ジョン・ハンター

ジョン・ハンター/wikipediaより引用

学者・医師

巨人症の遺体を付け狙うことも ジョン・ハンター 人体への執着が医学を発展させる

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聖ジョージ病院の外科医に

ジョンは研究のために惜しみなくお金を使ってしまうため、なかなか結婚資金が貯まりませんでした。

そこで1768年11月に聖ジョージ病院の外科医の席が一つ空いたため名乗りを上げたところ、役員投票で選ばれてやっと公的な職と安定した収入を得られるようになります。

この病院は慈善事業だったため、外科医としての給料は出ません。

しかし実習生の指導料などの副収入があり、さらには肩書によって富裕層からの依頼が増えたため、間接的に収入が増えるきっかけとなりました。

通常の回診や手術などもこなしながら、常勤職員としての生活に慣れた1769年10月、難産の妊婦マーサ・ローデスが担ぎ込まれてきました。

骨盤が狭すぎて通常の分娩ができず、助けるためには帝王切開しかない――そう判断されるも、この時点では出産中に亡くなった女性にしか行われたことがなく、イギリスでは母子ともに生存した報告はひとつもない……という、特殊過ぎる手術でした。

執刀医はロンドン病院のヘンリー・トムソンで、ジョンは解剖の腕を買われて助手を務めることに。

手術開始前には、マーサに鎮痛のためアヘンを飲ませていたそうです。

アヘンは全身麻酔ほどの効果はありませんでしたが、マーサは我慢強く耐えたらしいので、母の愛と根性に頭が下がります。

結果として、マーサは手術から数時間後に亡くなり、新生児も亡くなってしまったのですが……。

遺族は二人の遺体の検死を了承し、その結果は王立協会に報告されました。

ジョンはこの後、1774年にもう一度帝王切開の手術を試みています。このときも産婦は亡くなってしまったものの、新生児を生き延びさせることに成功しました。

マーサの際の経験が活きたのかもしれません。

やはりリスクが高すぎたためか、この後しばらくの間イギリスでは帝王切開が行われませんでした。

初めて帝王切開で母子ともに生還させられたのは、1793年のジェームズ・バーロウという医師です。

彼はジョンの弟子の一人チャールズ・ホワイトを助手にして執刀したとか。ジョンとしても鼻が高かったでしょうね。

 

愛弟子エドワード・ジェンナー

1770年10月、ジョン・ハンターは生涯の友とも呼べる人物に出会います。

エドワード・ジェンナーです。

彼は聖ジョージ病院の実習生としてロンドンへやって来て、ジョンの家に住み込みで教えを受けるようになり、手術の助手や往診の付き添いもし、知識と技術をどんどん吸収。

ジョンもエドワードを非常に可愛がり、「自分の頭で考えること」を大切にするよう教え込んでいます。

エドワードはのちに天然痘ワクチンを開発し、論文を発表するのですが、その中でジョンについても少し触れています。

ロンドンでの都会ぐらしが肌に合わず、三年ほどで故郷のグロスターシャーに帰ると、その後も文通や標本などの贈り合いが生涯に渡って続きました。

ちなみにエドワードは詩や音楽にも関心があったため、アンの話し相手にもなったそうで……エドワードの詳細については以下の記事をご覧ください。

エドワード・ジェンナーと天然痘~恐怖の病を根絶できたキッカケは牛だった

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カンガルーの研究と私生活

1771年7月、エンデバー号がイギリスに帰還したと聞いたジョン・ハンターは、持ち帰った生物の目録作りにエドワードを推薦しました。

一部の標本はジョンにも与えられ、中でも目玉といえたのがカンガルーの骨。

肉は船員たちが現地で食べていましたが、ジョンはいつも通り骨を見て喜び、今までの動物とは似ても似つかないことを理解したそうです。

全身標本は20年ほど後になってから届き、カンガルーがオーストラリアの固有種であることが判明。

1786年に「動物界に関する初見」という本にまとめて発表しています。

現代では人間の医学と動物医学は完全に分離されていますが、ジョンにとっては境目がなかったようです。

エンデヴァー号が戻ってきたのと同時期に、ジョンはいよいよ結婚することにしました。婚約から7年もの時間が経っており、よくアンもホーム家の人々も待ったものです。

1771年7月22日に結婚式が挙げられました。

ジョンは43歳、アンは29歳。当時としては遅めの結婚です。

クックらも式に参列し、航海の手土産のひとつだったヒッコリーの木材を新婚夫婦に贈ったといいます。

ジョンはこれを使って、妻のためにダイニングセットを作らせたとか。ラブラブですな。

1772年6月には二人の間に男子が生まれ、さらに助手のウィリアム・リンや、義弟エヴァラードを家に迎え、にぎやかな家庭ができました。

アンは夜会を開いて女流文学者や作家・芸術家との交流を続けており、その中には作曲家として有名なヨーゼフ・ハイドンの姿も。

ちなみに、ハイドンは後年ジョンの手術を断って後悔しています。鼻のポリープだったので、「目に見える範囲にメスを入れる」という恐怖に耐えきれなかったようです。

ジョンは、妻の友人たちとは挨拶だけで済ませ、自分の仕事に没頭していました。

この夫婦はお互いの領域に口を出さないようにしており、だからこそ年が離れていた上に婚約から結婚まで時間が空いても、破談せずにいたのでしょう。

時には妻とともに観劇や食事会に出かけることもあったそうですので、この夫婦にとってはそのくらいの距離感が適切だったのでしょうね。

ジョンとアンの間には四人の子供が生まれ、生き延びたのは長男のジョンと娘のアグネスだけでした。

ジョンほどの知識と経験があっても、乳幼児を無事生き延びさせることは難しい時代だったのです。

 

後進の育成を意識し始める

1772年の秋、ジョン・ハンターはこれまでの経験や考え方を人に教えようと思い始めました。

実子を授かって、人を育てることや、自分が老いた後、あるいは死後のことに強く目が向くようになったのかもしれません。

それまでも聖ジョージ病院の実習生がジョンのもとで学んでいましたが、同僚の外科医にも無料で口座を開いてはどうかと提案しました。

病院を治療する場所だけでなく、将来の外科医を育てる場所にしようという発想です。

病院の役員や同僚たちからはなかなか同意を得られないでいる一方、実習生たちのほうがジョンの意見に賛同。

そこで仕方なく、ジョンは自宅で講座を開くことにしました。

かつて兄と一緒にやっていた私学校と同じように、病院の外で外科医を育てようと考えたのです。

特に重視したのが、以下の通り。

・人体は正常なときと病気の時でどのように変わるのか、という生理学

・がん以外の病気や症状については、できる限り手術を避けること

・『定説だから』という理由だけで従来行われてきた治療法を使わないこと

当時は下剤や嘔吐剤、瀉血がやたらと使われており、それで患者が弱ってしまうことも多々ありました。

特に瀉血万能説は根強く、医師が拒否しても患者が求めてくることもあったそうです。

ジョンは相変わらず講義は苦手でしたが、斬新さやユニークさ、そして質問に丁寧に答えることで生徒の心を掴みました。

また、定説を疑うことを勧める一方で、自分の失敗についても話しました。

ジョンの講義で感銘を受けた医師たちは、その後、医学の考え方を大きく変えていくことになります。

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