちが押し寄せてくるので、解剖や講義、指導の時間も欠かすわけにはいきませんでした。

さらには内科医と外科医の橋渡しとなる「医学外科学交流会」というサークル活動までしており、二週間ごとにコーヒ・ハウスに集まって議論したり、論文を発表したりもしています。

当然のことながら、王族や政治家たちにも注目されていました。

イギリス王ジョージ3世の特命外科医を仰せつかった他、外科の副軍医総監という地位も与えられています。

また、通称「小ピット」ことウィリアム・ピットの頬に腫瘍ができてしまったとき、彼が執刀医に指名したのはジョンでした。

ウィリアム・ピット (小ピット)/wikipediaより引用

外国でもジョンのことは知られており、パリの王立医学協会と王立外科学会のメンバーとなっています。

こういった激務かつ先述の通り短時間睡眠をしていて、よく体がもったものです。

仮に、この時代に現代の医療機器があり、ジョンと同じくらい熱心な医師がいたとすれば、ジョンの睡眠中の脳波や心臓の状態を調べる研究をしたに違いありません。

1782年の夏頃からは足の衰えが明らかになり、馬車での移動を余儀なくされたものの、彼にほとんど休むことなく働き続けました。

代診や生徒への指示など、義弟のエヴァラードに任せられることは任せましたが、検死や手術などはずっとジョンが行っています。

 

古巣と対立しながら博物館をオープン

数多の実績を作り、尊敬を集めるようになったジョン・ハンター。

それでも彼のことを認めない人たちがいて、その代表格が、かつて臨床経験を積んだ聖ジョージ病院の医師たちでした。

彼らは「伝統的な治療法以外のやり方は外道」であり「ジョンのやっていることはまやかしに過ぎず、後進が学ぶべきではない」と主張していました。

そのためジョンが「病院で無料の講義を開き、後進の成長を促すべきだ」と主張しても、全く受け入れようとしなかったのです。

ヒポクラテスが泣くぞ。

患者の病気だけでなく、自らの病気やかつての同僚とも闘っていたジョン。

1788年に、彼の念願がようやく叶うときがやって来ました。

増改築した自宅のうち、博物館スペースが完成したのです。

これまでジョンが集めてきた動物の全身標本や、早産のために亡くなった五つ子姉妹のアルコール漬け標本、奇病に冒された男性の骨などなど。

もちろん、その中にはチャールズ・バーンの骨格標本もありました。

”巨人”の行く末を知った人々は、空恐ろしさとジョンの探究心、どちらを強く感じたでしょうね。

さらに斬新だったのは、標本の並べ方でした。

この時代のことですので、ジョンも「白人が最も優れた人種である」と考えており、人間の頭蓋骨を並べたコーナーでは、最上位に白人のものを置いていました。

その次にアフリカ人の頭蓋骨が置かれ、その次にサルの頭蓋骨を置いていたのです。ジョンはヒトとサルの頭蓋骨を比較した結果、

「サルは獣と人間の中間段階に位置している」

と結論づけたのでした。

現代の我々は進化論を知っていますが、チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表したのは1859年のこと。

それより70年も前に、ジョンは同じ考えを世に出していたのです。

もちろん、この博物館は世間の注目を集めましたが、大々的に認める科学者はまだ現れません。

ジョンは見学会を年に二回開き、それぞれの客層を限定することにしました。

5月には貴族やジェントリ層、10月は医者や学者というようにです。

客に合わせて説明の仕方を変える必要があるから、という理由もあったでしょうけれども、1789年のフランス革命が影響したと思われます。

ジョンは医学や生物学については革命的でしたが、王政に対しては忠実でしたので、革命派にこの素晴らしいコレクションを見せたくなかったのです。

そのため招待客のメンバーは厳選されていました。

前述の通り、彼は王の侍医や軍医としての面も持っていましたので、「革命派だと疑われるようなことは避けたい」と思っていたのかもしれません。

王室と敵対すれば、以前からジョンに好意的ではない医師たちを調子づかせてしまいますし。

 

突然の死去

1788年に若い頃の恩師パーシヴァル・ポットが亡くなり、ジョン・ハンターのもとにはさらに患者が集まるようになりました。

この頃になるとジョン自身の健康も悪化しており、義弟のエヴァラードを代診に向かわせることも増えたようです。

これがエヴァラードに過信を与える結果にも繋がるのですが、それは後述します。

一方で、良い出会いもありました。

1792年、17歳のウィリアム・クリフトという新たな助手を雇い入れたのです。

彼は幼い頃に両親を亡くした苦労人でしたが、絵の才能を持っており、使い走りの仕事にも懸命に取り組む勤勉な人でもありました。

ジョンの兄と区別するため、以降は彼のことを「ウィリー」と呼びましょう。

ジョンは解剖図や症例の記録を描かせるため、ウィリーに絵の先生をつけました。

ウィリーもよく応え、ジョンの口述筆記や原稿の清書を丁寧に行っています。

仕事をこなすごとにウィリーはジョンヘの尊敬の念を強め、それは後年まで長く続きました。

ウィリーがやって来たのと前後して、エヴァラードは聖ジョージ病院で職を得るため、義兄のジョンの力を求めました。

同院の常勤医に空きが出たため、役員選挙で多くの票を得られれば、その地位を得られる状態になったからです。

しかしこの病院では未だにジョンに対する反発が強く、エヴァラードは落選。彼はこのためかジョンを深く恨み、先述の過信と相まって、後々とんでもないことをやらかしてくれます。

1793年になると、ジョンの力が及ばないところの影響を強く受けることになりました。

フランス革命戦争でフランスとイギリスが交戦状態になったため、軍の医療体制を監督する仕事が増えてしまったのです。

そんな中で、とあるスコットランド出身の医学生二人が

「聖ジョージ病院でハンター先生の実習を受けたい」

と願い出てきました。

聖ジョージ病院で見習いをしないと、ジョンの実習を受けることはできません。

しかし、規則よりも実利を取る主義のジョンは、同郷のよしみもあってか、上層部に掛け合うことを約束しました。

10月16日、ジョンはいつも通りの仕事をこなした後、聖ジョージ病院の役員会議でこの件を提言。

しかし相変わらず反ジョン派の医師は人格攻撃まで交えて反対してきました。

これに対して怒りすぎたのか、ジョンはここで狭心症の致命的な発作を起こし、その場で命を落としてしまうのです。本人としても無念だったに違いありません。

遺体はすぐに自宅へ送られました。

当日の朝まで元気にしていた師の変わり果てた姿を見たウィリーや、ハンター邸の人々は大きな衝撃を受けたことでしょう。

検死は義弟エヴァラードの手で行われ、ジョンの心臓に狭心症を長く患っていた結果がはっきりと現れていたといいます。

実は1788年にエドワード・ジェンナーが同様の患者を検死したことがあり、どのような状況になるかがわかっていました。

しかし彼は恩師が狭心症を患っていることを知っており、「ショックを与えたくない」という気遣いから、本人には知らせていませんでした。

その代わりジョンの助手の一人にこれを知らせていたらしく、ジョンの死後にその人から「あなたの言っていた通りだった」と連絡が来たそうです。

それがエヴァラードなのかどうかがはっきりしないのですが、この後、彼がやらかすことからすると、こんな重大なことを捨て置いていたとしてもおかしくない気がします。

 

義弟の裏切りと誠実な弟子

ジョン・ハンターが死亡した際、妻子は長期旅行に出かけており、家を留守にしていました。

主人がコレクションのための出費を惜しまなかったため、ハンター家には経済的余裕がなかったのですが、妻子の楽しみは制限していなかったようですね。

ジョンにとってコレクションは仕事というより自分の楽しみという面もあったでしょうから「お互い様」ということかもしれません。

しかしそれは、ジョンの死によって莫大な借金を残すことにもなりました。

彼はコレクションを国に買い上げもらうことで、家族の収入を確保できると考えていたのですが、運悪くフランス革命戦争が起こってしまい、イギリス政府は戦費の調達に四苦八苦。

コレクションの買い上げどころではなくなってしまったのです。

そのためジョンの息子は医学校を中退せざるを得ず、娘は急いで結婚し、妻アンは慣れない仕事に出ることになります。

コレクションの存続も怪しいところでしたが、エヴァラードが遺言の執行人を務め、ウィリーがその下働きをし、何とか守られています。

エヴァラードは社交性を活かして貴族社会に食い込み、王太子ジョージ(のちのジョージ4世)と飲み仲間にまでなり、ついにはナイトに叙任されています。

ジョージ4世/wikipediaより引用

しかし、その間にジョンのコレクションについて何か動いたかというと怪しいところ。

アンはエヴァラードの姉だというのにひどい話です。

一方、ウィリーは師匠の残した文書類をできるだけ多く残すため、少しずつ清書を続けました。

その努力が認められたのでしょうか。1799年になってようやくコレクションが政府に買い上げられ、王立外科医師会の監督下に入った際、ウィリーはその学芸員に任じられています。

これで彼は安定した収入を得られるようになり、1801年に結婚して生活も安定し始めました。

しかし、このあたりからエヴァラードが怪しい動きをし始めます。

ウィリーに対し、ジョンの残した文書を全てよこせと言ってきたのです。現代の我々からしてもヤバそうな感じがしますが、ウィリーもそのように思っていました。

返答をできるだけ引き伸ばしたものの、催促に負けてウィリーはエヴァラードの言う通りにしました。

そして時は流れ、1823年。

たまたまエヴァラードとウィリーは馬車で相乗りすることになりました。

するとエヴァラードは「先日自宅が火事になってね」と、何の気無しにつぶやきました。

もう嫌な予感がしますね。

ウィリーが話を合わせて出火原因を聞くと、「ジョンの原稿を焼いていたのが燃え移った」という始末。

エヴァラードに渡した原稿の中には、ウィリーが書き写せていなかったものも多く、彼は長年に渡って返還してもらえるように苦心を重ねていました。

しかしエヴァラードはそれに応じず、あまつさえ焼いたというのですから、ウィリーは悔しさも悲しみも増したことでしょう。

この件は王立外科医師会にも取り沙汰され、エヴァラードは「亡くなる直前、ジョンに言われていたので」と言い訳しましたが、そもそも彼はジョンの死に立ち会っていません。

本当だったとしても、実行までに時間が経ちすぎています。

さらにいえば、エヴァラードはジョンの死後論文を乱発していました。

もうわかりますよね。

エヴァラードはジョンの原稿を盗用して、自分の成果であるかのように発表し、その証拠を隠滅するために元の原稿を焼いたのです。

同じ発表するならジョンの名前を出しておけば「忠実な後継者」として認められたものを、なぜいちいち悪事を働こうとするのでしょうか……。

その後1832年にエヴァラードは亡くなるのですが、死因は「酒浸り」だったそうで。盗用までして出世したくせに惨めすぎますね。

一方、ジョンに忠実であり続けたウィリーはコレクションのガイド役を務め、3万2000人もの訪問者に師の功績を伝えました。

焼失を免れたジョンの原稿の清書も続けており、彼もまた大きな貢献者といえます。

ウィリーによって守られたジョンのコレクションは、現在「ハンテリアン博物館(公式サイト→link)」として公開されています。

2023年にリニューアルしたそうですので、以前訪れたことがある方も、再訪を考えてもいいかもしれませんね。


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【参考】
ウェンディ・ムーア/矢野真千子『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (河出文庫)』(→amazon
日本大百科全書(ニッポニカ)

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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